戦をする為に生まれ、勝利の為に敵を滅ぼす・・!古代中国史において「春秋戦国時代」と呼ばれる時代がある。儒学の始祖:孔子が書いた「春秋」及び、前漢の学者:劉向が書いた「戦国策」を由来とし紀元前770年から550年間。紀元前221年に秦国が中華統一を果たすまでの長き動乱の時代。春秋時代末期に秦国に現れた稀代の英傑:白起。後の世で戦国四大名将を選出した言葉「起翦頗牧」の「起」とは彼のことであり戦国の名将を上げるとなるとまず第一に名が上がるのが白起である。前半生は全くの不明であるが記録として残るのは始皇帝「嬴政」の曽祖父「昭襄王」に仕え、秦国の将軍として各地を転戦したということ。戦力比2倍の韓・魏・周の三国連合軍と戦い圧勝。24万人を斬首。続いて秦に次ぐ大国であった楚を攻めて圧勝。首都陥落の事態に追い込んだ。さらに魏を攻めて韓・魏・趙の三国連合軍と戦い圧勝。14万人を斬首。続く趙国との決戦「長平の戦い」では、同じく戦国四名将:廉頗率いる趙軍が迎え撃つが超の内部事情で廉頗が更迭され、白起相手に無謀な攻勢を取った。これを手玉に取った白起によって趙軍は壊滅。捕虜40万人を生き埋めにした。あまりにも強すぎる白起に対して秦国宰相:范雎は味方といえども恐れ、陥れるように讒言を続けた。白起は范雎の行動の怪しさから、国家存亡の危機に面した際にも出兵を拒みこれらの行動は白起への不信に繋がっていく。・・そしてとうとう最後に、主君:昭襄王から賜わったものは「死」であった。始皇帝「嬴政」が秦国の王位を継承した時点で秦国が中華の覇者となるのは確定していた状態であった。それは、白起が周辺諸国の戦力を著しく潰していたからとされている。長兄の英傑大戦: mylist/73130055