マイリスト 長兄の英傑大戦
セシールmk-3 さんの公開マイリスト ・毎回デッキを変えて戦国大戦 ・幕末時代は無知もいいところだったので、これを期に絶賛勉強中 ・平安時代も勉強できていいぞこれ^~ ・なにっ 春秋戦国時代の勉強もできるぞこのゲーム! 英傑チーム名「長兄とえいけつ!」 PW「285002」 [加入条件 ※以下をご了承頂ける方] ・月一程度のプレイがある方ならそれでOKです。 ・上記に関連して完全停止状態の方でなければノルマはありません ・まぁチームリーダー自身のプレイ頻度も確約出来んのやけどなブヘヘヘヘ
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第181回:河内源氏「破天荒争奪戦」】
戦うために戦う修羅よ・・この私に力を貸せ!天に二つの月はなく、地に二人の王はいない・・・!九郎ぉ~・・・言うこと聞いてよぉ・・・おい義経ぇ!貴様だよ!!清和天皇を祖とする清和源氏。後に妖魔退治の伝説を残す源頼光を輩出した源氏である。その清和源氏から派生し、当初は河内国を拠点とした一流:河内源氏。初代当主:源頼信。(その後、初代頼信の時代に関東を基盤に栄えたことが、頼朝たちの拠点が関東にある理由である)河内源氏の血脈を継いできたのが源義朝であり、その子たちであった。平家の世となった後、以仁王の令旨を発端にして日本各地での反平家諸勢力蜂起が開始され河内源氏嫡流:源頼朝を旗印として、後の世で「源平合戦」と呼ばれる内乱が勃発する。源義経・源範頼ら頼朝の弟たちは「壇ノ浦の戦い」にて平家を滅亡へと追い込むことに成功。しかし、義経の独断専行を危険視した頼朝は義経を糾弾し、奥州合戦にて義経を自刃に追い込んだ。さらに範頼に謀反の疑いを掛けて流刑、一説ではその後、誅殺した。その後、日本史上初の武家主体での政権組織「鎌倉幕府」を完成させたが頼朝が自身の身内を始末していたことが原因となり、源氏以外の家臣団による政権闘争が発生。将軍の地位は軽んじられ、源氏将軍は僅か三代で絶えた。将軍の実権に至っては頼朝のたった一代だけで終わっていたのであるーーーーーー英傑大戦ver1.6平安時代源平合戦と呼ばれる戦いを描いたver終結。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:29|2023年12月06日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第180回:五条橋の小天狗「幕末の風雲児争奪戦」】
天地全てが、牛若の征く道と知れ!河内源氏六代目棟梁:源義朝。その九男:源義経。幼名を牛若丸。稚児名を遮那王。母は義朝の側室:常盤御前。後の鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝は彼の異母兄である。義経の人生の転換期は「平治の乱」である。この戦いを引き起こした上で敗れた父:義朝は郎党の身内に討たれるに至った。母:常盤御前と共に避難するも祖母(常盤御前の母)が人質に取られたことで平家側に降伏。父の罪を子に被せなかった清盛の恩情によって助命され、鞍馬寺に預けられ、遮那王の名を与えられた。(伝説では、この時に鞍馬山に住む鞍馬天狗に剣術修行を施されたとされる)成長後、京に降りた牛若丸は、町民から噂を聞きつけた。「京都五条橋にて道行く武士を襲って武器を奪い続ける謎の男がいる」と。雅に横笛を吹きながら五条橋に向かうと、破戒僧、荒法師のような男が立っていた。噂通り、太刀を置いていくことを迫られた牛若丸はこれを拒否。怒った荒法師は薙刀で牛若丸を斬りつけたがヒラリヒラリと身をかわし果ては橋の欄干を飛び跳ねて、荒法師の攻撃は全く当たらなかった。疲れ果てた荒法師は、牛若丸に降参。そこで牛若丸はこの豪傑を臣に置くことを決めた。その男の名は武蔵坊弁慶。栄光を手にした後に破滅へと向かう牛若丸こと源義経がその生涯を終える直前まで命を懸けて戦い続けた忠臣との出会いであった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:46|2023年12月02日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第179回:武士の指揮「幕末の風雲児争奪戦」】
我が辣腕、ここに示す!保元の乱:朝廷の後継争いに端を発すこの戦いで、為義とその嫡男格:義賢は、義朝と対立。義賢は義朝の長男である義平に攻められ敗死してしまう。義賢の遺児である駒王丸(当時2歳)は斎藤実盛の手によって助け出され信濃国豪族:中原兼遠に預けられた。この駒王丸こそが後の源義仲である(信濃国木曽谷の地名から木曽義仲を名乗った)それから25年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際これに誰よりも早く呼応して攻め上がったのが木曽義仲でありその忠臣が手塚太郎金刺光盛(てづか/たろう/かなさし/みつもり)。通称:手塚光盛である。源平合戦における大規模戦闘「倶利伽羅峠の戦い」において一説では十万にも及ぶ平氏軍は、数千騎の木曽軍に大敗を喫してしまう。平氏軍は体勢を立て直すべく篠原に陣を敷き休息を取ったが木曽軍が襲来。4万対5千とされるこの「篠原の戦い」でも平氏軍は大敗を喫した。平氏軍が総崩れになった後、一人の武将が大将鎧を借りて殿軍を引き受け奮戦。追撃を行っていた手塚光盛はこの殿軍と交戦するも、相手は名乗りを上げずに戦い続けた。衆寡敵せずとうとう平氏殿軍は討ち取られたが大将鎧を着ていながら後に続く兵も無く、見捨てられたような状態であったことから不信に思った光盛は、この武将の首を木曽義仲と共に改めた。黒髪であったこの将の髪は、水で洗うと白髪へと変わり、老将であったことがわかった。突如、この首を見た義仲はその場で号泣しだしてしまう。この殿軍を引き受けた勇将は、義仲の命の恩人:斎藤実盛であった。手塚光盛もそうとは知らず、義仲の心情を思い涙を流した。光盛はその後、義仲が破滅に向かった後も、最期まで付き添って討死にしたという。ちなみに漫画の神様:手塚治虫氏の先祖。彼がベレー帽を被っているのはそれが由来。(手塚治虫氏も自身の漫画「火の鳥」で手塚光盛を出した際、自分の姿を模させている)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:46|2023年11月28日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第178回:大胆なる弾圧「幕末の風雲児争奪戦」】
一度食らいついたら、離れんぞ!土佐藩士にして土佐藩参政:吉田東洋の義理の甥:後藤象二郎。後の板垣退助とは幼少の頃からの幼馴染であり吉田東洋が開いた鶴田塾では、後の三菱財閥創始者となる岩崎弥太郎と共に学問を修めた。東洋に推挙される形で土佐藩幡多郡奉行に抜擢され、大坂藩邸の普請奉行に昇進するが東洋が土佐勤皇党に暗殺されると失脚。政治的不利に陥ったことから一旦勉学の為に江戸に出て航海術を修めた後に土佐藩指導者である山内容堂に見込まれて藩政に復帰。公武合体を唱えていた象二郎は禁門の変後、山内容堂が土佐勤皇党弾圧に動いたことに便乗して(叔父の仇&失脚の恨みもある為)尊皇攘夷派の急先鋒である土佐勤皇党を弾圧。土佐勤皇党の盟主である武市半平太を断罪した。その後、坂本龍馬との交流から政治思想を公武合体派から攘夷派へ転換。坂本龍馬の船中八策を元に、幕府へ大政奉還建白書を提出しこれが受理されたことから幕府は大政奉還に踏み切った。上記から坂本龍馬への恩返しとして脱藩罪の取り消しを山内容堂に認めさせたという。明治維新後は政府要職のポストを得るが、政争(征韓論支持)に破れて辞職。以降は板垣退助と共に自由民権運動に参加して政府批判へと動くがそれと同時に内閣大臣へ就任するなどの行動は党や派閥を越えた政治家と評される反面前述の幕末時の思想転換と同様に「お前はいったい誰の味方なのか?」と批判を受けた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:46|2023年11月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第177回:裁きの槍/大地創造】
大切な想いを消すことは、誰にもできないんだ!男を見せろハーレクイン!王たる威厳と存在を、今こそ示せ!!リオネス王国随一の戦闘力を誇る反面、それぞれが大罪を背負う伝説の騎士団【七つの大罪】七つの大罪団員:妖精族・キング。本名:ハーレクイン。司る罪は「怠惰の罪(グリズリー・シン)」同じく七つの大罪団員:巨人族・ディアンヌ。司る罪は「嫉妬の罪(サーペント・シン)」物語開始当初はメリオダスに恋するディアンヌ。そしてディアンヌに恋するキングという間柄だったが物語が中盤に差し掛かろうとしたところで本来の二人の間柄が判明する。メリオダス-エリザベス間のテーマ「記憶」「異種族間の愛」はキング-ディアンヌにも共通している。-------------------------------------------------『七つの大罪』はシリーズ累計約5500万部を誇るヒット漫画。英傑大戦の作品コラボは、権利関係から基本的にアニメ名義での参戦となっているが今回のコラボはアニメ全四期のうちの四期(最終章:憤怒の審判)からの参戦なので裏面には思いっきり物語後半の核となるネタバレが記載されている。大戦シリーズとコラボに関しては戦国大戦の時点でエリザベスだけは竹林院名義で出演済(→sm25326917)だったりする。ちなみに作者の「鈴木央」氏はジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンとかつて四大少年誌と呼ばれていた少年雑誌の全てで連載経験がある稀有な経歴を持っており現在は七つの大罪の16年後を描く続編「黙示録の四騎士」が連載中。-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:48|2023年11月22日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第176回:ザ・ワン】
身を以て償わせてあげよう。心を弄んだ大罪を!リオネス王国随一の戦闘力を誇る反面、それぞれが大罪を背負う伝説の騎士団【七つの大罪】七つの大罪団員:エスカノール。司る罪は「傲慢の罪(ライオン・シン)」物語序盤にあたる王都奪還編までの間に登場していなかった唯一の七つの大罪団員。太陽と共にその力を増していき、正午1分間に至っては劇中最強クラスを誇る。(その反面、日没-夜明けまでの間は身長も縮こまり態度も謙虚になる)団長メリオダス本人談でも「(昼のエスカノールは)俺より強い」と称すほどであり強さと共に態度も増長していく為、昼のエスカノールに命令出来る者はいないが例外としてある人物ただ一人だけは、昼のエスカノールに命令(お願い)が可能。-------------------------------------------------『七つの大罪』はシリーズ累計約5500万部を誇るヒット漫画。英傑大戦の作品コラボは、権利関係から基本的にアニメ名義での参戦となっているが今回のコラボはアニメ全四期のうちの四期(最終章:憤怒の審判)からの参戦なので裏面には思いっきり物語後半の核となるネタバレが記載されている。大戦シリーズとコラボに関しては戦国大戦の時点でエリザベスだけは竹林院名義で出演済(→sm25326917)だったりする。ちなみに作者の「鈴木央」氏はジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンとかつて四大少年誌と呼ばれていた少年雑誌の全てで連載経験がある稀有な経歴を持っており現在は七つの大罪の16年後を描く続編「黙示録の四騎士」が連載中。-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
11:19|2023年11月18日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第175回:死神の一薙】
じゃぁ、遠慮なく一発ぶち込ませてもらうぜぇ!!リオネス王国随一の戦闘力を誇る反面、それぞれが大罪を背負う伝説の騎士団【七つの大罪】七つの大罪団員:バン。司る罪は「強欲の罪(フォックス・シン)」不死の体を持つことから不死身のバン(アンデッド・バン)の異名を持ち七つの大罪加入前は、その貧しい生まれから若き頃は盗賊稼業に身を落としており盗賊のバン(バンデット・バン)と呼ばれていた過去がある。あらゆる怪我を即座に治してしまう不死身の能力は生まれながらに持っていたわけではなく過去の「とある事件」が原因。-------------------------------------------------『七つの大罪』はシリーズ累計約5500万部を誇るヒット漫画。英傑大戦の作品コラボは、権利関係から基本的にアニメ名義での参戦となっているが今回のコラボはアニメ全四期のうちの四期(最終章:憤怒の審判)からの参戦なので裏面には思いっきり物語後半の核となるネタバレが記載されている。大戦シリーズとコラボに関しては戦国大戦の時点でエリザベスだけは竹林院名義で出演済(→sm25326917)だったりする。ちなみに作者の「鈴木央」氏はジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンとかつて四大少年誌と呼ばれていた少年雑誌の全てで連載経験がある稀有な経歴を持っており現在は七つの大罪の16年後を描く続編「黙示録の四騎士」が連載中。-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:02|2023年11月15日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第174回:健やかなれ】
諦めないで!私たち皆が、あなたの力になる!!かつてリオネス王国には、随一の戦闘力を誇るがそれぞれ何らかの大罪を背負った伝説の騎士団【七つの大罪】がいた。七つの大罪の失踪から10年の時が経ちリオネス王国は、お抱えの聖騎士団のクーデターによって亡国の危機に瀕していた。リオネス王国の第三王女:エリザベスは、七つの大罪に救援を求めて王都を飛び出し七つの大罪の団長:メリオダスに出会ったことから、物語は再び始まった。-------------------------------------------------『七つの大罪』はシリーズ累計約5500万部を誇るヒット漫画。英傑大戦の作品コラボは、権利関係から基本的にアニメ名義での参戦となっているが今回のコラボはアニメ全四期のうちの四期(最終章:憤怒の審判)からの参戦なので裏面には思いっきり物語後半の核となるネタバレが記載されている。大戦シリーズとコラボに関しては戦国大戦の時点でエリザベスだけは竹林院名義で出演済(→sm25326917)だったりする。ちなみに作者の「鈴木央」氏はジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンとかつて四大少年誌と呼ばれていた少年雑誌の全てで連載経験がある稀有な経歴を持っており現在は七つの大罪の16年後を描く続編「黙示録の四騎士」が連載中。-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055英傑チーム名「長兄とえいけつ!」 PW「285002」※上記マイリスト記載の条件を参照して頂いて、ご了承頂けるなら・・・
7:37|2023年11月12日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第173回:全反撃】
諦めんな!俺たち〈七つの大罪〉がいる限り!!リオネス王国随一の戦闘力を誇る反面、それぞれが大罪を背負う伝説の騎士団【七つの大罪】七つの大罪 団長:メリオダス。司る罪は「憤怒の罪(ドラゴン・シン)」七つの大罪の物語はメリオダスと憂国の王女:エリザベスの出会いから始まる。物語が進むにつれてこの二人の出会いは偶然ではなく遥か昔から何度も運命付けられていたことだと発覚。3000年前からの恋人にして、その時の記憶を取り戻すと死ぬ呪いを掛けられたエリザベスを救う戦いが始まった。-------------------------------------------------『七つの大罪』はシリーズ累計約5500万部を誇るヒット漫画。英傑大戦の作品コラボは、権利関係から基本的にアニメ名義での参戦となっているが今回のコラボはアニメ全四期のうちの四期(最終章:憤怒の審判)からの参戦なので裏面には思いっきり物語後半の核となるネタバレが記載されている。大戦シリーズとコラボに関しては戦国大戦の時点でエリザベスだけは竹林印名義で出演済(→sm25326917)だったりする。ちなみに作者の「鈴木央」氏はジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンとかつて四大少年誌と呼ばれていた少年雑誌の全てで連載経験がある稀有な経歴を持っており現在は七つの大罪の16年後を描く続編「黙示録の四騎士」が連載中。-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055英傑チーム名「長兄とえいけつ!」 PW「285002」※上記マイリスト記載の条件を参照して頂いて、ご了承頂けるなら・・・
7:19|2023年11月09日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第172回:忠臣の昂陣】
父上、我ら平氏は朝廷をお護りする家です。お目覚め下さい!我ら平氏が敵を平らげる!史上初の武家政治を作り出した平清盛。その長男:平重盛。清盛と清盛の最初の妻との間に出来た長子であり保元の乱/平治の乱に従軍し武功を上げた。特に平治の乱では、源義朝の長男である義平軍と交戦。※清盛vs義朝の互いの長男である重盛vs義平の状態。敵軍側に義平がいる場合は開幕特殊台詞となる また、その際の特殊台詞は平治の乱で義朝軍の鎮圧にあたっての史書での発言 「年号は平治、都は平安、我らは平氏、ならば敵を平らげよう!」を元としており 本文冒頭の計略台詞(「平」氏が「平」げる)もセガが勝手にダジャレを言わせてるわけではない。重盛は、清盛の長男(=嫡男)として本来はその跡目を継ぐ最有力者である人物である。しかし、母方の家格がそれほど高くはなく、それに引きずられる形で冷遇。そんな肩身の狭さでも清盛-朝廷間の仲の取り持ちに心を擦り減らしていたが自身と親密であった朝廷との取り次ぎ役が打倒平氏の首謀者であった事件(鹿ケ谷の陰謀)が発生し平家一門内での立場が完全に無くなってしまう悲劇に陥ってしまう。こうした心労が重なり、重盛は清盛よりも先に病死してしまう。その後、清盛は完全に暴走状態に陥り、朝廷から政治の実権を奪い取る「治承三年の政変」が発生。これらの朝廷を蔑ろにした平氏の横暴は、後の平氏打倒の号令「以仁王の令旨」に繋がっていく。・・・重盛という朝廷との調整役を失ったことが、平家滅亡の始まりとなったのである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:01|2023年11月06日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第171回:英知の祈り】
知を繋ぎ、紡いだ糸が皆を護るのです貴方、一人で背負い込まないで。私がずっと一緒です・・!中国地方の覇者、謀神:毛利元就の正室。妙玖。毛利三本の矢(隆元・元春・隆景)と五龍姫の実母。(妙玖は死後の法名「妙玖寺殿成室玖公大姉」から取っており本名は不明)謀聖:尼子経久配下の吉川国経の娘であり、幼少期の記録は無く毛利家の取り込みを画策する経久によって19歳で元就の正室として嫁いだ。つまりは元々は政略結婚であったわけだが、二人の夫婦仲の良さは本物であり妙玖が存命中は戦国大名として非常に珍しく側室を置かなかったほどである。(己が愛した正室以外を置かないという一途な愛は三本の矢にも 引き継がれ、隆元・元春・隆景も生涯側室を置こうとしなかった)当時の寿命前後となる47歳で生涯を終えることとなるが、若死とは言えない死であっても元就の悲しみは非常に深く、何日も自室に引きこもって泣き続けていたという伝承が残る。元就が子供たちに送った手紙や遺言にも度々彼女の名が出てきており死後も尚、毛利家の結束の中心になっていたことが察せられる妻(母)であった。あまりにも妙玖を愛しすぎていたこともあり、逆に晩年の側室との子に関しては「虫けらのように扱ってよい」と切り捨てた遺言を遺すほどであった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
10:10|2023年11月03日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第170回:一乗谷の栄華「姉川の戦い 浅井・朝倉軍」】
骨の髄まで、乱世を楽しまなきゃ南北朝時代から続く由緒正しき名家:朝倉氏。本拠を越前(現在の福井県周辺)に移した分流、越前朝倉氏第11代当主:朝倉延景。家督相続時には若年であった為、名将:朝倉宗滴の庇護を受け征夷大将軍:足利「義」輝から一字を拝領して、朝倉義景を名乗った。実権を握ったのは宗滴が没した後の22歳の頃とされる。その後、既に権威失墜していた将軍足利家との交流は続けていた朝倉家は足利義輝が暗殺された後、その身が危ぶまれた足利義昭の脱出を手助けして庇護。しかしながら義景は義昭を前面に出しての上洛に関しては積極的では無く急速に勢力を伸ばす新進気鋭の大名:織田信長を頼って義昭は出て行ってしまった。(喧嘩別れ、というわけではなく庇護の件を厚く感謝する礼状を残して行った)織田信長が義昭を御輿にして上洛すると、将軍の命令という名目で朝倉家の上洛を迫ったが義景はこの命令を2度に渡って無視。これを理由に信長は朝倉討伐を決行する。勢いに乗っている織田軍に対して苦しい戦いが予想されたが朝倉家との旧恩の仲を優先した浅井家が織田を裏切ったことで戦況は一変。撤退する織田軍を追撃するが、有力武将のほとんどを取り逃がしてしまう。その2ヵ月後、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍の雌雄を決する戦い「姉川の戦い」が発生。織田徳川及び浅井家は当主を総大将とし、決戦の場であることを強く意識していたが朝倉当主の義景だけは自身は戦場に向かわなかった。結果は榊原康政の奇襲によって浅井朝倉連合軍は総崩れとなり敗走することとなった。姉川後、浅井朝倉軍は織田との戦いで終始不利な立ち回りを強いられ他勢力を巻き込んでの対織田でチャンスはあったものの義景は積極的な軍事行動は取らなかった。信長の再侵攻を止める手段は既に無く、義景の号令に従う将もほとんどいなくなり最期は、従兄弟の裏切りにあって自刃したとされる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:19|2023年10月31日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第169回:無心の強襲「姉川の戦い 織田・徳川軍」】
いざ、尋常に勝負せん!徳川十六神将・徳川四天王・徳川三傑、その全てに名を連ねる徳川家康の忠臣:榊原康政同じく徳川四天王と称された酒井忠次。その酒井家に仕えていた榊原家に生まれた。桶狭間の戦い前後、13歳の時に松平元康(家康)の小姓へと抜擢され元康から一字拝領して「康政」を名乗り、榊原家の家督を継ぐ。(康政は次男であったが、出世を期待されて本来の嫡男格[長男]を差し置いての家督相続だった)榊原康政の名を天下に轟かせたのは彼が22歳の時。織田徳川と浅井朝倉の命運を分かつこととなった決戦「姉川の戦い」である。兵力差はほぼ互角(兵力的に織田徳川優位とも浅井朝倉優位とも諸説あり)のこの戦いにて戦線が伸びていた朝倉陣を康政が側面から奇襲。これが織田徳川連合軍勝利の決定打となり朝倉軍が崩れ、その勢いで浅井軍を打ち破った康政は第一功の活躍となった。その後、小牧長久手では秀吉の振る舞いを糾弾する檄文を送りつけ森長可・池田恒興という名だたる将を討ち取る活躍を見せるが関ヶ原の戦いでは秀忠軍の軍監として同行するも真田の機略によって遅参の失態を犯す。この時、全力で秀忠を庇ったことから秀忠は当然として家康からも一層信用され関ヶ原の戦功としてむしろ加増の話が出るが「関ヶ原遅参の責があるのに加増されたら他の家臣に示しが付かない」と受け取りを拒否。康政の忠義ぶりに何かを報いたい家康は代わりに神誓証文と呼ばれる証文を与えた。「徳川家は、未来永劫 榊原家を決して見捨てはしない」という内容である。140年後、徳川吉宗の倹約令に逆らったとして改易の危機に立たされた榊原家。(※第163回 高尾太夫主役回:sm42798984 を参照)改易を免れることが出来たのは、この時の神誓証文が提出されたからである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:16|2023年10月28日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第168回:多勢戦法/駿亀戦法】
新宮党を舐めんなよぉ!西国にて急進的に勢力を伸ばした尼子家。その尼子家の武を担う尼子家最強の精兵集団「新宮党」月山富田城の北麓:新宮谷を拠点にしていた為に付いた通称である。新宮党の総大将である尼子国久の嫡男:尼子誠久。父に劣らない武勇を誇る武将であったが、それを鼻にかける振る舞いが目立ち尼子家の中央集権を図っていた尼子当主:尼子晴久によって父共々誅殺された。(家内の武の勢力を排除したことで、尼子家はその後衰退の一途を辿ることとなる)ZEYO!!土佐藩藩士にして土佐勤皇党所属:望月亀弥太。勝海舟(神戸海軍操練所)の下で、坂本龍馬と共に航海術を収めており勝海舟の弟子、そして坂本龍馬の友人という類稀な交友関係を持っていたが長州藩過激派との交流を持ったことで、池田屋にて新選組の襲撃に遭遇。何とか池田屋からの脱出に成功するが、土佐藩邸にも長州藩邸も逃げ込めずに殺害された。明らかに名前のせいでミュータントタートルズにされている。「見た目は亀だが、歩みは速いぜ!」 亀井さんありがとうフラッシュ!!長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:38|2023年10月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第167回:下克上の策謀】
貴様らが消えた世界は、きっと骨のように綺麗だ・・!応仁の乱にて山名宗全側(西軍側)に属し、宗全死後に西軍総大将の立ち位置となりそのまま戦国時代において山陽・山陰・北九州等、計六カ国を支配下においた大内家。大内家の家臣として仕えていた陶氏の家督を継いだ武将:陶隆房(すえ/たかふさ)。大内家の第16第当主:大内義隆に寵愛され、青年期には武将へと取り立てられた。(名の「隆」房に関しても一字を義「隆」から拝領したものである)西国一の大勢力であった大内家であったが、中国地方にて台頭した尼子勢力に対して大内家は大敗。以降、大内義隆は軍事面への興味をすっかりと失ってしまい戦国大名としての大内氏は衰退の一途を辿っていこうとしていた。隆房は戦場を駆ける武将として大内家武断派を担っており義隆の非戦的な姿勢によって徐々に大内家での立場を失っていくこととなったのである。文治派との対立、そして主である義隆との関係は絶望的に悪化していきとうとう隆房は武力蜂起を決行。隆房の謀反に対して義隆及び文治派の対応は著しく遅く兵力5000~10000の隆房に対して、2000~3000の兵しか用意できず義隆は大寧寺に逃げ込んだ後に自害する結末となった。(大内氏の乗っ取りに成功した隆房は、義隆から一字もらった隆房の名を捨て、以後は陶晴賢を名乗る)大内氏の軍備強化を行った後に、晴賢はとうとう東へ軍を進める。当初、晴賢の謀反を支持する姿勢を取っていた毛利家へ侵攻を開始したのである。兵力2-3万の軍勢を以って必勝の構えで安芸国:厳島へ進軍するが大軍ゆえの足回りの悪さを突かれ、兵力4000-5000程度の毛利軍に陸海からの挟撃を受ける。これによって大混乱に陥った陶軍は数の利を活かすことなく大敗。下克上の体現者:陶晴賢は志半ばにて戦死することとなった(戦国三大奇襲戦:厳島の戦い)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:23|2023年10月22日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第166回:式神・天后】
いでよ戦河童!歌子!爆太郎! \は~い/ \いくぜェ!/平家最強の兵、王城一の強弓精兵こと平教経の妻(あるいは母):海御前(あまごぜ)実在したかどうかわからない伝承上の人物である。現在の福岡県北九州に伝わる河童の女親分が海御前という名で伝承されておりその正体は壇ノ浦の敗戦で入水自殺を図った平教経の妻の化身。海御前の遺体が福岡県に流れ着き、その遺体が河童の女親分になったという。(同じく入水自殺を行った平家の武将は平家ガニになったと言われている)海御前は配下の河童を河や海に放ち、源氏の者に限定して水に引き込むように命令しており蕎麦の花が咲く頃、蕎麦の花が白く源氏の旗色を示すことから避難してくるという。英傑大戦での海御前は流石に露骨な河童ではなく可愛い女の子だがゲーム内では赤河童の目しか映らないもののイラストには思いっきり河童が描かれている。おそらくはクール女子っぽい青河童が「歌子」で、目がイッテる赤河童が「爆太郎」だろう。※ちなみに歌子・爆太郎の字がわかるのは裏面の台詞に漢字で書かれているため長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:04|2023年10月19日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第165回:尽滅の号令】
よく見ておけ、この鍾会の才を!三国時代:魏国(後期)の武将、鍾会。字は士季。幼き頃から神童と噂され、僅か4歳であらゆる書物の暗唱を行えるほどで15歳の時には国内の高等教育期間:太学に入学するほどであった。実際に軍事に関係するのは曹髦(魏国第4代皇帝。曹丕の孫)の時代である。この頃、魏国の実権を握りつつあった司馬一族に対する反乱が頻発していたが司馬一族に従い乱の平定にあたったことで武功を得た。若くして武功をも得た鍾会は自身の能力の高さを誇示することが多くなり友人や主君からも謙虚であるように諭されたがそれらを聞き入れることは無かった。時代が進み、敵国蜀の北伐の失敗を初めとした国力低下を見抜いた司馬昭によって蜀漢征伐が開始される。鍾会を将軍として主軍10万を与え、さらに鄧艾(とう/がい)ら緒将も加えて総兵力16-18万からなる軍を編成し、十分な大軍にて蜀国との決戦に臨み圧倒的軍勢に加えて鄧艾の奇襲作戦も成功したことで劣勢に陥った蜀国の皇帝は即座に降伏した。ここで鍾会は乱世の覇者となる野望を叶えるために賭けに出た。鄧艾に謀反の疑いをかけて軍を掌握。さらに蜀国の将:姜維と共謀することでクーデターを図ったのである。しかし、司馬昭は鍾会の叛意に既に気付いており鄧艾逮捕の報告を受けたことを名目にさらなる大軍を率いて蜀国に接近しつつあった。鍾会は魏兵及び蜀兵を吸収しつつ蜀国の天然の要塞を利用して迎え撃とうとするが自軍将兵の反乱によって無事死亡した。明智光秀もそうだが、賢いはずなのにクーデター時に急に根回しがガバる伝統の流れである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:48|2023年10月16日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第164回:大海への出立】
ワンマンショー?いや、ジョンマンショーぜよ!アメリカ合衆国に訪れた最初の日本人。後に名乗る日本名:中浜万次郎。当時、庶民には姓が無く、土佐国の貧しい漁師の子:万次郎として誕生した。(後に翻訳家・教育家としても有名になるが、当初は読み書きすら出来なかった)漁師として生を終えるはずの万次郎だったが、ある時の漁で難破して漂流してしまう。無人島に流れ着き、ここで3ヶ月以上のサバイバル生活を送っていたところアメリカの捕鯨船によって救助された。これが大きな転機となる。そのまま船夫として働き、世界地図で見た日本の小ささに驚愕。世界を知るべくアメリカへ向かうことを望んだことで渡米を許され命の恩人である船長「ウィリアム・ホイットフィールド」の養子となった。漂流から10年後、鎖国状態であった日本に戻ることを決意した万次郎は琉球へ到着。島津家による尋問を受けた後に土佐へ帰郷。当時の日本から見ると貴重な見聞を持つ万次郎は藩校の教授に抜擢された。これらの万次郎の自伝は後に幕末を動かす坂本竜馬などの原動力となり噂を聞きつけた幕府にスカウトされ幕府直参の旗本となった。そして、日米間の通訳・仲介役となり、日米和親条約の締結に尽力することとなった。明治維新が成った後は現在の東京大学の英語教授に就任。その後、欧州・米国に派遣された。米国にて18年ぶりに自身のもう一人の父親にして命の恩人である船長に再会することとなる。...30年前にある捕鯨船に命を救われて、後の明治維新の原動力の元となった万次郎。あの時、自身を見つけ救助してくれた船と船長たちがいなければ一介の貧しい漁師として生涯を終え、この出世も歴史に名を残すことも無かった。その運命の船の名は 「ジョン・ハウランド号」万次郎は船名から名をもらい「ジョン万次郎」として後世に名を残した。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:35|2023年10月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第163回:操覇の舞い「壇ノ浦の戦い 源氏軍」】
わちきから目を逸らさないでおくんなまし!江戸幕府公認の遊郭(風俗街):吉原。関東が政権の中心となったのは鎌倉幕府以来の400年ぶりのことであり江戸には多くの浪人・大工といった男衆が集まって町を形成していた。(明暦の大火と呼ばれる大火事後、復旧工事のためにさらに男性比率が高くなる)江戸人口の2/3が男性となり、妻を持たない独身男性が多くなったことから遊郭吉原の発展に繋がっていった。その吉原で最も有名な遊女に当てられた3大名称がある。吉野太夫・夕霧太夫、そして高尾太夫。その名に相応しい女性が現れた際に自然と付けられる呼称である。第6代:高尾太夫こと榊原高尾。姫路藩の榊原政岑(さかきばら/まさみね)に寵愛されて2000両前後(現在価値にして約2億円)も出して身請けされるほどの美貌と魅力を持った女性とされ、姫路城内の屋敷に住むことを許された。しかし、時の将軍であった第8代将軍:徳川吉宗の発布した質素倹約令によって政岑の遊女巡りが倹約令違反ひいては享保の改革への反発と見做されてしまう。何とか改易は免れるものの強制隠居のうえで蟄居処分(※)。さらには僻地越後への転封処分まで受ける。高尾太夫も政岑に付き添い、政岑も転封先で心機一転 藩政改革に努めるが僅か2年で病死。高尾太夫は剃髪して蓮昌院と改め菩提を弔った。※蟄居(ちっきょ)簡単に言うと自室から出てくるのを禁じる・・というものだが最悪そのまま永久に解かれない場合もあり、そうなると実質終身刑である。外に出ていることがバレると改易(御家ごと武士身分剥奪)などに処される。やっぱし怖いスね武士文化は・・・長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:16|2023年10月10日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第162回:王城の羅刹「壇ノ浦の戦い 平氏軍」】
この一戦に、俺の命を捧げん・・!やっと会えたな・・源氏の大将、九郎義経ぇ!!平家最強の武士:平教経。通称:王城一の強弓精兵。(当時の戦場最強の武器は「弓」。「強い=弓が上手い(強弓)」ということになる)源氏最強の武士が源為朝ならば、平家最強の武士は平教経とされる。(両者とも堂々の武力10の弓兵。気合を持っていることから白兵野戦では平教経の方が強いが 為朝と教経が互いに弓を撃ち合うと同時に撤退するということで両者同格扱いとなっている)平清盛の甥として生まれ、平家物語においては義経の武に対しての平氏のライバルとして教経の名が登場する。各地で敗退を繰り返す平家軍ではあったものの木曽義仲配下の海軍に対して大勝を収めた「水島の戦い」の指揮官が教経である。(この敗戦によって義仲軍の勢いが止まり、義仲は破滅へと向かうこととなる)そして源平最後の決戦の場:壇ノ浦。既に趨勢は決した中で雑兵相手に奮戦するが、これを知盛に咎められる。ならばとせめて大将を道連れにしようと試みて源氏水軍大将:源義経を発見。相打ち覚悟の突撃を行うが義経は軽々と舟を飛び渡って去ってしまう(八艘飛び)その隙に源氏軍兵士が3人がかりで組み付くが1人を海に突き落としさらに2人を抱えて海に飛び込み道連れにしたという。壇ノ浦の混戦のさなかで源氏大将:義経を見つけた時の昂揚は英傑大戦でも「敵軍に義経がいる場合の開幕特殊台詞」でバッチリ表現されている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:25|2023年10月07日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第161回:贖罪の神速行】
この戦いで、我が罪を購おう!後漢末期、呉国の武将:凌統。父は同じく孫策に仕えた凌操。父:凌操は孫策・孫権軍の先陣として破竹の勢いで戦果を出し活躍していたが先代孫堅の仇でもある黄祖討伐の夏口の戦いにて、黄祖食客に討ち取られた。(後に、この男は黄祖を見限って孫権に下るが、凌統は父の仇として恨み続けた)父の死によって15歳で家督を継ぎ、さらに3年後に賊討伐軍に所属。賊との戦いを前にして、味方の将から侮辱された凌統はこれを斬殺した。決戦前に味方を殺したことによって処罰は免れない状況に陥ったことからいっそのこと戦死する覚悟で第一線にて戦ったことで勝利に貢献。味方の中で第一の大手柄となった関係上、処罰することが出来なくなり免罪された。その後、赤壁の戦いを初めとした呉国の名だたる戦いに従軍して功をあげ出世し呉国の世紀の大敗戦となる合肥の戦いでは総大将である孫権を逃がす為に奮戦。凌統自身も何とか生還し、孫権は凌統の生還を何よりも喜んだ。しかし、その数年後に病死したとされる(没年は諸説あり)三国志演義を初めとして、現代の三国志を媒介にした作品でも父の仇と凌統の確執は取り上げられる。英傑大戦での彼のイラストを見ると、不敵に笑う凌統の手前側に「腰に鈴を付けた謎の人物」が立っている構図となっており落城台詞に関しても未だ英傑大戦に登場していないある男を意識した発言を行うなどニヤッとさせられるものとなっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:14|2023年10月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第160回:謀将の密計】
うるせぇうるせぇ!やったもん勝ちだぁ!伊豆国豪族:北条時政。後の北条得宗家初代当主にして鎌倉幕府初代執権。平治の乱に敗れた河内源氏の嫡流、源頼朝が伊豆国へ流された際に北条家はこの監視役にあたった。そんな中で長女:政子が頼朝と恋仲となってしまった為に、当初これに猛反対するが最終的に二人の仲を許して源頼朝の義父として源氏と交友するに至る。壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだ後に、源頼朝の命によって京の守護を担い朝廷との交渉役を務め1185年 後白河法皇に対して幕府政権に不可欠な「守護・地頭の設置」を認めさせた。(現代教育ではかつて鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年としていたが 現在では「守護・地頭の設置=日本各地の統治・税収権を得た」1185年が鎌倉幕府の成立年とされている)そして1199年、義理の息子でもあった源頼朝が死去。これを契機に鎌倉幕府内で権力闘争が発生し時政は嫡男である義時と共に北条家によって幕府を牛耳ろうと画策。「梶原景時の弾劾」「比企能員の暗殺」手段を選ばずに政敵を排除し続けた北条氏は権力を増し続けて頼朝の息子である第2代将軍である源頼家を廃するほどになっていった。その後、時政の娘婿:平賀朝雅と、畠山重忠の嫡男:畠山重保が酒宴の席で喧嘩を起こしこれを見た時政の後妻である「牧の方」は自身の娘婿を支持。牧の方の進言によって時政は畠山重忠に叛意有りと虚報を流して討伐隊を編成。義時にも命じて畠山重忠を討ち取ったが、これは虚報であったことが発覚し義時は義兄弟であった重忠の首を前にして、父:時政との対立を決意した。幕府内の人心を失い焦った時政は牧の方と共謀して平賀朝雅を将軍に擁立させようとするが義時・政子という自身の子たちに妨害され、御家人の大多数が義時を支持したことにより時政は強制的に出家させられて追放。元の伊豆の地で隠居生活を送りそのまま、やっと掴んだはずの栄華とはほど遠い僻地にて死去した。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:56|2023年10月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第159回:盤上遊戯】
邪魔者は我が世界から消えてなくなれ!僅か5歳で天皇に即位した第74代天皇:鳥羽天皇。鳥羽天皇が14歳の時に祖父:白河法皇の養女であった藤原璋子(院号:待賢門院)が入内。その翌年には中宮(天皇の妻)となった。その後すぐに息子の崇徳天皇に譲位するが、白河法皇の院政全盛期であった為に鳥羽上皇には実権は無かった。白河法皇崩御後は今度は鳥羽上皇の院政の時代となり、白河法皇の養女であった藤原璋子は冷遇。代わりに寵愛されたのが藤原得子(ふじわらの/とくし[なりこ])(院号:美福門院)である。得子は藤原の生まれではあるものの上流貴族とは程遠く、本来皇后になれる身分ではなかったが鳥羽上皇に強く愛され、後の第76代天皇となる近衛天皇を出産。鳥羽上皇は自身と得子の息子を天皇にするために崇徳天皇(藤原璋子との子)を除した。親族の後ろ盾が無い得子は自身の基盤を保つために政敵であった璋子を呪詛の疑いで追放し自身に都合の良いように養子を取るなど、御家のためにも自身のためにも手段を選ばなかった。得子が招いた皇族血脈の混乱によって次期天皇争い:保元の乱が発生。ここでは本来敵側である清盛・義朝側に肩入れして勝利に貢献。続く平治の乱では本来味方である義朝から鞍替えして清盛側に付いて勝利に導いたが同年、得子は病死した。その後、武士による統治が始まっていくが保元の乱の発生自体が得子の処世術ゆえに起こった乱であるために得子は貴族政治の終焉を招いた人物として後生に名を残した。結果的に朝廷内の混乱を発生させたことから三大妖怪:玉藻前のモデルは美福門院とされている。英傑大戦内でもこの2名は各台詞がどれも同一の意味となっており彼女の全体イラストでは装束に日本古代文字(ホツマ文字)で「たまも」と書かれている。※あくまでモデルなので「きんとき」と同じく同時使用は可能である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:18|2023年09月28日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第158回:金太郎大車輪】
このマサカリで、ぶっちぎってやるよ!!平安時代中期の官人:下毛野公時(しもつけの/の/きんとき)※英傑大戦内の表記では「しもつけの きんとき」下野国(しもつけのくに:現在の栃木県周辺)出身にして若くして才覚を認められ藤原道長の随身(貴族外出時の近衛警備担当)にまで至った。歌舞を嗜み、騎射を得手とし、相撲使を務め、若くして多芸なる人物であった。さらには実直誠実な人柄を有していた為に近衛府官人「第一の者」と称されたが18歳という非常に若い年齢で死去してしまった。(死因は不明)この若くして亡くなった多芸なる人物「公時(きんとき)」は後に伝承となり同じく藤原道長に仕えて後世で伝説となった「源頼光」と合わせて語り継がれ「きんとき」は源頼光の従者であったと変わり、名も変わって「坂田金時(さかたの きんとき)」となった。伝説上の源頼光の従者:坂田金時のモデルが、下毛野公時ということであるが英傑大戦内では二人は別人という扱いとなっている為、同名制限は受けずに同時使用可能である。ちなみに頼光四天王と酒呑童子配下:大江山四天王は互いにそれぞれライバル設定があり渡辺綱⇔茨木童子、碓井貞光⇔金童子、卜部季武⇔メスガキ童子 は互いに特殊開幕台詞となる。残る坂田金時と虎熊童子は互いに特殊台詞が無いが、虎熊童子とのライバル設定は下毛野公時が対象。その為、下毛野公時⇔虎熊童子は互いに特殊開幕台詞が発生する。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:46|2023年09月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第157回:奉武の飛翔】
我が飛翔より、この戦は始まるぅぅ!!相模国豪族:三浦義明の末子にして十男:三浦義連。佐原城を拠点としたことから佐原義連と称され、三浦義澄の弟にあたる。平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。三浦氏は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。身内であろうと疑わしきは罰するほど猜疑心の強い頼朝は寝所護衛者を厳選。佐原義連はその武勇と誠実な人柄から寝所警護の十一人に選出され近衛衆となった。後に源義経軍に従い参戦した一ノ谷の戦いの勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」では崖の急さに怖気づく坂東武者を鼓舞するため真っ先に駆け下り、勝利を引き寄せたという。治承・寿永の乱、奥州合戦で武功を上げた義連は陸奥国会津四郡を与えられた。没年は正確には不明だが、少なくとも75歳まで生きたとされており兄と同じく長寿であった。後に三浦一族は鎌倉幕府内の政権争いで滅亡することとなるがこの佐原氏の血筋は残っており会津蘆名氏として戦国時代にも残る大名となった。(佐原義連の孫の代から蘆名氏となり、15代ほど後にKNGM兄貴が活躍する)三浦一族の例に漏れず非常に神仏に対する信心が深く、自ら満願寺を創建。観世音菩薩立像・地蔵菩薩立像・不動明王立像・毘沙門天立像等が安置されており現在でも国家指定の重要文化財、市指定の重要文化財となっている。これがイラスト内の佐原義連の背にある千手観音菩薩の腕群の由来である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:32|2023年09月22日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第156回:英俊豪傑】
軽い軽い!端武者ごとき、重忠の敵ではない!!鎌倉御家人の代表格:畠山重忠。誠実にして清廉潔白、質実剛健の武士を絵に描いたような人物であり「坂東武者の鑑」と評される。元は源義朝に従った坂東武者であったが、平治の乱にて義朝が討ち取られると一時平家へと従った。それから20年後、源頼朝が挙兵すると平家方として初め参戦。頼朝軍と合流しようとした三浦軍と交戦し、三浦家当主、三浦義明を討ち取った。この後、再起を図った頼朝に対しては由緒ある白旗を持参して速やかに降伏したとされる。(ここらへんの状況は、梶原景時と似た立ち回りを取っている)木曽義仲軍との戦いでは男顔負けの武力を持つ巴御前と一騎討ちを行い剛力自慢の巴御前を力で上回り、巴御前の鎧を素手で引き裂く膂力を見せて一騎討ちを制した。続く一ノ谷の戦いでは勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」にて真っ先に飛び出して行った佐原義連に続いて重忠は馬が怪我をしてはいけないと言って「馬を抱えて崖を下っていった」とされる。平家が滅んだ後は鎌倉有力御家人として梶原景時の排斥を求める連判状にも協力。しかし、自身の嫡子:畠山重保と北条時政の娘婿:平賀朝雅が酒席にて口論となりこれを境にして政敵であった北条時政が畠山重忠に謀反の疑いをかけた。時政はまず重保を暗殺して、重忠を別件にて鎌倉へ参集するように使いを出した。鎌倉幕府参集が自身を討ち取るための罠であり北条軍が自身に差し向けられたことに気付いた重忠は北条軍に立ち向かうことを決意。兵力100人程度の配下と共に戦うが、衆寡敵わず戦死した。この畠山重忠の乱は鎌倉幕府の忠臣を失う結果となり虚偽の謀反の疑いであったことがわかったことで義時は父:時政と対立。さらに時政の暴挙とも言えるこの事件によって時政から人心が一斉に離れていくこととなった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2023年09月19日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第155回:義仲四天王】
義仲様、最期まで供を致します!来い!弓矢がお待ちかねだ!お前たちの相手は俺だ!地獄谷へ落ちたな!あとは狩るだけだ!!木曽の選ばれし剛勇!義仲四天王!!力を合わせて、敵をぶっ倒すぜぇぇぇ!!平治の乱から25年。「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際木曽地方から破竹の勢いで京へ攻め入り平氏を四散させた英傑:木曽義仲。義仲の義父:中原兼遠の実子である中原兼平(今井兼平)。その兄にあたる中原兼光(樋口兼光)。僅か300の兵で義経軍2万5千人に立ち向かった根井行親。同じく父と共に戦った行親の六男、楯親忠。木曽義仲挙兵から付き従い、倶利伽羅峠の戦いの劇的勝利を初めとした義仲軍の快進撃に貢献。そして義仲と共に死を迎えた4人。彼らを称して「義仲四天王」と後世に伝えられる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:05|2023年09月16日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第154回:防護の号令】
殿が倒れぬ様、この沮授が支えましょう!すぐに倒れてはいけないよ・・じっくりと楽しまなきゃ・・!許攸・田豊と並ぶ袁紹軍参謀の一人:沮授。字は不明(伝わってない。わからないの意味で不明)冀州出身の学士であり、初めは冀州牧の韓馥に仕えたが、後に袁紹に仕える。後漢の帝である献帝を迎え入れることで天下号令の大義名分を得る策を進言するが政敵である郭図や淳于瓊の反対によってこの策は退けられた。(曹操が帝を擁して世論操作を行った策をこの時点で提案していた)袁軍の運命を決した戦いとなる官渡の戦いで、これまで袁家の名主であった袁紹に陰りが見え始め沮授と同じく名参謀として袁家を支えた田豊を不愉快な意見をしたというだけで投獄。敵軍の曹操の能力を評価していた沮授は官渡の敗北を予見し開戦前に一族のものに自身の財産を分け与えて、戦死する覚悟で出陣した。(そもそもとして沮授は曹操軍との決戦を待つように進言していたが、聞き入れられていなかった)官渡においては顔良を武将としては勇猛でありながらも指揮官としては偏狭なので外すべきと進言。(→進言は退けられ、結果、顔良は敵の策に嵌って戦死)曹操とは持久戦で睨み合って兵糧不足によって勝つべき。こちらの兵糧庫は警護を厳重にすべきと進言。(→進言は退けられ、結果、自軍の兵糧庫を襲われて敗北の決定打に)官渡敗戦後、沮授は曹操軍に捕らえられたが、その才を惜しんだ曹操に「自身に仕えないか」と尋ねられ「我が一族は袁氏に命を托している。もし貴方に情けあれば速やかに私を死なせていただきたい」と返した。曹操は「もっと早くお前に会って臣下に迎えていれば、容易く天下平定を成せただろうに」・・・と言い残し、惜しみつつも沮授を処刑したという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:08|2023年09月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第153回:不離一体】
もう離れません、一緒に行きましょう!伊豆国豪族、伊東祐親の娘:八重姫。源頼朝の最初の妻である。同じく伊豆国豪族であった鎌倉幕府初代執権:時政の義妹(正室の妹)であり第二代執権:北条義時の叔母にあたる。伊豆国豪族であった伊東祐親は平氏に属する立場であり平治の乱にて敗れて伊豆に流された河内源氏嫡流:源頼朝の監視役であった。(同じく頼朝の監視役であった伊豆国豪族の北条家に似た立ち位置と言える)後に北条政子と婚約する頼朝。北条家は最終的にそれを認める形を取ったが北条家とは逆に断固として源氏との交流を拒んだのが伊東祐親であった。伊東祐親が都市警護の任で上洛している際に頼朝-八重姫の間に男児が生まれた。京から戻った伊東祐親はこれに激怒。(監査役の自身の娘が、監視対象との間に男児を設けたのだから当然である)平家にこのことが知れたら一大事であるとすぐさま男児を処刑。さらに頼朝の暗殺に動いたが、頼朝は北条時政の邸宅に逃げ込み難を逃れた。(これにより、源頼朝と北条政子の縁が出来たわけだが・・モテすぎではないだろうか)この後の八重姫がどうなったかは諸説あるが、一説ではほとぼりが冷めた後に恋しい頼朝の様子をこっそり見に行った八重姫であったが頼朝と政子が恋仲となっており子供まで授かって仲睦まじく暮らしている場面を見てしまった為悲観の末、伊東屋敷へ帰ることはなく入水自殺したとされる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
9:14|2023年09月10日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第152回:躍動の祈り「破天荒争奪戦」】
ねぇ、どうしてそんなに哀しい目をしてるの?うわわ~~!お、鬼が出たぁぁぁー!ゆるキャラちゃん!とっつげきぃー!これは楽しくなってきたぞ~w浅井長政とお市の方の娘、浅井三姉妹末女:江。長政が自害した時、浅井三姉妹は織田家へ預けられたが、当時の江は赤子であった。成長した後は2度の政略結婚および離縁を経て後の徳川幕府第二代征夷大将軍:徳川秀忠の正室となる。非常に嫉妬深い女性であったともされ、秀忠は江の圧力によって表立って側室を持てずにおり江自体も娘を5回連続で出産(=世継ぎ無し)したことで苦しい立場に立たされた。しかし、6人目の子でついに男児(後の三代将軍:家光)を出産。最終的に2男5女を授かり夫婦仲自体は姉さん女房に敷かれる旦那像として仲睦まじかったという。英傑大戦では姉の茶々に続いて登場。姉を上回る最上位レアリティである。(茶々は豊臣の「淀の方」としてERが有り得るので後々に期待)由良御前以上に計略対象への豊富な特殊台詞が存在するカードとして登場となった。ちなみに裏面に「わたしの旅は始まったばかり! 江、Go!」と丸っこい文字で書かれており筆者(動画内の手前側プレイヤー)が「GOGOGO江!」とよく書いているのは半ばセガ公式の書き方である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:41|2023年09月07日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第151回:将軍の号令「破天荒争奪戦」】
徳川の誇りを見せつけよ!!徳川幕府第14代将軍:徳川家茂(いえもち)。紀州藩の第11代藩主:徳川斉順(なりゆき)の次男として誕生した。(・・とはいえ長男は死産であった為に、家茂が実質的な長男だったといって差し支えない)家茂が生まれる前に待望の嫡男の顔を見ることなく父:斉順は逝去。その為、家茂の叔父である徳川斉彊(なりかつ)が第12代の紀州藩主となっておりさらに斉彊も30歳の若さで死去した為に家茂が僅か4歳で第13代藩主となった。その頃、幕府内でも第13代将軍の徳川家定に嫡子が無く、またも後嗣問題が発生。これにより幕府内で次期将軍の検討が行われた。「徳川慶福(家茂)」「「徳川斉昭」「一橋慶喜」が次期将軍候補として挙げられており時の大老:井伊直弼が紀州藩南紀派を支持していた為に徳川家茂が第14代将軍に選定。これにより家茂は13歳で若き征夷大将軍となった。しかしそれより僅か1年半で強力な後楯であった自身の擁立者である井伊直弼が暗殺されさらに各地での激しい討幕運動によって幕府自体が窮地に陥ることとなる。幕府の威信回復の為に必勝の構えで進軍した第二次長州征討では近代装備/近代戦術を身に付けた長州軍に兵力差30倍の差でありながら惨敗。さらにはこの時、家茂の体調が急変し、ほどなくして僅か20歳で病死。この第二次長州征討の失敗は幕府権威の完全なる失墜を意味し後に続く鳥羽伏見の戦いの発生/惨敗に繋がることとなってしまった。ちなみに英傑大戦内の家茂がスカルマスクのような布を口元に付けているのは理由がある。家茂は大の甘党であったことから町民に比べ多量の甘いものを好んでいた。遺骨から見ると32本中の30本が虫歯であったことがわかっておりそこからイラスト内で口元を隠すスカルマスクに繋がっていると思われる。(急死の原因も偏食による脚気や心不全であるという説もある)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:00|2023年09月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第150回:得宗の指願「破天荒争奪戦」】
俺が許可する・・!不穏分子を排除せよ!!北条得宗家第2代当主にして、鎌倉幕府第2代執権:北条義時。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公。北条政子の弟にして、鎌倉幕府初代将軍:源頼朝の義弟にあたる。伊豆国豪族:北条時政(北条得宗家初代当主、鎌倉幕府初代執権)の次男として生まれ平治の乱に敗れた河内源氏の嫡流、源頼朝が伊豆国へ流された際に北条家はこの監視役にあたった。後に姉の政子が頼朝と婚約した為、源氏と北条家は奇妙な交友関係を築くこととなった。源氏挙兵の緒戦「石橋山の戦い」での敗戦で時政の長男:宗時が戦死したことで嫡男格となり壇ノ浦の戦いで平氏を破ったことで源氏による天下草創が進められ、その近臣に取り立てられた。頼朝が死去すると鎌倉殿の13人の一人として幕府内の政権争いを北条家が制すことに尽力。第二代将軍:頼家と時政の不和が発生すると、頼家を擁立した比企家を滅ぼし、頼家も暗殺。この時は親子で共同戦線を張っていたが、義時の義兄弟であった畠山重忠を征伐したことで時政と義時の対立が発生。姉:政子と共に時政の追放を計画した。畠山重忠は鎌倉幕府の忠臣であり、それをあやふやな疑いで討伐した時政を支持する者は少なかった。幕府内御家人の多くは義時に付き、時政はそのまま失脚/追放となった。その後、北条家打倒を掲げて挙兵した和田氏も滅亡に追い込んだ。第三代将軍:源実朝が暗殺されると、第4代将軍に頼朝の親戚であった藤原氏から藤原頼経を置いた。当時1-2歳であった頼経は完全にお飾りであり、ここで執権が実質的にトップとなる執権政治を完成。後に幕府の台頭を面白く思わない後鳥羽上皇による「承久の乱」が発生するが初代将軍:頼朝の正室にして姉の政子による演説もあって鎌倉御家人の一致団結に成功し朝廷軍を完膚なきまでに撃破して、処罰を与えた。平安時代において公家の駒でしかなかった武士。(群雄伝の平氏伝・源氏伝の1章が顕著)その「武士が皇族を処罰する」という完全に立場が入れ替わったことを世に知らしめたのである。武士の世になったことを天下に示した義時は、承久の乱から3年後にこの世を去った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:49|2023年09月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第149回:破戒僧の警衛】
主の邪魔をする奴は、叩き潰してやるぜ・・!源義経の郎党の一人:武蔵坊弁慶。一次資料における弁慶の出自はほとんどが不明であり明確にどのような立ち位置だったのか何をした人物なのかわかってはいない。今日に知る弁慶の人物像は後世の創作物におけるものであり創作の中では義経の第一の郎党として活躍する知勇併せ持つ人物とされている。出生において母の胎内で18ヶ月過ごして生まれた時には既に2-3歳時の姿であった。この異常な出生から鬼子とされたが助命され、鬼若の幼少名で過ごした。後に比叡山に預けられて一時僧侶となった縁で、武蔵坊弁慶を名乗ったとされる。僧侶とは程遠い乱暴狼藉で各寺を追い出され続けた弁慶はある祈願を行った。「京都にて道行く武士から武器を千振り奪い続ける」という無茶苦茶な決意である。999振目まで武器を奪ったが、五条大橋にて1000振目を奪うべく若武者に襲い掛かるがこの優美可憐な男の身のこなしに追いつけず、ついに弁慶は降参してしまう。この男こそが終生の主となる若き頃の源義経であり、彼の従者として仕えることを決めた。さらに後に、平家が滅び、源氏内では頼朝と義経の不和が決定的なものとなる。この時の京を落ちて奥州藤原氏へ助援を願いに向かう途中の関所でのやり取りでは弁慶は何も書かれていない「勧進帳」を読み、主を叩いてでも難所を突破する機転を見せた。そのおかげで奥州藤原氏に匿ってもらったのも束の間藤原氏の代が代わってからしばらくして頼朝の怒涛の圧力によって奥州藤原氏の裏切りが発生。衣川の戦いと呼ばれる義経追討戦の戦力差は500対10。もはや戦と呼べるものではなかった。次々と郎党が討たれていく中で、主の最期の時間を稼ぐべく義経の篭る堂の前で、次々と矢を放たれるも弁慶は倒れることなく応戦し続ける。そして立ったままの弁慶が動かなくなったことから彼の体をあらためると、既に絶命していた。主のために文字通り死んでも倒れなかった忠臣ぶりから「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:37|2023年08月29日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第148回:大岡裁き】
見やれ、これぞ神妙なる大岡裁き!徳川幕府第八代将軍:徳川吉宗の側近にして、大江戸南町奉行:大岡越前守忠相。暴れん坊将軍の有能側近であり、彼を主人公にした時代劇「大岡越前」でお馴染みの名奉行。(ちなみに大岡越前の方が歴史的には過去の作品であり、暴れん坊将軍が後発である)三河松平氏の時代から徳川家に仕え続けた大岡家。その四男として生まれ兄が、時の将軍:徳川綱吉に島流し刑を受けたこともあり大岡家の家督を継ぎ徳川家康の父:松平広忠から一字賜って「忠相(ただすけ)」の名を与えられた。忠相が25歳の時、将軍直下の書院番(親衛隊)に配属。さらに出世を重ねて31歳で目付方(監視役)という官僚の域にまで昇進。第七代将軍:徳川家継の時代には普請奉行へ到達していた。そして家継夭折の翌年、第八代将軍:徳川吉宗の時代に抜擢され江戸南町奉行に任命。享保の改革の先鋒者となり、吉宗の掲げる政策を実際に施行する役として「火消隊の編成」「書籍法律」「目安箱設置」「貨幣改鋳」等の事業を担った。さらに後に町奉行と同じく将軍直属の最上位職である寺社奉行に転任後長く幕府に尽くした忠相に対しての加増の末、最終的には1万石の領地を与えられ明治時代まで続く西大平藩(現在の愛知県)初代藩主となった。(250年以上にも及ぶ江戸時代で奉行が大名にまでなったのは歴史上、忠相のみである)そして徳川吉宗崩御の約半年後75歳の天寿を全うして、吉宗の後を追うようにこの世を去った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:33|2023年08月26日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第147回:尼将軍の魂陣】
深き哀しみを越え、私は再び戦いに出る!伊豆国豪族:北条氏。北条時政の娘、北条政子。日本初の武士政権組織:鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝の正室である。平治の乱にて河内源氏:源義朝が討ち取られ、義朝の嫡男たる頼朝は伊豆へ流された。その頼朝の監視役となったのが伊豆国の地方官僚であった政子の父:北条時政であった。当時の政子は4歳、頼朝は14歳であったが、20年にも及ぶ流刑の中で二人は恋仲となった。出会いから16年後に、政子は周囲の反対を押し切って頼朝と婚約。(北条氏は平氏の分流であり、本来敵対関係の源氏嫡流との結婚は当然ながら反感を受ける)頼朝との仲は大変仲睦まじく、二男二女を授かった。壇ノ浦の戦いにて平氏が滅び、奥州藤原氏を滅ぼして東国に政権を集約したのも束の間頼朝は征夷大将軍に任命されてから7年後に病死してしまう。この頃、政子は夫の死を切っ掛けに出家して尼となったが初代将軍の正室であり第二代将軍(および第三代将軍)の母として「尼御台」の通称を得て鎌倉政権内で大きな発言権を有した。(尼御台:戦国期における寿桂尼と同じ敬称。貴人正室への敬称として「御台所」があり その対象が出家している尼であった場合のもの。英傑大戦では両名とも井上喜久子さんが演じている)時が経ち、源頼朝の遺児である第二代将軍も第三代将軍も悲劇の結末を遂げる。鎌倉幕府内の内部政争を見て、これを好機と政権を取り戻す為に執権:北条義時(政子の弟)打倒を掲げて後鳥羽上皇が挙兵(承久の乱)朝廷に付くか幕府に付くか、御家人は揺れに揺れるが、幕府の危機に政子が立ち上がった。「最期の詞(ことば)」と呼ばれる演説を行い、源氏恩顧の将へ一致団結を促したのである。朝廷軍兵力の10倍にも及ぶ源氏恩顧の将兵(総兵力19万)の動員に成功した幕府軍は朝廷軍に圧勝。以後、鎌倉幕府は朝廷を監視する目的で六波羅探題を設置した。そして、承久の乱から4年後、69歳の天寿を全うして、鎌倉幕府を護った女傑はこの世を去った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:29|2023年08月21日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第146回:式神前鬼・後鬼】
出でよ!式神ッッ!!霊能力を持ち、霊との交信が可能な人間「シャーマン」500年に一度、地球の王たるシャーマンキングを決めるためのシャーマンファイトが執り行われる。葉をシャーマンキングとするべく奮闘するイタコにして、葉の許婚:恐山アンナ(きょうやま/あんな)。生まれ持った霊能力故に、恐山(おそれざん:実際に存在する地名。イタコの本場で有名)に捨てられたが葉の祖母である麻倉木乃に拾われ、イタコとして鍛えられながら育てられた。(姓は恐山に由来する)彼女の霊能力は自制が利かず、自身を含めた周囲の負の感情を集めて鬼を具現化させてしまうことから自室に引きこもり心を閉ざした生活を送っていたが、葉との出会いから彼女の内面は変わり始めた。しかし、大晦日の参拝に向かったことで周囲大勢の負の感情を集めてしまい鬼を具現化させてしまう。結果、マタムネの犠牲によって大鬼は祓われ、以降、葉の妻として奮闘することとなる。ちなみに本編では15歳だが、続編では22歳にして6歳の子供がいる。つまり16歳で出産している(=本編の15歳頃に妊娠している)ことになるのだが実はこれに関する匂わせは本編でも数箇所で表現されている。-------------------------------------------------『SHAMAN KING』はシリーズ累計約4000万部を誇るヒット漫画。最も有名なのは集英社『週間少年ジャンプ』で連載されていた『シャーマンキング』それまでの売り上げよりも「今、人気がどうか?」を重要視して作品の新陳代謝を図るジャンプの方針からシャーマンキングはアンケート順位の低下が目立った為に打ち切りとなってしまった。他雑誌で一旦復活するも雑誌自体が休刊となってしまった関係で中断。その後、講談社に移って『SHAMAN KING』名義で連載。再アニメ化が行われた。(英傑大戦でのコラボは、講談社に移った後の再アニメ化版とのコラボである)-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:10|2023年08月17日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第145回:O・S武神魚翅】
地獄を経た武神魚翅の力、喰らい知るがいい!!霊能力を持ち、霊との交信が可能な人間「シャーマン」500年に一度、地球の王たるシャーマンキングを決めるためのシャーマンファイトが執り行われる。古代中国の歴史を影から支えてきた一族:道(タオ)家。その末裔、道蓮(タオ・レン)。憎しみと復讐に囚われた道家の御曹司として敵対者を殺めることに躊躇はなかったが物語の主人公:葉と出会ったことでその内面に変化が訪れシャーマンファイト本戦が3名チーム戦であることを知って急遽結成した「チームTHE蓮(道蓮・ホロホロ・チョコラブ)」のリーダーとなる。持ち霊は生前も道家に仕えた古の武人:馬孫(バソン)シャーマンキングになる目的は「憎しみのない世界を作るため」である。-------------------------------------------------『SHAMAN KING』はシリーズ累計約4000万部を誇るヒット漫画。最も有名なのは集英社『週間少年ジャンプ』で連載されていた『シャーマンキング』それまでの売り上げよりも「今、人気がどうか?」を重要視して作品の新陳代謝を図るジャンプの方針からシャーマンキングはアンケート順位の低下が目立った為に打ち切りとなってしまった。他雑誌で一旦復活するも雑誌自体が休刊となってしまった関係で中断。その後、講談社に移って『SHAMAN KING』名義で連載。再アニメ化が行われた。(英傑大戦でのコラボは、講談社に移った後の再アニメ化版とのコラボである)-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:06|2023年08月14日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第144回:荒くれ者の雹】
ここはとっくにオレの世界で、オレが王者だ・・どっちが強えか白黒はっきりさせようぜ!霊能力を持ち、霊との交信が可能な人間「シャーマン」500年に一度、地球の王たるシャーマンキングを決めるためのシャーマンファイトが執り行われる。北海道から上京してきたアイヌ民族の末裔にしてシャーマンファイト出場者:碓氷ホロケウ。通称:ホロホロ。(ホロホロという通称名はある人物に付けられた愛称であり本名を呼ばれることを異常に嫌う)持ち霊はイラストにも描かれているコロポックルのコロロ。だが実はこのコロロこそが、ホロホロの初恋相手でありホロホロの愛称を名付けた人物その人の霊。本名のホロケウの名で呼ばれることを嫌うのは好きな女性を死なせてしまったクソ野郎(=自分)が許せないからである。ホロホロの夢は、ホロホロの愛称を名付けた人物と約束した「見渡す限り広がる広大なフキ畑を作ること」-------------------------------------------------『SHAMAN KING』はシリーズ累計約4000万部を誇るヒット漫画。最も有名なのは集英社『週間少年ジャンプ』で連載されていた『シャーマンキング』それまでの売り上げよりも「今、人気がどうか?」を重要視して作品の新陳代謝を図るジャンプの方針からシャーマンキングはアンケート順位の低下が目立った為に打ち切りとなってしまった。他雑誌で一旦復活するも雑誌自体が休刊となってしまった関係で中断。その後、講談社に移って『SHAMAN KING』名義で連載。再アニメ化が行われた。(英傑大戦でのコラボは、講談社に移った後の再アニメ化版とのコラボである)-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:45|2023年08月11日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第143回:S・O・F】
全ては、人間への復讐の為に・・・僕は最高に強くなったお前を喰って、最強のシャーマンになる・・!霊能力を持ち、霊との交信が可能な人間「シャーマン」500年に一度、地球の王たるシャーマンキングを決めるためのシャーマンファイトが執り行われる。シャーマンキング主人公:麻倉葉とそっくりな容姿を持ち、圧倒的力を持つ男:ハオ。輪廻転生を繰り返し、その都度に力を増した劇中最強の存在。その正体は麻倉家の遥か先祖、麻倉家始祖の大陰陽師:朝倉葉王。葉の双子の兄として現代に誕生し、500年に一度のシャーマンファイトに参戦する。あまりに強すぎることから全ての敵は遥か格下でありほとんどの戦闘は圧倒的力によって叩き潰せる。自身と相手の圧倒的力量の差を悟って呟く口上/口癖は「ちっちぇえな」ちなみに過去話上のモデルは安倍晴明である。-------------------------------------------------『SHAMAN KING』はシリーズ累計約4000万部を誇るヒット漫画。最も有名なのは集英社『週間少年ジャンプ』で連載されていた『シャーマンキング』それまでの売り上げよりも「今、人気がどうか?」を重要視して作品の新陳代謝を図るジャンプの方針からシャーマンキングはアンケート順位の低下が目立った為に打ち切りとなってしまった。他雑誌で一旦復活するも雑誌自体が休刊となってしまった関係で中断。その後、講談社に移って『SHAMAN KING』名義で連載。再アニメ化が行われた。(英傑大戦でのコラボは、講談社に移った後の再アニメ化版とのコラボである)-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:30|2023年08月08日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第142回:O・S白鵠】
では、行きますよ 葉さんオーバーソウル:白鵠!講談社『SHAMAN KING』コラボ霊能力を持ち、霊との交信が可能な人間「シャーマン」500年に一度、地球の王たるシャーマンキングを決めるためのシャーマンファイトが執り行われる。「楽に生きられる世界を作る」ことを目的としてシャーマンファイトに参加した少年。主人公:麻倉葉。持ち霊は侍:阿弥陀丸だが、最初の持ち霊はねこまた:マタムネ。当初は霊を見ることが出来なかった普通の少年:小山田まん太と葉の出会いから物語は始まりシャーマンファイトを通して新たなる仲間と出会い、自身の先祖と兄のことを知ることとなる。(マタムネはその先祖のことを知る麻倉家の家付き霊であり、本編の過去編に登場する)-------------------------------------------------『SHAMAN KING』はシリーズ累計約4000万部を誇るヒット漫画。最も有名なのは集英社『週間少年ジャンプ』で連載されていた『シャーマンキング』それまでの売り上げよりも「今、人気がどうか?」を重要視して作品の新陳代謝を図るジャンプの方針からシャーマンキングはアンケート順位の低下が目立った為に打ち切りとなってしまった。他雑誌で一旦復活するも雑誌自体が休刊となってしまった関係で中断。その後、講談社に移って『SHAMAN KING』名義で連載。再アニメ化が行われた。(英傑大戦でのコラボは、講談社に移った後の再アニメ化版とのコラボである)-------------------------------------------------長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:23|2023年08月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第141回:傾奇者の擲槍】
傾奇者が大朱槍!その身で知ってもらおうか!!天下御免の傾奇者にして天下無双のいくさ人:前田慶次郎利益。実父は滝川益氏(諸説有り)。養父は前田利久(前田利家の兄)。戦場では無類のいくさ人であると同時に、突飛な行動と派手な格好を好む傾奇者。それと同時に古今の文学/教養を揃えた文化人であったと伝わる。養父の利久が病死したことにより前田家への義理を終えた為に前田家から出奔。関ヶ原の戦いでは上杉軍に所属。長谷堂城の戦いに参陣。しかし、石田三成率いる西軍が半日で敗北したという絶望的報告が入ったことで上杉軍は撤退戦を開始した。そこで慶次は、勢いに乗る最上/伊達軍の追討に対して殿軍として応戦。(驚くべきことに、この時の慶次の年齢は60歳であったとも伝わる)関ヶ原の戦い後は捨扶持をもらい、悠々自適な余生を送ったと伝わる。現在の前田慶次の人物像は現代の小説「一夢庵風流記」及びそれを原作とした「花の慶次-雲のかなたに-」によるもの。・・というのも慶次のことが記された軍記や一次資料が非常に少なく○○の時に何をしていたのかが不明であり逆に言えば「何をしていたのかわからないからこそ脚色や創作が自由であった」とも言える。(実際、前田慶次の人物像の原型になったものは江戸時代に作られた創作小説群であるとも云われている)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:09|2023年08月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第140回:享保の改革】
葵の紋の誇りにかけて、余が天下を改める!徳川幕府第8代将軍:徳川吉宗。通称:米将軍 あるいは ご存知「暴れん坊将軍」。徳川歴代将軍は第4代(徳川家綱)まで嫡流直系の将軍を立てていたが家綱に嫡子が無く早世。その為に弟の綱吉を第5代将軍とし、第4代→第5代にて直系世襲制は崩れた。続いて第5代綱吉も嫡子が無く甥(家宣)に継がせ、家宣の嫡子:家継が3歳になった時に家宣が死去。さらに第7代家継が7歳で夭折。当然嫡子はいなかった。これによって幕府直系世襲が完全に崩れ、後継問題が発生したのである。初代将軍 家康の遺言「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家/紀伊家から養子(次期将軍)を出す」に従い親藩御三家(尾張・紀伊・水戸)及び幕府要人の話し合いの末に次期将軍を選出。家格は尾張が上位格だが尾張藩には「将軍位を争わず」の不文律があり紀州藩に将軍位を譲った。時の紀州藩主は藩財政を立て直した敏腕藩主:徳川吉宗。吉宗は元は四男であった為、本来は藩主候補ですらなかった。しかし、兄3人の急死・夭折によって紀州藩主に抜擢されておりそれに続いて今度は幕府内直系の後嗣問題によって今度は将軍にまで抜擢されたのである。第8代将軍となった吉宗は幕府の財政改革を推進。質素倹約を旨として、聖域扱いされていた大奥の人員削減を敢行。江戸三大改革の一つ「享保の改革」を推し進め新田開発・米相場の操作・倹約令・増税(五公五民)等を実施した。(全部が全部成功したわけではなく功罪両方の面を持つ改革ではあるが その後の寛政の改革・天保の改革と比べた場合、相対的に最も成功した三大改革と言える)その後、存命中に嫡男:徳川家重に将軍職を譲り(※)その6年後、脳卒中によって死去したたとされる。※急死対策として男児を複数出生させたうえで存命中に「長幼の序」的に最も妥当な後継を指名すること。 実はこれこそが将軍の最重要な仕事である(冗談のようにも聞こえるが事実これが最重要課題)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:05|2023年07月29日 17:45:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第139回:奉武の指揮】
三浦の加護を!君たちにも授けよう!!相模国三浦郡、現在の三浦半島を拠点とした豪族武士:三浦氏。平安時代末期に源氏に仕えるが、源流は平氏であったとされる。その三浦氏第五代当主:三浦義澄。第四代当主、三浦義明の次男である。平治の乱にも源義平軍に属して参戦していたが、河内源氏当主:義朝が敗れ討たれると関東まで落ち延びた。その後、兄が戦傷が元で死去した為に次男である義澄が家督を継いだ。平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。三浦義済は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。以降の一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いにも参戦して武功を上げ、頼朝の家臣として確固たる地位を築いた。鎌倉幕府完成後は鎌倉殿の13人メンバーの一人に数えられ、梶原景時の鎌倉追放に加担。その後まもなく病死したが、当時としては非常に長寿な74歳の生涯であった。(だが、鎌倉幕府の政権争いで残念ながら三浦氏はその後、滅亡してしまう・・)英傑大戦内では「三浦」に非常に強い誉れを感じているふしがあるが、これは三浦半島に源氏ゆかりの寺社(大椿寺、本瑞寺、見桃寺、海南神社、三浦三十三観音等)が多数存在している為三浦にはそれら仏や神々の加護があることに由来していると思われる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:11|2023年07月26日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第138回:与一の目覚め】
与一、一世一代の戦いだ。風よ!黙って矢を運べ!!平安時代に名を起こし、後に明治士族にまで歴史を残す下野国那須郡:那須氏。一世一代の偉業を成し遂げ那須氏の興隆を果たした弓の名手:那須与一宗隆(なすの/よいち/むねたか)(与一とは名前というよりも「余一」を指す。十一男を指す通称である)平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。源平合戦と称される治承・寿永の乱に兄:那須十郎為隆(名の通り十男)と共に源氏方として参戦。その他9人の兄は平氏方に属した為に兄弟間で争う形となった。与一の名を日本最高の弓使いとして後世に名を知らしめたのは「屋島の戦い」での出来事。一時休戦中であった源平軍であったが、戦乱であっても貴族的な催しを重んじる平家側は突如、小船から美女を出して、棒に立てた扇子を掲げさせた。「源氏が神の加護を受けた強兵と言うならば当ててみよ」という挑発である。義経は戦の吉凶を決めるこの挑発に対して那須十郎為隆を射手に選出するが戦傷を理由に辞退。自分以上の弓使いであると弟を推挙し、この一世一代の大役を那須与一が担うこととなった。これに失敗すればその場で自害する覚悟のもと南無 八幡大菩薩と祈り扇子に向けて弦を引き絞り、矢を放った。結果は・・・見事一射で命中。源氏側は当然として平氏側もこの神業を敵ながら天晴れであると大盛り上がりとなった。あくまで戦争中であることを忘れて船正面に出てきて舞い踊った平氏軍兵士もいたが義経の命令による与一の第二射によって討ち取られたという。「我が軍は精鋭強兵、そして神の加護がある」と確信した源氏軍はこの後、平氏軍を散々に打ち破った。この大役を見事に果たした与一には5ヵ国に跨っての恩賞地が与えられさらには平氏側についた九人の兄たち全員に特赦が掛けられた。与一は総勢十名の兄を差し置いて那須家当主となり、那須氏隆盛の礎となった。屋島の戦いでのたった一射・・ただし神業的な一射によって那須氏勃興を果たし「日本最高の弓使い:那須与一」の名が残ることとなったのである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:14|2023年07月23日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第137回:牢固の戒告】
我が策の一端を、お見せしようぞ!!許攸・沮授と並ぶ袁紹軍参謀の一人:田豊。字は元皓。若き頃から学問を重んじており、その博学ぶりから後漢の侍御史(監察官)に任ぜられる。しかし、後漢の腐敗を目の当たりにした田豊は間もなく任を辞した。田豊の才を聞きつけた袁紹は、彼を強く勧誘して他主から引き抜く形で召し抱えた。そして時が流れ、反董卓連合時は味方であった公孫瓚と袁紹が敵対。田豊の外交戦略と軍事戦略によって徐々に戦力を削がれた公孫瓚は袁紹軍に攻め滅ぼされた。だが、対曹操軍となる中原北部の覇者を決める決戦「官渡の戦い」前後で袁紹に陰りが出始める。この戦いでの両軍の対峙の最中、劉備軍を押さえるために曹操が一時離脱した為田豊はこれを好機に攻めるべきと進言するが、袁紹は子の病気を理由に断った。勝機をみすみす逃すことになったことに田豊は激しく怒り、杖を叩き割って怒ったという。(この「怒りのあまり杖を折った」逸話が、イラストの田豊が杖を持っている理由である)劉備軍を征伐した曹操が陣営に戻ってきた為に、田豊は戦法を変えて持久戦を進言。「戦力/勢力の差を利用して周辺有力者を取り込んで曹操の力を削ぎ、戦わずして勝つべきだ」と。しかしこれも聞き入れられなかった為に田豊は諫言を行うが、これに怒った袁紹は田豊を投獄。結果、勝利を急いだ袁紹軍が曹操軍にしてやられてしまうのは歴史の通りである。俄然有利な戦いで敗走する憂き目にあった袁紹に対して、元から田豊と不仲であった逢紀が讒言を行った。「田豊は、閣下が敗走したことを知り、ほれ見たことかと獄中で手を叩いて大喜びしています」と。これを聞いて怒った袁紹は田豊の処刑を命令するが、田豊は既に獄中で自殺していた。官渡決戦で田豊の献策を聞き入れずに曹操軍を壊滅/滅亡させることが出来なかったことが原因で袁家はそれから7年後、曹操軍によって滅亡に追い込まれることとなった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:10|2023年07月20日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第136回:赫焉の旭】
皆にもらった命の炎!ここで燃やさず、何処で燃やせってんだよぉ!!河内源氏第5代棟梁:源為義。その長男であり嫡男格であった義朝と為義の仲は芳しくなく代わりに次男:源義賢を嫡男格待遇としていた。後に保元の乱にて為義・義賢は義朝と対立。義賢は義朝の長男である義平に攻められ敗死。義賢の遺児である駒王丸(当時2歳)は何とか難を逃れ信濃国豪族:中原兼遠を頼った。この駒王丸こそが後の源義仲である(信濃国木曽谷の地名から木曽義仲を名乗った)それから25年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際これに誰よりも早く呼応して攻め上がったのが木曽義仲であり、各地の源氏軍の救援に成功。そして源平合戦における大規模戦闘「倶利伽羅峠の戦い」において大勢の牛の角に松明を付けて突進させる「火牛の計(戦国大戦に於いての代表的ダメ計の元ネタである)」を用いて平氏軍を大混乱に陥れて勝利を収めたとされる。さらに続く篠原の戦いにおいても戦力差8倍を覆し大勝。大軍を失った平氏軍は義仲軍の進撃を止められずに京を脱出する憂き目にあった(平家の都落ち)平家追討を成した義仲は「朝日将軍(旭将軍)」と称され一時期は持て囃されたが義仲は田舎育ちの武士であった為に、公家社会での処世術を持たないままであった。さらに皇位継承問題に介入して後白河法皇との関係が劣悪となり、公家の悉くから嫌われてしまう。加えて新宮行家らを匿ったことで頼朝との関係も悪化していた。焦った義仲は朝廷に自身を征夷(東)大将軍に任命させたが、頼朝軍に包囲されてしまう。この頃になると既に人心を失っており、義仲に付き従うのは郎党のごく僅か。頼朝軍5万以上に対して僅か400で立ち向かうが、対平氏で見せた奇跡的な勝利は起きず最後は数騎にまで追い込まれた末に、矢を射ち込まれて討ち取られたという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:44|2023年07月17日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第135回:冥冥たる戦】
冥冥たる戦の先には、再生が待っておるぞぉ!河内源氏五代目棟梁:源為義。その十男:源行家。母は不明。六代目棟梁:義朝や鎮西八郎:為朝の弟にあたり、源頼朝や源義経の叔父にあたる。現在の和歌山県:熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と呼ばれ、後に新宮行家を名乗った。平治の乱にて義朝が破れ、河内源氏は大きく衰退。非参戦者であれば罪に問われる者は少なく、行家は平氏の隆盛をただ見続ける立場にあった。(平家物語では平治の乱にて義朝側として参戦していたとされているが、具体的な活動内容が無く 参戦者の戦後処刑を考えると、行家が処刑されない理由が不明。恐らくは平家物語の創作である)平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。この際、平家追討の令旨を日本各地の源氏及び反平家勢力に配り挙兵を促したのが新宮行家である。各地での挙兵を促した後に、自勢力からも挙兵するも、緒戦で連敗を喫してしまう。甥の頼朝を頼るが所領問題で間もなく不仲となり対立した為、甥の木曽義仲を頼り(禁断の甥頼り二度打ち)義仲と共に入京するも、義仲との序列問題で不仲となった為に対立。後に京を脱出した。(禁断の甥不仲二度打ち)脱出先で平氏軍に遭遇して敗走。さらに義仲からの追討軍に遭遇してさらに敗走した。頼朝の命によって義仲軍が討たれると、これを好機として帰京するも頼朝傘下とはならずに独立勢力となって平家討伐にも加わらなかった。(これにより元から不仲であった頼朝の不信感ゲージがMAXになるのは言うまでもない)源氏でありながら鎌倉傘下とならない行家に対して、頼朝はとうとう討伐軍を編成。行家は頼朝と不仲であった義経側に協力するが徐々に戦力を削がれて潜伏。しかし、地元民から密告によって捕縛され、長男・次男と共に斬首となった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:59|2023年07月14日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第134回:興隆の軌跡】
平家の誇りを守りたくば、この知盛に続け!!武士として異例の太政大臣まで上り詰めた平清盛。その四男:平知盛。平時子の息子としては次男にあたり、同父母の兄は平宗盛。源平合戦における源氏側の武を担ったのが源義経だとすれば平家側の武を担ったのが平知盛であるとされ、共にERでの登場となった。平治の乱後、平家の興隆はその極みに達して清盛の子であった知盛は従二位:中納言まで昇進したが「以仁王による平家打倒の号令」が発布されると日本各地で反平家勢力が挙兵。その最中で総合指揮を取るべき清盛が病死した為に時子長男の宗盛は政治、知盛は軍事の中枢として平家一門の旗振りを行った。(平家物語の中で宗盛は武士の棟梁の器ではない愚物として扱われ その後の軍記でも捕虜になった後の命乞いの醜さなどから全く評価されていないこともあり)実質的に平家一門を連れて各地で戦ったのは知盛であるとされている。(その関係から2コスERの知盛に対して、宗盛は1コスNと、平家大将としての格差が大きい)勢いに押された平家は京を追われ、各地での連敗によってとうとう本州最西端の壇ノ浦まで追い詰められる。そこで知盛は総大将の一角として奮戦するが、周辺各地の豪族が源氏側に付きどうあがいても勝ち目が無いことを悟った知盛は兵士へ停戦を命令。「源氏側兵士にも平氏側兵士にも家族がいて、勝敗の決まった無駄な戦闘で死ねばその家族が悲しむ」と。その後、平家一門の入水自殺を見届け、自身も二層の鎧と錨を体に巻きつけ「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して一族の後を追って入水して自害。敗れはしたものの、武に長け指揮に長け、勇ましくそして優しい英傑の死であった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:18|2023年07月11日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第133回:天衣無縫の号令】
この大史慈、確かに約束を守ったぞぉぉぉ!!東萊郡の黄県官吏:太史慈。字は子義。弓の名手として名を馳せており、北海国相:孔融は太史家に度々贈り物を送っていたが黄巾の乱発生後に孔融は黄巾軍に包囲され窮地に陥った。太史慈は周辺諸侯に援軍を嘆願して孔融を救い、恩義に必ず報いる男として一層名を馳せた。時が経ち、揚州刺史の劉ヨウとのお目通りの機会が舞い降りたがちょうどその時、破竹の勢いで勢力を伸ばしつつあった孫策軍が襲来。これに対して斥候として偵察に向かった太史慈は相手側の総大将たる孫策と遭遇。二人は正面から打ち合ったが決着は付かず、双方の兵が接近した為に勝負は水入りとなった。(これは三国志演義で大量に追加された物語を盛り上げるためのフィクションとしての 一騎打ちではなく三国志正史の方に記載されている数少ない正真正銘の一騎打ちである)その後、劉ヨウが破れ、山中に逃げ延びた太史慈は孫策に捕らえられたが孫策は彼の武勇を買って武官:折衝中郎将に任命した。さらに時が流れ、劉ヨウの死後、太史慈は以下のように孫策に進言した。「劉ヨウの配下と民衆が行くあてが無いだろうから孫策軍の増強を兼ねて集めて戻ってくる」と。これを聞いた孫策は太史慈を向かわせたが、孫家家中では疑惑が広まった。「太史慈はこのまま帰ってこない」「軍を編成して攻めて来るのでは?」と誰も信じてはいなかったがただ一人、孫策だけは彼を信じて送り出し、結果、太史慈は約束通り兵と民衆を連れて戻ってきたという。その後、劉表軍の侵攻を食い止め、黄祖討伐に活躍と武官として目覚しい活躍を見せたが赤壁の戦いの2年前に惜しまれつつも死去した。ちなみに三国志演義では赤壁の戦い後も存命しているが合肥の戦いで三国無双の名を意のままにするほどの活躍をした張遼の引き立て役になって死亡している。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:33|2023年07月08日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第132回:蛇智奸佞】
「武士」という毒を如何に使いこなすかが、腕の見せ所よ・・!後の征夷大将軍:源頼朝の第一の郎党と称される武将:梶原景時。坂東武者であった梶原氏は源氏の家人として仕えていたが平治の乱で源義朝が討たれた為に一時平家に従う姿勢を取っていた。後に平家打倒の為に頼朝が挙兵。これに対して梶原景時は大庭軍と協力して頼朝軍を撃破した。山中に逃げた頼朝を発見するが、そもそもが源氏の家人であった景時はこれを敢えて見逃しその後、再起を果たした頼朝に速やかに降伏して源氏勢力に付いた。平氏での戦いでは諸将が「○○で戦って勝った」という報告しか上げないことに対して景時だけは戦の詳細や物事の日時を細かく記した報告書を提出しておりこれにより細やかな報告を重要視する頼朝の信頼を得た。(彼の落城台詞はこの逸話の再現である)頼朝の信任厚い景時は、主君の命であればどんなことでも遂行した。謀反の疑い有りとされた上総広常を双六の最中に突如誅殺したこともその一環である。主君の為に汚れ役を買って出ていた景時に対して、周囲からの恨み妬みは集中していった。(義経との確執も有名で、彼の讒言が、頼朝が義経を討つ決定的出来事になったとも言われている)鎌倉幕府発足後、鎌倉殿の13人の一人に数えられるが、彼は周りからの恨みと嫉妬を買いすぎていた。頼朝死後、幕府家臣:結城朝光を誹謗したことを切っ掛けにして御家人諸将が結託して諸将66名による連判状が提出され、景時の排斥を求めた。景時はこれに一切の弁明をせずに重役の位置から身を下ろすがさらに謀反の疑い有りと疑いを掛けられて諸将連合軍に追討を受ける。瞬く間に一族郎党を含めて景時も討ち取られ梶原家は滅亡に至った。この「梶原景時の変」を皮切りに、頼朝死後の権力争いが繰り広げられることなる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:30|2023年07月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第131回:白拍子の舞い】
雨を願えば雨を。光を願えば月明かりを招きましょう。平安時代末期から鎌倉時代に流行した歌舞:白拍子(しらびょうし)元々は神に捧げる舞であり、それを歌い舞う遊女自身のことも白拍子と呼ぶ。遊興の舞としても招かれることも多く、それを通じて白拍子が武士や貴族に見初められることも少なくはない。源義経の愛妾:静御前。彼女もまた白拍子であった。義経との出会いは京都:神泉苑。その日、神泉苑では田畑の豊作を願うために雨乞いの儀式を執り行っていた。日本各地から白拍子を呼び舞わせるも99人に至っても雨を呼ぶことはできなかった。100人目の舞い手が後の静御前と呼ばれる人物であり、彼女が舞うと3日間に渡って雨が降り続けたという。その舞の見事さからその場に居合わせた義経が一目惚れをして妾に抜擢したとされる。その後、頼朝との不和から京を脱出して東へと逃げる義経に同行するが、とうとう衣川にて義経は自刃。残された静御前も捕縛、鎌倉に送られ、頼朝の命によって源氏を称える舞を披露させられるが義経への恋しさを歌うその姿に頼朝は激怒。正室の政子が「もし私が静の立場なら同じことをするでしょう」と頼朝を宥めることで事なきを得た。その後、静御前が義経の子を孕んでいたことが発覚した際は「女子なら見逃すが、男子なら処刑する」と頼朝に通告を受けた。(仇敵の男児を見逃した平氏の結末がどうなったか、頼朝自身が誰よりも知っているからである)結果、生まれてきたのは男子。約束通り、その子は由比ヶ浜に沈め殺害された。静御前はその後どうなったかは諸説あるが、子を追って自身も由比ヶ浜に身を投げたともいわれている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:35|2023年07月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第130回:真柄の大太刀「桶狭間の戦い・天運 織田軍」】
真柄の大太刀ィ!くらえぇぇい!!越前、国人衆にして朝倉家客将。朝倉家最強の猛将:真柄直隆。朝倉家に完全に仕える形ではなく、一部軍役を請け負うだけの外部協力者の立場であったが信長との関係悪化で朝倉家に将軍:足利義昭が頼ってきた際に朝倉家傘下となった。直隆はこの時代に身長210cmを超える巨漢であったとされ義昭に見せた演舞では九尺五寸(約288cm)の大太刀(おおよそ10~20kg)を扱ってみせた。(実戦で使用された真柄の大太刀[太郎太刀]は五尺三寸[約161cm]を誇り、通常の約2倍の長さの太刀である)※同様の強さを持つ弟:真柄直澄なる人物も存在するが、直隆と同一人物ではないかとする説もある。織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍の雌雄を決する戦いとなった姉川の戦いでは戦国最強と名高い本多忠勝とも一騎打ちを行ったという伝承が残っているが大局的には榊原康政の奇襲成功によって朝倉軍は窮地に立たされることなる。直隆は味方を逃がす時間稼ぎの為に、僅かな味方と共に徳川軍本陣に特攻。十二段の陣を八段まで突破して奮戦したが、衆寡敵せず力尽き討死にした。この時、真柄直隆を討った刀は真柄切りと呼ばれ、重要美術品に指定され現存している。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:02|2023年06月26日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第129回:百火燎原「桶狭間の戦い・天運 今川軍」】
炎に飲まれるがいい!!信濃国(現在の長野県の辺り)豪族:海野棟綱の子、海野小太郎。甲斐国守護:武田信虎及び諏訪・村上の連合軍に攻められて海野家は領地から離れ逃走。後に旧領に復帰した際に真田郷に拠りそれに因んで真田姓を名乗り、それが後の真田幸隆(あるいは幸綱)となる。時が流れ、武田信虎が追放され武田晴信(信玄)が武田家の家督を強奪。次々に周辺国の豪族を従えて破竹の勢いで勢力を伸ばすが、かつて共に戦った村上義清が立ちはだかった。対村上軍となる上田原の戦いにて板垣・甘利といった宿老を失う敗戦。晴信にとって初の敗戦となったこの戦い後周辺豪族からの人材登用に力を入れたために幸隆が名乗りを上げ、以後、真田家は武田家配下となった。続く村上義清との二度目の戦いとなる砥石城の戦い。敗戦を経て油断なく臨んだが、圧倒的兵力の優位を以ってしても砥石城を攻め落とせずに敗走した(砥石崩れ)(砥石崩れにおいて指揮を取っていたのは幸隆であったとも云われる)この敗戦後、戦わずして勝つ為の調略を駆使するようになり、二度目の砥石攻めでは僅か1日で落城せしめた。この功績によって武田家の中枢に入り込み確固たる地位を得て、その後、上杉謙信との戦いにも参戦。嫡男:信綱に家督を譲った後は、自身の出世の地であった砥石城で亡くなった(享年62歳)後に天下に名を轟かせる表裏比興の者:真田昌幸の父であり、日本一の兵:真田幸村の祖父。真田三代の源流となる人物である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:31|2023年06月24日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第128回:混然たる号令】
私の号令を聞いてくれぇ・・・聞けったら聞けよぉぉぉぉぉ!!河内源氏六代目棟梁:源義朝。その六男:源範頼。母は義朝の側室:遠江国池田宿遊女(正確な身分等は不明)。源頼朝(三男)の異母弟にあたり、源義経(八男)の異母兄にあたる。平治の乱で没落した源義朝率いる河内源氏。戦いには加わらなかった非戦闘員の義朝の息子たちは清盛の恩情によって死罪を免れ後白河法皇近臣:藤原範季の下で養育。名を一字もらい「範頼」となった。平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。義朝の息子として、そして頼朝の弟として頼朝挙兵に呼応して参戦。頼朝と不和が発生した木曽義仲に対して、義経と共に討伐に向かい宇治川の戦いにて圧倒的兵力差によって義仲軍を叩き潰した。続く平氏との戦いとなる「一ノ谷の戦い」においても大将として出陣。奇軍を担当する義経と、正軍を担当する範頼の連携によって快勝を収め最終戦となる「壇ノ浦の戦い」においても水軍を担当する義経と、陸軍を担当する範頼の連携で勝利を収めた。戦後、頼朝は武家による中央政権の確立に動き、諸将の独断行動を禁止とした。一説では頼朝は平氏との戦いの時点で義経の独断専行を危険視していた為に義経を処断したとされる。これを見た範頼は頼朝からの目付役に行動を逐一相談して対応を仰いでいたが源頼朝が暗殺されたという誤報が彼の運命を狂わせた。源範頼が北条政子(頼朝正室)に宛てた励ましの手紙に「兄がいなくても私がいるので源氏は大丈夫です(要約)」と書いていたことで源氏を乗っ取ろうとしている謀反疑惑が浮上してしまう。範頼謀反の疑いは頼朝の中で徐々に膨れ上がりついには範頼を伊豆流刑に処し範頼は流刑先で誅殺されたとも自刃したとも伝わる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:20|2023年06月20日 17:00:00 投稿
【えぇケツ大戦】気まぐれにデッキ変えつつえぇケツ【第127回:女城主の采配】
戦に勝ちたくば、この直虎に続けッ!!今川家配下、井伊氏第22代当主:井伊直盛。直盛は一人娘がいるものの男児に恵まれず嫡男不在の状態であった。そこで井伊家にとっても今川家にとって運命の日となる桶狭間の戦いが発生。今川当主:今川義元をはじめとして井伊家当主の直盛含めた有力家臣がここで討ち取られた為に今川傘下の諸勢力は大混乱に陥った。次期当主として養嗣子として井伊家を継ぐはずであった井伊直親が、松平家との内通を疑う讒言によって今川家に討ち取られた為にいよいよ御家断絶かとなった時に、直盛の一人娘が立ち上がった。その一人娘:次郎法師が後に、「女城主」「女大名」の異名を持つ戦国時代の女性武将:井伊直虎である。井伊直親の嫡男「虎松」はこの時1歳。当然ながら井伊家の旗振りを行えるわけがなく、この後見人として直虎が代表となった。直虎は今川家の支配から徐々に離れる意向を露にして、頭角を現しつつあった徳川家に接近。(皮肉にも松平家[徳川家]との内通を今川家が疑い罰したせいで、本当に徳川家に付くことになった)虎松を徳川家の小姓として仕えさせ、嫡子として成長したことを見届けてその生涯を閉じた。この虎松が後の徳川四天王の最若手「井伊直政」となる。井伊家はこの後、幕末の大老職(井伊直弼)を排出するほど繁栄を続けるが、これも直虎の奔走あってのものである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:43|2023年06月16日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第126回:賢尼の後ろ盾】
さぁ行ってこい!お前たちがこの国を護るんだよ・・!源義朝の時代、坂東武者の統率に成功。武蔵国にもその勢力を伸ばしていた。武蔵国代官:比企遠宗(ひき とおざね)。別名:比企掃部允(ひき かもんのじょう)。その正室、比企尼(ひきのあま)。源頼朝の乳母の一人である。※比企尼の父母および出自、さらに本名に関しては不明。源義朝が平治の乱にて破れ死亡。その嫡子である源頼朝は平清盛継室:池禅尼の助命嘆願もあり死罪は免れるものの伊豆への流罪となった。かつて坂東武者を統率した義朝の縁から比企尼は伊豆への援助を20年間続けた。(平氏の世となっている状況で、これを理由にして何らかの嫌がらせや処罰が 下ることも十分に有り得る状況で20年間にも渡って頼朝への援助を続けたのである)後に「以仁王(もちひとおう)」から平家打倒の号令が発布されると瞬く間に日本各地から反平家の軍勢が一斉蜂起を開始。それまで栄華を誇っていた平家は約5年後に滅亡することとなる。比企家の「源氏を影からずっと支え続けていた恩義」に報いる形として男児に恵まれなかった比企尼の娘や孫娘を源氏重役の正室として迎えさせ比企家の断絶対策として頼朝は自身の甥を養子に取らせた。それが後の鎌倉殿の13人の一人、比企能員(ひきよしかず)である。(ただし、この後の比企能員がどうなったかというと・・・後のカード追加にて主役足り得るかもしれない)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:34|2023年06月12日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第125回:姫武者の敬慕】
無双の剛力で!あなたを支えてみせるッ!!源義仲の愛妾にして怪力強弓の女武者:巴御前。河内源氏第5代棟梁:源為義。その長男であり嫡男格であった義朝と為義の仲は芳しくなく代わりに次男:源義賢を嫡男格待遇としていた。後に保元の乱にて為義・義賢は義朝と対立。義賢は義朝の長男である義平(義賢から見ると甥)に攻められ敗死。義賢の遺児である駒王丸(当時2歳)は何とか難を逃れ信濃国豪族:中原兼遠を頼り後に源義仲(木曽義仲)となった。それから25年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際これに誰よりも早く呼応して京に攻め上がり、平家を京都から追い出した男が源義仲であり巴御前は平氏討伐に従軍。そして、頼朝による義仲追討令が出た後も共に行動を続けたが最後はとうとう残り5騎にまで追い詰められてしまう。義仲は巴御前に「最後まで女を従軍させていたとすれば後世の恥だから逃げろ」と促し自分を生かすための方便だと気付きつつもその場を離脱・・するのだがその際に敵小隊の方に向かっていき敵兵士の首を捻りきっていったとされる。一説ではその後、尼となり91歳もの天寿を全うしてこの世を去った。※ちなみに巴御前は平家物語以降の記録にしかその存在が確認できず、おそらくは架空の人物である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:55|2023年06月09日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第124回:謀聖の領域】
我が謀略の至る先へ…貴公ら、覗いてみるか?出雲国の大名にして守護代。中国地方の三大謀将の一人"謀聖":尼子経久。元は京極氏に仕えていたが、尼子経久の代で幕府への納金を拒否する等の独立の姿勢を露にした為その台頭を危惧した京極氏および近辺豪族の反感を受けて守護代から追放。浪人身分となったが、その後、主家との交流再開を取り付けて尼子氏を戦国大名へと蘇らせ勢力圏は主家たる京極家をも上回り中国十一ヶ国の太守(11ヶ国の守護大名)とまで称されるに至った。しかし、急速に勢力を伸ばした者にありがちな問題が外交状況である。(武田氏も同様)毛利家を庇護していた尼子家であったが、経久は毛利の台頭をよしとせずに力を削る謀略を行っていた。尼子家の支配から逃れようと毛利家当主:毛利元就が独立。後に経久の子孫は離反した毛利家により苦渋を舐めさせられることなる。また大内氏との外交状況も劣悪な状態となった為に急遽次代となった晴久が苦しむこととなってしまった。※ちなみに謀聖:尼子経久の知力が完全成熟前の元就の知力を上回るのは戦国大戦からの意匠である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:30|2023年06月06日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第123回:武皇の大恩命】
源氏の旗に集いし武者たちよ!我らの力を示す時は来たッ!!河内源氏六代目棟梁:源義朝。その三男:源頼朝。幼名:鬼武者。母は義朝の正室:由良御前。源平合戦の英雄:源義経は彼の異母弟にあたる。源義朝と由良御前の間に生まれ、兄が二人(義平・朝長)いるものの貴族出身の正室の男児であった為に最有力世継ぎ候補として英才教育を施された。後に平治の乱で父:義朝が朝敵として討たれ、さらに自身の兄2人も討たれた為に名実ともに嫡男格となった。平清盛はこの河内源氏の次期棟梁になるであろう男児に、可能な限りの慈悲を与えて伊豆への流刑とした。伊豆へ流されて20年後、「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。これに呼応して父:義朝の時代から配下に置いた坂東鎌倉周辺の豪族武者に決起を呼びかけた。さらにここで源氏に朗報が入る。「平家の総大将たる平清盛が病死した」と。最高権力者の病没の混乱の中で源義仲(木曽義仲)が平家を京から追い出すことに成功するも頼朝との敵対者を庇護した為に対立。頼朝は従兄弟でもある義仲を軍勢を以って討ち取った。さらに平家追討を行い、最後は壇ノ浦にて義経・範頼軍が平家を滅ぼした。それから源氏の世になり、1185年幕府を設立後も頼朝は義仲への処遇同様に同族への警戒を怠らず壇ノ浦の英雄であった義経・範頼に謀反の疑いを掛けて誅殺。1192年に征夷大将軍に就任し、封建制度を作り出して武家による統治を行えるようにしてからこの世を去ったが独裁を防ぐ目的で設立された13人の合議制(鎌倉殿の13人)によって将軍の実権はその後無くなった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:58|2023年06月02日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第122回:朔陣の修羅】
迅速こそ勝利への道!朔陣の精鋭よ、突き進め!河内源氏六代目棟梁:源義朝。その九男:源義経。幼名を牛若丸。稚児名を遮那王。母は義朝の側室:常盤御前。後の鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝は彼の異母兄である。義経の人生の転換期は「平治の乱」である。この戦いを引き起こした上で敗れた父:義朝は郎党の身内に討たれるに至った。母:常盤御前と共に避難するも祖母(常盤御前の母)が人質に取られたことで平家側に降伏。父の罪を子に被せなかった清盛の恩情によって助命され、鞍馬寺に預けられ、遮那王の名を与えられた。(伝説では、この時に鞍馬山に住む鞍馬天狗に剣術修行を施されたとされる)兄:源頼朝が平氏打倒の為に挙兵した際、これに呼応して義経も馳せ参じ「治承・寿永の乱」通称:源平合戦と呼ばれる日本各地で大規模な内乱が発生したのである。隆盛を誇っていた平家は日本各地で蜂起した反平家勢力に徐々に押され義経は「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」にて奇襲戦法により平家を撹乱。源平最後の戦いとなる「壇ノ浦の戦い」では源氏水軍総大将として平氏水軍総大将「平知盛」を相手取って戦い平家一の猛将平教経を軽々と煙に巻く八艘飛びを披露するに至った。かくして平家を打ち倒して源氏の世になったのも束の間(原因は諸説あるが)大将である兄:頼朝と、義経の間に不和が生じる。勢力・発言力に大きく勝る頼朝は義経に朝敵の烙印を押して徐々に追い詰め衣川の戦いによって義経側の兵及び主だった郎党のほとんどを始末した。追い詰められた義経は最後に正妻と娘を殺害直後に自刃。31歳の生涯を閉じた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:46|2023年05月28日 19:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第121回:式神・六合】
入式神操千兵『六合』よ、ゆけ!平安時代より100年以上前の飛鳥時代、中国より陰陽五行思想が伝来した。日本ではこれを基にして陰陽道が創始。日本古来律令制の下で中務省/陰陽寮が創設され、その官職を「陰陽師」と云う。平安時代中期、陰陽道の天才と呼ばれる伝説的術師がいた。その名を安倍晴明(あべの/せいめい)。(正確な読み方は分かっておらず、はるあき/はるあきら/はれあきら などの可能性がある)安倍晴明の出生やそれ以前の家系についてはよくわかっていない。一説では以下の通り。没落した御家の再興に尽力していた:安倍保名(あべの/やすな)が狩人に襲われていた狐を助けるも手傷を負って気絶してしまう。保名が気が付くと女性に介抱されており、二人は愛し合い結婚。そして子を授かるに至った。子に童子丸という名を付けすくすくと育ったが、童子丸はある日、自分の母の本当の姿を見てしまう。自身の正体が妖狐であることがバレてしまった母(葛の葉)は人里にはいられなくなり泣く泣く森へと帰っていった。童子丸は後に、妖狐の血をひく絶大な霊力を持つ陰陽師:安倍晴明となった。(この伝説によって「葛葉(くずのは)」と名の付く狐人のキャラクターは現代でも非常に多い)その後、陰陽道の伝説的な識者として、時に物事の吉凶を占い、豊作を祈願し、雨を祈祷し朝廷/貴族/市民の全てから頼りにされて活躍したという。正義の陰陽師設定の安倍晴明が、悪の陰陽師設定の蘆屋道満を懲らしめる展開が今昔関係なく作られている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:36|2023年05月22日 17:30:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第120回:愚かな挑発】
我輩の前では、名うての武者も無力でござるよ新選組五番隊組長及び新選組文学師範/兵学師範:武田観柳斎。本名:福田廣(ふくだ/ひろし)出身は出雲国(現在の島根県の辺り)。剣術流派は北辰一刀流を修める。松江藩支藩の母里藩を脱藩後に江戸に渡って小幡景憲(※)が成立させた「甲陽軍監」「甲州流軍学」による兵学を修めるに至る。江戸滞在時に何らかの形で新選組(浪士組)と面識を持つ機会があり半分愚連隊状態の新選組にとって兵法修学者が貴重であった為に入隊。重用されたとされる。局長:近藤勇の参謀として活躍していたが、第二次長州征討の失敗から戦国時代末期~江戸時代初期から200年以上経過している甲州流軍学の有用性が疑念視されさらには新たな参謀として伊東甲子太郎が参加したことで立場が揺るがされた。新選組隊内で急速に立場と求心力を失った観柳斎は、御陵衛士を結成した甲子太郎に接触するも入隊を拒絶。さらには薩摩藩に接触して倒幕運動に傾倒していったこともあって新選組隊士に捕縛。斬殺された。ちなみに名前からわかる通り「るろうに剣心」に登場する「武田観柳(雅桐倫倶)」のモデルである。※小幡景憲(→sm28023795)「赤き軍法の鑑、その極みをここに写す!」江戸時代の武家兵学の基本となる甲州流軍学を編集/成立させた創始者。戦国大戦ver3.1にて登場済/主役消化済であり甲州流軍学を修めたことで有名な人物が英傑大戦のカードとして登場しているのは感慨深いものがある。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:23|2023年05月20日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第119回:入口無き幽窓】
あたしの才能に震えなさい!『童話』は全て『戦記』だった―― Wonderland Warsよりサンドリヨン及び吉備津彦と同じく原典から名称を拝借。グリム童話「ラプンツェル(ドイツ語:Rapunzel)」 和名「髪長姫」童話においてのあらすじは以下の通り。あるところに農夫と奥さんがおり、奥さんが妊娠した。そこで奥さんは「隣に住む魔法使いの庭にあるラプンツェル(妊婦に良いと伝わる野菜)が食べたい」と言い農夫はたびたびラプンツェルを摘みに行くも魔法使いに見つかってしまう。お前たちの子を譲るのであれば持っていってもいいと言われ、約束通り奥さんが娘を出産後、魔法使いに託した。魔法使いは娘にラプンツェルの名を与えて搭の中で育てた。娘は美しく成長し、その髪の長さと美しさは類まれなものだったという。ある日、森に迷い込んだ王子が美しい歌声に惹かれそこへ向かうと、搭で歌うラプンツェルの姿があった。ラプンツェルは長い髪を垂らして搭の中に王子を招いて二人は恋仲となり、いつしかラプンツェルは妊娠。しかしそれが母(魔法使い)にバレたために荒野に放逐されてしまう。後日、王子がラプンツェルに会いに向かうもいなくなったことを知らされた王子は搭から身を投げ失明してしまう。そのまま荒野を彷徨う王子だったが、そこで双子を出産して母となっていたラプンツェルに再会。王子に会えた嬉しさのあまりに流したラプンツェルの涙が、王子の両目に落ちて視力が回復する奇跡が起き王子や子供たちと共に国に帰ったラプンツェルは幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし・・。お、待てィ! この原典から「搭の中に引き篭もる美しい髪のツンデレ系天才魔法少女」にしたのかゾ?(サンドリヨンと吉備津彦は超有名な原典があるうえに初期メンバーなので王道感があるが フィーは割と後半になってから追加されたキャラクターなので多少強引な設定なのは否めない)ちなみに天才の姉フィー(CV:くぎゅ)に対して、秀才の妹マリー(CV:くぎゅ)もいるのでヨロシクゥ!長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:46|2023年05月18日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第118回:金剛の位】
如何なる妨げがあろうと、押し通る!『童話』は全て『戦記』だった―― Wonderland Warsよりサンドリヨンと同じく原典から名称を拝借。童話「桃太郎」から吉備津彦が参戦。古代、朝廷は時の天皇に命じられ、吉備国を平定した吉備津彦命(きびつひこのみこと)。吉備地方には鬼ノ城を住処として地域を荒らし、現地の人々を苦しめていた悪鬼がいた。これに対して吉備津彦命は臣下を呼び寄せて討伐に向かう。その三人が犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)であり鬼ノ城に攻め入った吉備津彦命は見事、悪鬼を討ち払ったいう伝説が残る。(例によって朝廷に反する者を「鬼」認定して堂々と討伐したものと思われ、実際は山賊の類と思われる)童話:桃太郎はこの伝説を元にしており、吉備津彦命が従えた3人の家来が犬・猿・雉にあたる。wlwでは強力な拠点攻撃手段を持つキャラ性能を有しており、英傑大戦でもその設定を強く反映。wlw内で設定されている性格は直情型にして硬派な正統派の武士であるが正面戦闘を避けて拠点を攻撃することも割と多く見られることから卑怯侍とも呼ばれたりもする。どう見てもJDループ(おぅるぁ!)してチップ即死させてそうな見た目に一番驚いてるのが俺なんだよね。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:46|2023年05月16日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第117回:灰かぶりの剣技】
本当の”ぶとうかい”はここから!『童話』は全て『戦記』だった―― Wonderland Warsより一般的にシャルル・ペロー作、あるいはグリム兄弟作による童話。通称「シンデレラ(Cinderella)」その和名を「灰かぶり姫」といい、フランス語訳を「サンドリヨン(Cendrillon)」という。セガ自社コラボとして「Wonderland Wars(以下wlw)」からサンドリヨンが英傑大戦へ参戦。シンデレラの有名な作品として、上記の通り「ペロー作」と「グリム兄弟作」が存在するがwlwのサンドリヨンは困窮にあっても礼儀・作法・優しさを忘れない高貴かつ優しい女性としているペロー作のシンデレラのイメージで作られている。(反対にグリム童話のサンドリヨンは、本当は怖いグリム童話でも有名な通り、 とても優しいとは言えず一転攻勢に成功した後は復讐を行うような非常に恐ろしい性格。 グリム童話版のサンドリヨンはwlwにおいてのサンドリヨンの別の姿:アシェンプテルとして存在している)wlwのキャッチコピーは 童話は全て戦記だった である。原典のサンドリヨンは王子と出会いダンスを舞い恋に落ちる。wlwのサンドリヨンも原典通り「ぶとうかい」への誘いを受けるのだが、それは舞踏会ではなく武闘会。ここから本当の「ぶとうかい」が始まるのであった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:52|2023年05月14日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第116回:鈴鹿山の鬼神「禁門の変 幕府連合軍」】
この地上に、再び地獄を見せてやろう!!日本三大妖怪の一角:大嶽丸。曰く、日本最強の鬼神。平安時代中期にエピソードのある他2体の三大妖怪(酒呑童子・玉藻前)と異なり大嶽丸の伝説はそれよりも時を遡る平安時代初期より始まる。古くから鬼の住処とされる伊勢と近江の国境にある鈴鹿山。そこには人知を超えた膂力にあらゆる神通力(暴風雨・雷鳴・火の雨etc)まで操る鬼神魔王と称される日本最大最強の鬼が存在した。鈴鹿山周辺の里は度々大嶽丸の襲撃を受け、もはや人が住める地では無くなっていたとされる。これにはとうとう時の朝廷が討伐隊を派遣。1000名からなる兵が討伐に挑むが大嶽丸一人に壊滅。朝廷はさらに3万からなる軍勢を派遣するが今度は天変地異を起こされて撤退させられた。(この伝説から単純な「個」の強さなら三大妖怪の中で明らかに抜きん出ていることが読み取れる)この途方も無く強すぎる鬼神の討伐を任ぜられたのが征夷大将軍:坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)だった。大嶽丸の住処である鈴鹿山には立烏帽子と呼ばれる妖怪も存在しており田村麻呂はまずこの立烏帽子を討伐することにしたが、なんと戦いの中で恋仲となった。実はこの立烏帽子の正体は天女。立て烏帽子改め、天女:鈴鹿御前と協力することによって大嶽丸の持つ三振りの宝剣「三明の剣」のうち二つを奪取したこれによって大きく弱体化した大嶽丸を宝剣:ソハヤノツルギで討ち果たしたという。(坂上田村麻呂・大嶽丸・鈴鹿御前の伝説は異説が山ほどあるので上記は一つの参考)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:38|2023年05月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第115回:興隆の承伝「禁門の変 長州軍」】
我が身、天下へ飛翔する!平氏興隆の祖:平正盛の嫡子、平忠盛。日本史上初の武家政権を確立させた平清盛の父である。(清盛の実父かどうかは諸説あるが群雄伝では清盛の実父ではないとする説を採用 清盛は、忠盛に下賜された「祇園女御の妹と白河法皇の子[※]」という設定になっている) ※[下賜された時に既に白河法皇の子を妊娠していた]というもの父:正盛が検非違使・追捕使(当時の警察のようなもの)を担い盗賊捕縛、海賊退治、朝敵とされた面々を討伐して伊勢平氏の活動基盤を確立。その任を忠盛が引き継ぎ、朝廷においての伊勢平氏の立ち位置を大きく改善した。そしてとうとう伊勢平氏において初めて「昇殿(内裏清涼殿:殿上の間に立ち入ること)」を許された。(貴族以外はまず立ち入れない朝廷政務の領域に、武士である平氏が踏み込んだということである 貴族たちはこの平氏の台頭が面白くなく、忠盛の身体的特徴[※斜視]を馬鹿にしていたと記録が残る)この昇殿を許された頃、貴族:藤原家の娘である「藤原宗子(後の池禅尼)」を妻とすることで親族血縁による影響力を展開することにも成功する。また、商才にも優れていた忠盛は日宋貿易にも力を入れた。貿易がもたらす富による経済基盤は平氏勃興を成すうえでの最大の要因であったともされる。その後、順調に出世を重ねていくが、平氏の最盛期は見ぬまま58歳で死去。死後、伊勢平氏棟梁は清盛が引き継ぎ、保元の乱・平治の乱の勝者となった清盛は天下に飛躍した。※斜視:両目の焦点が合わず目標物に対する視線が合わない身体的特徴。 (群雄伝においてもこの身体的特徴を嘲笑われるシーンがある) イラストでは片目を隠しており、暗にこれを表現したものとなっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:50|2023年05月11日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第114回:鬼の蒼炎】
人目に晒すことになるとは思わなかった・・本物の鬼の姿をッ!薄桜鬼シリーズコラボより薄桜鬼の主人公:雪村千鶴は父の行方を追うために男装をして京都に訪れある事件をきっかけにして新選組隊士たちと出会うことになった。剣術の腕前に関しても他男性の一般隊士に遅れを取るものではないほどであった。薩摩藩士:風間千景。表向きは人として生活しているが、その正体は西海九国の鬼族棟梁。(初代作品では千鶴の周りを固める新選組隊士以外で唯一攻略可能キャラクターである)新選組に所属した千鶴に固執して何度も現れるが、彼女が一人になった際に誘拐する卑怯な手は好まない。鬼であるものの約束は必ず守ることを信条としており一般的な粗暴な鬼とは異なる振る舞いである。では何故、彼女に固執するのか?それは「鬼の血脈を守るために純血の女鬼である千鶴が必要だった」からである。物語終盤「本物の鬼」である自身に対して、「まがい物の鬼」の力を得た土方歳三と対峙する。当初はまがい物の鬼を見下していた千景だったが、一人の女のために命を賭けて人でありながら鬼の力を宿して戦う男の姿に千景は認識を改める。土方の覚悟を認めた千景は、土方も鬼であることを認めて名付けた。「薄桜鬼」と。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:15|2023年05月09日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第113回:薄桜の武士】
紛い物だろうが何だろうが・・貫きゃ「誠」になるはずだ!薄桜鬼シリーズコラボより薄桜鬼の主人公:雪村千鶴は父の行方を追うために男装をして京都に訪れある事件をきっかけにして新選組隊士たちと出会うことになった。剣術の腕前に関しても他男性の一般隊士に遅れを取るものではないほどであった。新選組副長:土方歳三は千鶴の周りを固める新選組隊士の中でも物語の中心的人物である。(シリーズによっては土方自身が主人公を務める作品も存在する)鬼の副長の名で呼ばれる史実通りの評価でありながらその心根は非常に優しく物語終盤では驚異的な膂力・生命力を手に入れられる代わりに寿命を擦り減らす「羅刹」へと変貌する薬:変若水(おちみず)を使用して決戦に望む。変若水はまさしく「鬼」の力を人の身に降ろす使用してはならない禁断の秘薬。それでも土方は大切なものを守るために、変若水を使用したのである。「本物の鬼」である相手から見れば羅刹とは「まがい物の鬼の力」・・であるが土方はその人生でまがい物の武士としての扱いを受けてきた身分である。だが、信念によって本物の武士以上に武士らしくなった。まがい物だろうが何だろうが貫けば「誠」になれる。信念があるならばまがい物が本物に迫る、あるいは超えられる。土方はそれを知っていた。土方の覚悟を認めた本物の鬼は、土方も鬼であることを認めて名付けた。「薄桜鬼」と。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:57|2023年05月07日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第112回:俊英の用兵】
ボク、用兵にはちょっと自信があるんです!松下村塾塾生:山田顕義。松下村塾には塾生最年少である14歳で参加。(英傑大戦でのイメージは、松下村塾最年少であることを強く推したデザインとなっている)長州藩士の子として生まれた武士(上士と下士の間程度の家柄)であり兵学者:山田亦介(吉田松陰の兵学の師)の甥にあたる。しかしながら幼少期は「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」とそこまで言わなくてもいいだろ級の罵倒評価を受けていた。そこから勉学(特に大村益次郎から西洋兵学)を徹底的に学び第二次長州征討からその才覚を発揮。幕府軍をメッタクソのボッコボコにせしめる用兵を見せた。続く戊辰戦争ではその辣腕を発揮して旧幕府軍に対して連戦連勝を上げる。その見事な指揮から西郷隆盛をして「用兵の天才」「神の如き用兵の妙」「小ナポレオン」と絶賛されるほどだったという。明治政府樹立後は師:大村益次郎の補佐として軍事監督役を務め益次郎が無くなった後は軍事幹部として日本国軍の基礎作りを担い日本陸軍の父と称された。その後、岩倉使節団の一員として欧米視察を行ったことで司法の重要性に着目。(小ナポレオンと称された因果か、ナポレオン法典を知ったことがきっかけであったとされる)帰国後は民法・商法・民事訴訟法などの法律整備に尽力した。46歳の時、病気療養を理由に司法大臣を辞任。その後47歳の時に倒れ、帰らぬ人となった。「生きた、闘った、使命を全うした、人生に悔いはない」明治維新を成し遂げた用兵の天才:山田顕義が、維新後よく話した口癖である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:25|2023年05月06日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第111回:禍根の調略】
兄より優れた弟は・・認めねぇぇぇ!!今川氏親の三男にして今川義元の兄:玄広恵探(げんこう/えたん)。今川家次期当主を名乗り出た際は、「今川良真(いまがわ/ながさね)」と名乗ったとされる。玄広恵探という名前が僧侶のようなものになっているのは本来嫡子でない席次であるために今川義元(僧侶時の名:栴岳承芳[せんがく/しょうほう])と同じく僧侶となっていた為である。そのまま僧侶として一生を終えるはずが今川氏親の嫡子及び次男が急死したことが運命を一変させる。玄広恵探は今川氏親の三男。つまり、長男・次男が早世した場合の次期最有力当主候補に躍り出るのである。しかし、今川氏親の正室であり強い影響力を持った寿桂尼は義元を後継者に強く推した。(それもそのはず。恵探は氏親の子であるものの寿桂尼の子ではなく、側室の子だった為である)これに対して家臣:福島正成は三男が継ぐのが妥当であると反発して玄広恵探を担いだ。(それもそのはず。氏親の側室というのが正成の娘・・つまり恵探は正成の孫、少なくとも血縁者 だった為である。ちなみに福島正成は戦国大戦に登場済。地黄八幡:北条綱成の父とされる人物でもある)これにより後継者争いが勃発することとなるが、結果は恵探の敗北/自刃。恵探が最後に立てこもった城、花倉城から「花倉の乱」と呼ばれる争いである。その後、桶狭間前夜に恵探の霊が義元の前に出たとする伝説が残っている。出陣を諌める恵探の霊を、義元は悪霊であるとして聞く耳を持たなかった。「個人の恨みではない。今川家そのもの未来のために出陣するなと言っているのだ」恵探の霊はそう忠告していた・・という伝説である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:22|2023年05月05日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第110回:鬼神の大号令】
眷族どもよ!立ち上がれ!!玉藻前と同様、日本三大妖怪の一角:酒呑童子。人間だった頃の名を外道丸として、大江山を根城にして副官に茨木童子を据えて大江山四天王として熊童子・虎熊童子・星熊童子・金童子を従えてたびたび京を襲い京の都の姫君を攫って住処で殺害して血肉を食らうなどの暴虐さだったと伝わる。(また、鬼と呼ばれているが、実態は山賊であるとも言われている。いずれにしろ朝敵と見做された 存在は往々にして「鬼」認定されて討伐されても仕方が無いとする風潮にするのはこの時代多くある)この酒呑童子一派の狼藉にとうとう朝廷が動いた。武勇誉れ高い源頼光及びその四天王、さらに藤原保昌の六人を大江山討伐隊として派遣。頼光一行は神仏の加護を受け「神便鬼毒酒」と呼ばれる神酒と「星甲」と呼ばれる兜を授かり酒呑童子の拠点に辿り着き、自分たちは味方であると偽って酒宴の席に付いた。そこで酒呑童子の身上話を聞きながら、出された人肉や血を疑われないように食べその返礼として「神便鬼毒酒」を出す。毒を疑われたので頼光一行もこれを飲みそれに安心した酒呑童子一派もこれを飲んでからしばらくして寝静まった。頼光一行はこれを好機として、酒呑童子一派を襲撃。鬼たちは体が痺れて動けずに討ち取られた。(神便鬼毒酒は人が飲めば力の漲る妙薬、鬼が飲めば体が痺れて動けなくなる毒であった)その際、首を斬り落とされた酒呑童子が最後の力を振り絞って頼光に噛み付いた。しかしその反撃も神兜「星甲」によって防がれてしまい「鬼に横道なきものを!(鬼ですらこんな卑怯なことはしない。恥を知れ)」と怒って絶命した。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:15|2023年05月04日 18:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第109回:興神流居合術】
岩切の刃で、千切ってくれよう!藤原道長の家臣にして、道長四天王の一人:藤原保昌。平安時代中期の貴族にして武芸と風流の双方に通じた文武両道の人であり後に加賀藩での藩士武道教育にも残る興神流居合術流派を創始。その武勇を以って「勇士武略の長」と称されるが、「花盗人」の名でも知られる。ある時、思いを馳せた和泉式部から求婚の試練として紫宸殿前の梅一振りを所望される。紫宸殿とは天皇の御座所。恐れ多くもその庭にある梅を持って来ることとなったが警護兵が見回る中に侵入して梅を手折ったものの脱出の際に見つかり矢を射掛けられたという。何とか身元不明の状態で逃げのびた保昌は見事、和泉式部の夫となった。また、同じく藤原道長家臣:源頼光が大江山の鬼討伐の任を受けた際にこれに同行。元は小長刀(こなぎなた)であった名刀「岩切」を打ち直して小刀に変えて笈(※)に隠して持ち運び毒酒によって身動きの取れなくなった酒呑童子一味を見事討ち取った。その後、当時としては異例の長寿である79歳もの天寿を全うしてこの世を去った。※笈(おい):僧侶が旅をする際などに使用する荷物入れ。竹製・木製であるものが多く 現代で言うところのリュックサックのような道具。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:14|2023年05月03日 18:30:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第108回:強欲な号令】
強き欲は・・そのまま強き力になる!荊州は南陽郡の出身。袁紹配下:許攸(きょ/ゆう)。字は子遠。若き頃から袁紹と共に将来の勇躍を目指し「奔走の友」と称される間柄であった。袁紹が家督を得て勢力を伸ばしつつある時、その傘下となり、田豊と並んで袁家の参謀を担った。かつては奔走の友と称された仲であったもののこの頃の許攸は過去とは違い、金銭に汚い強欲な性格に変わっていたとされ袁紹の信任を得られずに許攸の進言が採用されることは少なかった。旧知の仲である自身に対するこの扱いには、許攸も内心苛立ちを覚えていたとされる。そして時が経ち、とうとう袁紹と曹操が官渡にて対峙。官渡でも許攸の進言は採用されず、さらには許攸の身内が罪を犯して逮捕。これによって奔走の友たる袁紹を見限った許攸は、同じく幼馴染でもある曹操へ寝返った。曹操はこれを偽装投降と初めは疑ったが、本物の寝返りであると確信し袁紹軍の配置を細かく知る許攸によって兵糧庫の位置が露呈してしまった為にそこを急襲された袁紹軍は敗退を余儀なくされた。曹操軍に下った後もその性格は直らずに主君となった曹操に無礼な態度を取り続け重要拠点「ギョウ」を攻め落とした際に「私がいなければ曹操はこの門は通れていない」と自慢。この発言が密告され、(そもそも普段の許攸の態度にガチギレしていた)曹操は速やかに許攸を処刑した。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:03|2023年05月02日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第107回:虎の背中「お祭り野郎争奪戦」】
ならば!その目で見極めよ!!「前田慶次 かぶき旅」コミックゼノンより関ヶ原の戦いから1年。徳川政権が実力を持ち天下泰平へと向かっていた時代。「花の慶次ー雲のかなたにー(原作:一夢庵風流記)」においては関ヶ原敗戦後の上杉/徳川間の和平の使者として一夢庵ひょっとこ斎となり傾奇者:前田慶次としての死を示す傾き納めを最後にして物語は終焉を迎えた。「前田慶次 かぶき旅」では一種のパラレルワールド的なストーリーを展開。関ヶ原後に九州へ旅に向かった慶次を中心とした物語を展開する。肥後の地に足を踏み入れた慶次は大名:加藤清正に遭遇。秀吉子飼いの将にして福島正則と並ぶ「賤ヶ岳の七本槍」筆頭。徳川の世に染まりつつある中でも未だ天下を目指し民と分け隔てなく接して南蛮文化の取り入れにも余念が無い清正。前田慶次の脳裏には清正の姿は織田信長が重なって見えていた。加藤清正は今回コラボキャラとして肥後大名の身分から玄勢力に登場。(英傑大戦では宮部鼎蔵や河上彦斎などの肥後藩勢はその他勢力として玄扱いとなっている)明治政府・晋・豊臣の新政権混合勢力(おそらく橙色勢力)として登場した際に英傑大戦の正規カードとしての加藤清正(豊臣所属)が登場すると思われる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:13|2023年04月30日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第106回:真紅の采配「お祭り野郎争奪戦」】
魏国の赤備え、ここは俺と貴様でやるぞ!赤備えよ、我が騎馬隊に続け!戦国最強と呼ばれた武田軍のエリート部隊「赤備え」を率いた武将:山県昌景。旧名:飯富源四郎。武田家の領地拡大に伴って人材不足となっていた頃、家臣親族近習から人材が集められた。赤備えを率いた飯富虎昌の弟であった源四郎もその一人として参加したが後に武田信玄の嫡男であった義信が謀反の疑いで廃嫡となった際に飯富虎昌も連名で罪を問われ自害。以後、飯富の姓を改めて、山県姓を名乗り数多の戦場に出てその才覚を見せた飯富源四郎改め山県昌景は武田四名臣の一人にまで数えられた。主君であった武田信玄が病死し、次代の武田勝頼を補佐するが、昌景と勝頼の仲は良くなく運命の長篠合戦では織田/徳川軍との正面衝突を避けるようにと進言するが聞き入れなかった勝頼の号令により武田軍は突撃を開始。単純兵力が下回っているにも関わらず野戦に誘い出された武田軍は織田・徳川連合軍に敗退。無理を承知で特攻した昌景は腕を撃たれた際に軍配を口にくわえ指揮を取るも最後には戦死した。戦国大戦での1枚目(真紅の荒獅子)の彼のイラストは采配を口に咥えて片手で手綱を握っていたがこれは上述の片腕負傷のまま指揮を取り続けた逸話の再現。今作でも兄が何故か槍を咥えている。英傑大戦では上記の戦国大戦1枚目イラストのデザインでERでの登場となった。(主君の信玄はSRである)信玄/家康はERを部下(昌景/忠勝)に譲っている為、2枚目のER版があるかも・・と筆者の中で話題に。(瀬田に旗を/武断の返忠のような威厳のある老年期verで登場するかも!)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:01|2023年04月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第105回:無慈悲なる妖剣】
残念、俺の剣からは逃げられへんよ?大江山を根城にして京都にて何度も暴れまわった酒呑童子を首領とする鬼集団の副官:茨木童子。元は人間として生まれるも、生まれながらに歯が揃い、髪も生え揃え、すぐに歩行まで行った。母の妊娠期間は16ヶ月にも及んでいた為に難産が極まり、母体への負担からは母はすぐに亡くなった。一族も、後に茨木童子と呼ばれるこの子を気味悪がり山に捨てたが、床屋の夫婦に拾われた。茨木童子はその後成長して床屋仕事を覚えるが、ある時に客の顔を傷つけてしまう。その血を舐めた後に川の水面を除くと、角が生え鬼の形相となっていた自身の顔に驚愕して失踪したという。その後、酒呑童子に出会ってその軍門に下り、京にて暴れまわるが朝廷より派遣された源頼光率いる討伐隊によって大江山の鬼は駆逐された。茨木童子はこれを唯一生き延び、後日、一条戻橋にて仇敵:渡辺綱を罠に掛けようと画策。美女に化けて奇襲を行うが、間一髪で看破した綱は名刀髭切を抜刀。茨木童子の片腕を斬り落として撤退せしめた。後日、綱の元に伯母が訪れるが、安倍清明から鬼が腕を取り戻しに来ると警告を受けていた綱は始めは家に入ることを拒否していたが、次第に情に絆されて家に上がらせた。伯母に鬼から斬り取った腕を見せると、伯母は鬼の姿となって腕を回収して引き上げたという。その後の行方は知れず、討伐されたかどうかも定かではない。英傑大戦の登場カードで未だに生きている可能性のある非常に稀有な登場人物である。(その他で今でも生きている可能性があるのは玉藻前ぐらいのもの)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2023年04月24日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第104回:鎮撫の銃弾】
後世の評価など知るものかぁ!今に応ずるのみだ!!時は幕末。坂本龍馬の師にして海軍操練所の創設者。幕末三舟の一角:勝海舟。字は義邦。幼名・通称を麟太郎という。生まれは旗本であるもののその中では高い身分では無かった。しかし、その能力が評価されて出世を重ねて幕府軍艦奉行並(幕府海軍の統括長)にまで出世する。海軍強化の任を受けた海舟は海軍操練所を創設。坂本龍馬を門下として交流を深めたが幕府側である海舟が攘夷派との交流を行ったことを咎められて免職。後に戊辰戦争が発生した際には抗戦派を抑えて江戸城無血開城に尽力して市民への戦火の拡大を防いだ。新政府樹立後も旧幕臣として参加を要請されていたが、最前線からはやや一歩引いて相談役としてのポジションを取り旧幕臣の生活補助(※)や、西南戦争後は無血開城の件で世話となった西郷隆盛の名誉回復に努めた。※ちなみにこの勝海舟による旧幕臣の生活補助の一環で大御所:徳川家康由来の地である駿府周辺で 旧幕臣に茶畑農業を斡旋したことが、今日での静岡県がお茶で有名になっている由来である。隠居後、十分に天寿を生きた後に脳溢血により倒れて76歳でこの世を去る。最後の言葉として「コレデオシマイ」と発した。突然の人生の終幕に直面したわけだが自分の人生すら一種の劇場を見ているかのような客観的思考で捉えていた海舟の人生観を表す言葉である。これは英傑大戦でも撤退時の台詞になっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:17|2023年04月22日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第103回:小枝の笛】
無冠の若造なれど、我が名は音曲とならん!平清盛の甥、平敦盛。官職に付いていなかったことから無官大夫と称される。武勇及び文芸に優れ、笛の名手であった鳥羽天皇から祖父:平忠盛(緋の8/4剣豪として登場済)が譲り受けた笛「小枝」を与えられるほど、敦盛も笛の名手として有名だった。反:平家勢力の各地での武力蜂起に対して敦盛も弱冠17歳の若さで出陣するも劣勢に陥った平氏側は騎乗したまま船に乗り込み撤退。(一ノ谷の戦い)(海辺で騎乗している敦盛のイラストはこの状況を表したものである)しかし、源氏鎌倉側:熊谷直実の挑発を受けて馬を返して切り込む平氏武者がいた。直実がこれを切り伏せて倒し、兜を取ると自身の子に近い若武者であったことが判明。いくら手柄になるとはいえ、直実はこの若武者を討ち取ることを躊躇った。そこで敦盛は潔く「あなたの勝ちだ。私の首を取れば恩賞がもらえるだろう」と命乞いせずに言い放ち既に源兵が迫っており自身が見逃しても助からないと判断した直実は敦盛を討った。直実が若武者の身を改めると、小枝の笛を所持していたことを知る。昨晩、敵方から聞こえてきた見事な笛の音は、この若武者が奏でていたことを知った直実は敵将の首を取って見事手柄となったものの、後悔の念からその後すぐに出家したという。「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり」17歳で討ち死にとなった敦盛の悲劇は後に彼自身の名が付けられた幸若舞「敦盛」となり現世/人生の儚さを詠う音曲となりて、織田信長を始めとした後世の人物に愛された。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:03|2023年04月17日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第102回:若虎の手腕】
戦うほどに強くなってゆく、孫仲謀の手腕を見せるぜ!三国鼎立から以前、群雄諸侯の一人として呉国の祖を築いた孫堅。孫堅の討ち死にから跡を継いだものの急死した孫堅の長男:孫策。そして、孫策の死後に跡を継ぎ呉国誕生およびその初代皇帝を担った孫策の弟:孫権。字は仲謀。父を亡くしたのは孫権が10歳の時、兄を亡くしたのは18歳の時である。江東に大きく勢力を伸ばした孫家。その若き当主として孫権が跡を継いでから8年後中原最大の覇者である曹操軍が南下してきた。これに対して交戦か降伏か、孫権は決断を迫られる。臣下たちの意見も真っ二つに分かれるが周瑜・魯粛の抗戦派の意見を採用。臣下を一堂に集めて剣を抜き机の角を切り落とし「以降、降伏論を唱えたものはこの机と同様に斬る」と宣言。結果、赤壁にて曹操軍100万に対して大勝することとなる。後に、呉国を建国して皇帝と名乗る男の若き頃の姿として英傑大戦に登場した。ERとしてグラフィックをもらっている父兄とは違ってSR扱いのスタンプカードである。おそらくではあるがグラフィック付きのER孫権(皇帝ver)が出る・・はず。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:05|2023年04月11日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第101回:御堂関白の才腕】
影など踏んでも意味はない・・その面頬を踏んでくれよう!平安時代中期、摂関政治の最盛期を築き権力を掌握した男:藤原道長。(平安時代で教科書にも名前が出てくるレベルの人物だが、レアリティは下から2番目)古くからの名家/貴族である藤原家の者ではあったものの道長は五男。本来、権力の掌握からは遠い席次であったものの兄たちの病死が相次いだことで主導権を得た。(貴族は見た目重視で栄養の伴わない食事が多く、飲酒も多かったので若死が非常に多い)自身の娘を天皇陛下の后にし、さらにその子が天皇になり、天皇の外祖父となることで一気に権力集中を完成させた。(このやり方は後の平清盛も模倣している)平安時代後期に「武士」が政権を奪取するまでの間は藤原氏による摂関政治によって京ひいては日本の治世が行われていたといってもよく、藤原家の全盛を築いた。摂政に就いた後にすぐ実子に譲り出家。仏教を厚く信仰していたために法成寺(通称:京極御堂)を建立したことから御堂関白の異名を取る。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」天下のすべてを握った道長が詠んだ唄。ありとあらゆる権力を握った自身の人生の栄華さを満月のように満ち足りた状態であると表現したものでありイラストにも月の模様が映っているが、むしろ欠けてる部分の方が多いまであることに笑ってるのは俺なんだよね。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:41|2023年04月08日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第100回:源平合戦-前日譚-】
義朝!俺たち「武士」の底力を見せてやろう!あぁ、構わん!源義朝とかつて共に戦い、後に袂を分かつこととなった平清盛。平清盛とかつて共に戦い、後に袂を分かつこととなった源義朝。平清盛は源義朝を打倒し、平氏の隆盛を築いた。源義朝の子孫は後に平氏を打倒し、源氏の隆盛を築いた。・・・だが「武士の身分を改めさせる」という意味では、同じ目的を有する同志でもあった。英傑大戦ver1.5平安時代。源平合戦と呼ばれる争いの前日譚である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:45|2023年04月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第99回:迅衝隊の指揮「池田屋事件 攘夷志士」】
迅衝隊が、新たな戦を見せてやるッ!土佐藩上士、乾家嫡男:乾退助。若き頃は喧嘩にあけくれる乱暴者であったが、23歳の時に家督を相続。さらにそれから2年後には土佐藩主:山内容堂の御側用役に抜擢された。(この頃に急速に台頭していた土佐勤皇党とは対立関係にあった)その後、土佐藩の主思想とは違い、武力による幕府の打倒が必要だと判断。思想が一致する西郷隆盛ら薩摩藩と友好関係を結んでいたとされる。さらに後に日本史上最大の内戦「戊辰戦争(旧幕府軍vs新政府軍)」が勃発。退助は土佐藩兵を率いて「迅衝隊」を指揮して新政府側として参戦した。近藤勇率いる新選組残党(原田左之助・永倉新八・斎藤一などの名立たる面々含む)を相手取り迅衝隊は、最新の武装を全く使いこなせない近藤側を蹴散らして圧勝。(甲州勝沼の戦い)あの幕末京都で恐れられた新選組の強豪を簡単に破ったのである。・・そう。剣豪が名を馳せたのは京や江戸という局地市街戦に限ってのことだった。「戦場」では刀の時代などとっくの昔に終わっていたのである。(正確には、日本史の戦場で刀の時代があったことなど歴史上一度も無い。投石にも劣る武装である)そして、ちょうどこの頃、乾退助は自身の姓を改めた。乾退助改め 「板垣退助」後に自由民権運動の父、国会の創始者と呼ばれる男の若き頃の姿である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2023年04月02日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第98回:萩の乱「池田屋事件 新選組」】
俺は手加減ができない男だぞ、いいかぁ?長州藩士:佐世家嫡男にして尊皇攘夷派志士:前原一誠。(前原姓は後に改姓したもの)23歳の時に吉田松陰の松下村塾に入塾。久坂玄瑞や高杉晋作といった名立たる面々と肩を並べた。松陰曰く「勇あり、智あり。誠実人に過ぐ」と評価され「その才は久坂に及ばず、その識は高杉に及ばず、されど総合力では二人とも前原に及ばない」と称された。藩内の派閥が分かれた際は高杉晋作らと共に正義派に所属。第二次長州征討、続く戊辰戦争では北越軍参謀として活躍し、明治政府の樹立に尽力した。しかし、前原一誠は長州藩士。つまり「武士」である。明治政府が立ち上がった後の政策、四民平等、廃藩置県、廃刀令、版籍奉還、秩禄処分etc・・・どれもこれもが武士の特権を奪う政策ばかりが謳われ制定されていく情勢を前にして前原は政府と袂を分かち、故郷である萩に戻った。この頃、不平士族の決起が各地で勃発しておりそれらに呼応する形で前原一派も決起。殉国軍を自称して武力蜂起を開始するも総兵力は200~300と僅か。さらに予め萩に不穏の動きありと行動を読んでいた木戸孝允(桂小五郎)の手配が早く1週間余りで完全に鎮圧。その他首謀者と共に前原一誠は斬首された。(萩の乱)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:36|2023年03月31日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第97回:双璧の武技】
文醜!我らが武勇を、知らしめてやろうではないか!顔良!俺達が戦場を支配してやろうぜぇぇ!常勝不敗であった袁紹軍。その中でも二枚看板と評される二大武将がいた。袁紹配下最強の二名:顔良/文醜。共に字は不明。正史/演義では討ち取られ方が違うものの官渡の戦いで討ち取られることは同じ。官渡以前の戦いでは明らかな失策の類をしておらずむしろその強さが際立っていた。演義での記載を見るに、両名とも徐晃より強いと表現されているほどであるものの荀彧は「両方とも大将の器量がなく匹夫の勇でしかない」と厳しい評価を下しカール・アウグスト・ナイトハルトは「Are you you care HIPのYOU(ああいう勇気は「匹夫の勇」)」と評した。討ち取られ方は演義の記述が圧倒的に有名。顔良は、事前に劉備から弟の風貌を伝えてもらっていたのでまずは関羽と話そうとしたが関羽から見れば戦場で無防備にしていた顔良を一閃の下に討ち取った。演義では顔良/文醜は義兄弟の契りをかわした仲である為、当然文醜は激怒。文醜は曹操側の輸送部隊を狙うがこれが罠であり一斉に曹操軍が雪崩れ込み関羽が斬り込んできた際にあえなく討ち取られたという。関羽が袁将配下最強の2名をあっけなく討ち取ってしまった為、袁紹軍は士気が大きく下がり敗退したとされる。また、あまりの強さに驚いた曹操に対して関羽がこう返したエピソードがある。曹操「お前のような武神の如き強さの弟を持てて劉備殿は幸せものだなぁ・・」関羽「いえ、義弟の強さに比べれば私など足元にも及びません」曹操「えぇ・・・(ドン引き)」残念ながらこのゲームでは関羽の方が強いのはアレだが。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:10|2023年03月29日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第96回:式神・太陰】
私の霊力は桁が違うッ!お前たちはこれで一巻の終わりどわぁぁ!平安時代の呪術師、陰陽師:蘆屋道満(あしや/どうまん 芦屋道満とも)。別名:道摩法師とも伝わる。実在したかどうかも定かではない創作上の人物ともされており創作内では時の摂政:藤原道長に嫌がらせのような呪術を施した道満の術を清明が見破り成敗する等の正義の陰陽師:安部清明に対して、悪の陰陽師:蘆屋道満として出てくることが非常に多いのだが実際に伝わる人物像では無欲正義の人であるとも伝わっており、悲しい役柄を担ってしまった人物でもある。英傑大戦でもver1.5に主役格である安部清明と一緒に登場したが、何と女の子の姿である。実在したかどうかもわからない人物なので、実際は男性であると断定出来ないのだが蘆屋道満(見た目は女の子)については使い続けることでどういうことなのか判明するようになっている。ちなみに海女さんが身に付けるお守りに「ドーマンセーマン」というものがあるがその紋章が蘆屋道満と安倍清明の紋章に酷似していることも含めて二人の名前から取ったのではないかとする説がある。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:33|2023年03月27日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第95回:不屈の守将】
雑魚はどけ!死兵と化した俺には勝てんぞ!!若き頃から曹操に仕え、軍功により将軍の地位にまで至った歴戦の将:カク昭。字は伯道。彼が一大有名武将となった原因とも言える戦いは「陳倉の戦い」この戦いにおいて三国志の超有名人物である諸葛亮が率いる北伐軍を撤退せしめた逸話がある。(諸葛亮がそこまで戦上手ではないと評価される原因でもある)諸葛亮の第二次北伐の主戦場となった陳倉城。その守備を任せられていたのがカク昭である。兵力差は、諸葛亮側数万に対して、カク昭側は千程度。戦力差20~30倍という城を守る側であっても対処不可能な数字である。(一般的に城を落とすには守城側の3倍の兵力が必要とされているが、これは20~30倍差)まずは蜀側の同郷の者を呼び寄せてカク昭に降伏を促すが、カク昭は徹底抗戦の姿勢を取った。ならばと、諸葛亮は攻城梯子・衝車・攻城櫓に加えて地下から城内に侵入とあらゆる手を使って攻めるが陳倉城の守りを突破できず、諸葛亮を相手取って「万策尽きた」状態とさせた。補給面の問題を抱えていた蜀軍は兵糧不足に陥って撤退を余儀なくされたという。絶望的な状況に於いても蜀に下らず城を守り抜いた英雄に感銘を受けた曹叡(曹丕の次代皇帝)はカク昭に爵位を与えて要職に就かせようとしたが、既に老齢であり病に倒れて死去。死に際に「死者(自分)を厚く弔うことに意味はない。今、生きている者を大事にせよ」と遺言を残したという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:35|2023年03月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第94回:時間跳躍/覚悟の継承/相棒との共闘】
逃げねえよ。これはオレの人生の……リベンジだ!!原作:東京卍リベンジャーズ(週間少年マガジンより)自身の絶頂期と言える中学時代は彼女がいて順風満帆な学生生活を送っていたが人生の調子は東京卍會に関わったことから右肩下がり。現在はうだつの上がらない生活を送るフリーター:花垣武道。ある日、中学時代の彼女であった橘日向(ヒナ)に関するテレビニュースが目に入った。ヒナが極悪集団「東京卍會」の抗争に巻き込まれて死んだ・・と。そしてその後すぐ、武道は駅のホームで何者かに背中を押されて列車に轢かれ死亡した。・・はずだった。次に気が付いたときには自身の絶頂期であった中学時代に戻っていたのである。時間跳躍(タイムリープ)の力を得た武道は、自身の人生をドン底に落とした原因である東京卍會に参加。内部から見た東京卍會は確かに不良集団ではあるものの現在の凶悪ぶりは過去の東京卍會とは明らかに一線を画したものになっていることに気付く。とある条件を満たした場合に現代と過去を行き来できること。過去を変えた場合、それに合わせて現在を変えられること。それらに気付いた武道は自分を救い、ヒナを救い、そして東京卍會を変えるべく、人生のリベンジを試みるのであった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
9:04|2023年03月23日 17:01:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第93回:無敵のマイキー/万夫不当/万能一心】
こんなかに、親友(ダチ)がやられてんのに日和ってる奴いる?いねぇよなぁ!?あいつら潰すぞぉぉぉ!!原作:東京卍リベンジャーズ(週間少年マガジンより)「東京卍會」現代においてあらゆる犯罪に手を染める、ある意味ではヤクザより凶悪な半グレ集団である。しかし、昔の東京卍會はそのような行為までは行っていなかった。主人公はとある出来事から過去に戻れるタイムリープ能力を得て、自身の絶頂期だった12年前、中学生の頃に戻る。そして、過去の東京卍會に所属した主人公は、当時の卍會メンバーと出会った。初代総長:佐野万次郎(通称:マイキー)、副総長:龍宮寺堅(通称:ドラケン)、弐番隊隊長:三ツ谷 隆。彼らと知り合った主人公は、彼らは不良であり乱暴ではあるものの粗にして野だが卑にあらず。現代の東京卍會は明らかに違う存在だと気付く。何故、人道に外れる行為を当たり前のように行う現代の東京卍會が出来上がったのか?タイムリープを駆使してその謎の解明と自身と周囲に訪れる悲劇を止めるため、主人公のリベンジが始まる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:46|2023年03月21日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第92回:臥龍の将略】
我が大計で、戦を終わらせましょう!名門諸葛家の天才児、蜀漢の軍師/参謀/為政者:諸葛亮。字は孔明。国と呼べるものを持っていなかった時代の劉備が三顧の礼を以って迎え入れたとされる。袁紹死後の残党を処理して中原最大の勢力となっていた曹操軍先鋒を博望坡にて破り呉国の協力を舌戦にて取り付け、呉国を利用して赤壁にて曹操軍に大打撃を与え劉備に身内を攻めてでも領地を獲得することを教唆して天下三分の計を完成。義兄弟の死、夷陵での大敗、失意のままに死去した劉備の遺志を継ぎ内政・軍事・外交の全てを担って蜀を牽引するが、この激務は諸葛亮の寿命を大いに削る。正史での諸葛亮は奇策を使う指揮官ではない。勝つべくした戦に順当に勝つ正道の指揮官である。しかしながら魏への北伐連発に関してはかなり無謀な行軍であった。(自身の寿命と次代君主の非戦的な態度に焦った結果、北伐は一か八かの賭けであったとも云われているが そもそもじっくり戦ったところで国力に大きな隔たりがある魏に対しては順当に敗れるだけであるのも事実)その最後の5回目の北伐。五丈原にて寿命が尽き、陣中にて没した。演義では、奇策に富む天才軍師としての色がかなり強いが、孔明は軍事で無敵だったというわけではない。(軍事に限れば他に孔明以上と評される者が多数存在する)「内政・軍事・外交を全て上手にこなすマルチプレイヤー」としての面が尋常ではないというのが正史での諸葛亮孔明の評価である。(司馬懿が孔明の死期を悟ったのも、これら全てを一人でこなしていることを知ったからと云われている)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:43|2023年03月19日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第91回:狼顧の謀略】
我が眼に燃ゆる猛りを見た者は無い・・・!魏国の行政及び軍事の最高指導者に上り詰めた武将/軍師/参謀/為政者:司馬懿。字は仲達。名門:司馬家の出身にして、後に曹家に仕えることとなるが司馬懿の才を警戒した曹操が存命のうちは重用することは無かった。曹丕の代に移ってからは元々曹丕の部下であった司馬懿は既に曹丕の信頼を得ており要職に就いた。曹丕が在位期間僅か6年で死去した後は魏の最高位指揮官となり幾度の北伐を繰り返した蜀の5回目の侵攻、それも諸葛亮自身が指揮する蜀軍に対して司馬懿は防衛軍を編成して五丈原にて対峙(五丈原の戦い)蜀の相次ぐ遠征による国力低下/兵糧不足/諸葛亮の死期を把握していた司馬懿は防戦に徹することで局地的に蜀が勝つことはあっても挑発には一切乗らずに大局的優位を取り続けた。結果、諸葛亮が陣中にて没して撤退。司馬懿の防衛戦はほぼ完全な勝利として幕を閉じた。いつしか曹家の勢力をも上回る影響力を持った司馬家であるが、当然曹家はこれが面白くない。司馬懿としてもいつ自身と一族が粛清されるか不安が募りそれに加えて曹家主導の戦での連敗続きから魏国そのものに対する危機感が募っていった。そして249年、司馬懿は軍事クーデターを決行する。(高平陵の変/正始の政変)これにより司馬家は魏王朝を乗っ取り、権力を掌握。その約2年半後に没するが、息子の司馬師/司馬昭。孫の司馬炎によって新たな王朝:晋が建国され三国時代の最終的な勝利国の祖として司馬懿はその名を残している。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:38|2023年03月17日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第90回:執念の挙兵】
あらゆる手段で将軍家の権威を蘇らせるッ!足利幕府第12代征夷大将軍:足利義晴。応仁の乱から40年以上経過し、足利幕府の権威が完全に失墜した頃の将軍である。父は第11代将軍である足利義澄だが、第10代将軍の足利義稙に将軍の座を奪い返され六角家を頼って逃げ延びるたが後に将軍に返り咲くことは無く病死。義澄が病死したことで六角家は足利義稙側に付いてしまい、他家を転々と頼ることとなった。一方幕府側だが、実権を握っていたのは将軍に継ぐ権力者「管領」の細川高国。その高国と足利義稙が対立して義稙が失踪したことで、高国は代わりに足利義晴を擁立。晴れて第12代将軍に就任した義晴だったが、今度は細川家の政権抗争により後ろ盾であった細川高国が細川晴元に破れ、晴元が別の将軍候補を立てたことで立場は再び危うくなる。その後しばらくして細川晴元とようやく和解することとなったが今度は細川晴元が三好長慶に打倒されたことでまたも京を追われることとなってしまった。そして、再び京に戻ることは叶わず病死することとなる。京を追われ、京に戻りを繰り返すその姿は、時代の武を統括する征夷大将軍の姿とは言えず将軍がもはや神輿としての扱いになってしまっていた状況を体現するかのような生涯を送った人物であった。ちなみに彼のカードイラストは粥のようなものを持っているがこれは逸話準拠。晩年、三好長慶を倒すべく軍勢を整えていた義晴だが、前述の通り既に死に至る病を患っていた。それでも、死の直前まで粥をすすりながらも進軍を続けた逸話があるゆえのイラストデザインである。武士の棟梁が武力1・・という悲しい評価だが、粥の描写と頭からの霊的描写からイラストの彼は既に半死半生の状態であり、武力1も致し方ない状態なのである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:09|2023年03月15日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第89回:文帝の覇道】
俺の治世に不要なものは、残らず滅ぼせ!魏武帝:曹操の跡を継ぎ、魏文帝と称された魏国の初代皇帝:曹丕。字は子桓。元は庶子であり三男であった為に曹操の跡を継ぐ席次ではなかったが長兄:曹昂が宛城の戦いで討ち取られ、次男の曹鑠(しゃく)が病死した為に嫡子となり曹操が死去したことでその跡取りとなった。曹操の時代は後漢皇帝であった献帝を擁立するという姿勢で立てていたものの曹丕の代に移ってからは後漢を担ぐことはせずに献帝を退位させて自身が皇帝となり魏王朝を立てた。(これにより後漢は名実ともに滅亡となった)以後、三国時代となり呉蜀との戦いが苛烈を極めることとなるが、武帝と称された父とは違い、戦での目立った戦績はない。文帝の異名の通り内政統治に注力し、九品官人法(※)と呼ばれる新たな採用制度を取り決めた。しかしこれは後に腐敗を招くこととなり、さらに司馬懿を重用したことは後に曹魏政権の崩壊を招く結果となってしまう。(※九品官人法が三国志大戦におけるランクである「品」の元ネタとなる制度である)さらに曹丕が満を持して放った大軍は呉国に散々な目に合わされての敗退を連発。勝利しての領地獲得が無ければ国力の空費でしかないこれらの遠征は魏の弱体に繋がった。さらに在位期間は6年に満たずに死去した為に、魏国の崩壊をさらに助長する結果となり現代の評価でも残念ながら明君と判断する説者はあまり存在しない。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:33|2023年03月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第88回:火焔の大号令】
孫呉の天下を、我が手で掴まん!呉の四姓(陸氏・・朱氏・張氏・顧氏)の一角、有力豪族:陸家。その陸家の長:陸遜。字は伯言。かつて袁術の小間使いであった孫家に攻撃を受けたことがあった為、孫家とは敵対関係にあった陸家。孫策が没して孫権に家督が移った後に出仕してその配下となり、孫策の娘(孫権の姪)を妻とすることを許され関羽討伐成功の遠因となる策を発して出世を重ね、周瑜・魯粛・呂蒙に続いて呉の大都督に就任した。関羽討伐によって完全にキレた劉備が呉に攻め入ると、朱然や孫桓といった将を率いて前線を指揮。劉備軍の陣営から火計に対する防備が薄いと見抜いた陸遜は夜中に火攻めを決行。(夷陵の戦い)蜀側は将兵の多くが討たれる大敗北を喫して敗走。劉備はその翌年、失意の内に病死した。陸遜は後に行政の分野における最高指導者である丞相となるが孫権(晩年の暴君モード)に諌言を行ったことで毎日のように問責の使者が来るようになり怒りと失意のうちに憤死したとされる。三国志を題材にしたメディアでは他二国の参謀的有名人物である司馬懿・諸葛亮に比べると陸遜は若手のエース的なデザインにされがちだが、英傑大戦のデザインではおっさんである。司馬懿とは4歳差、諸葛亮とは2歳差でしかなく、夷陵の戦いの時点で約40歳と時代的に既に高齢である為英傑大戦デザインの陸遜の方が史実の年齢を鑑みるに正しかったりする。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:48|2023年03月11日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第87回:王者の驀進】
気高く!堂々と!勝利へ驀進せよ!!後漢時代、漢王家の官僚三公(※司徒・司空・太尉)を4世代に渡って排出した名門:袁家。その中でも最有力者として後漢末期の最大級勢力を有した男:袁紹。字は本初。曹操とは幼馴染の間柄でもあり、弟は同じく最大級の勢力を有した袁術。(魏・呉・蜀の三国体制となる前は袁家が中原を支配していたといっても過言ではない)袁紹は元は何進の属官を担っていたが、何進が宦官(十常待)に暗殺され代わって董卓が十常待を一掃するも、董卓とは政敵として敵対関係となり漢王朝を牛耳った董卓を打倒する名目で諸侯に協力を仰ぎ反董卓連合を結成。その盟主となるも、見事なまでに我の強い諸侯をまとめきれずに連合は瓦解してしまう。その後、呂布によって董卓は暗殺された為、中原は群雄割拠の時代となった。袁紹軍は戦乱の時代の中で連戦連勝を重ねる常勝軍として躍進。ちょうどその頃、旧友である曹操も台頭。覇者を決めるべく官渡にて対峙した。曹操軍4万に対して袁紹軍は30万(兵力差は諸説あり)。戦力差は歴然としており曹操軍は敗色濃厚として士気も上がらずに、曹操自体も参謀や軍師に励まされていたという。しかし、それまでは連戦連勝の名君であった袁紹であったが、この官渡に於いて急に陰りが目立ち諫言を行った名軍師:田豊を幽閉し、自軍の配置を知る部下:許攸は曹操軍に投降。これにより食糧庫の位置が露呈。そこを突かれた為に袁紹軍は瓦解して敗走した。・・とはいえ依然、袁紹勢力は最大派閥であり、曹操も袁紹存命のうちは手出しが出来なかった。問題は後継者指名をしないままに袁紹が病死したことであり、息子たちが勢力内で分裂。内部分裂の隙を曹操が見逃すはずもなく、この隙を突かれたことで袁家は滅亡することとなる。※司徒・司空・太尉司徒…行政の最高責任者、司空…監察・行政立案の最高責任者、太尉…軍事の最高責任者長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:00|2023年03月09日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第86回:盟主の号令】
獣ども、私が支配してやろう・・・!新選組に中途参加ながら参謀となり、後に御陵衛士を結成。その盟主となった男:伊東甲子太郎。諱は武明。常陸志筑藩士の子として生まれた武士であるが父の借金が原因となり一家は領外へ追放された。その後、水戸へ遊学した際に北辰一刀流剣術:伊東道場に入門。類稀な剣術の才を見込まれ、伊東家の婿養子となった為に「伊東」姓となった。(元の姓は鈴木であり、同じくカード化された新選組九番隊組長:鈴木三木三郎は甲子太郎の弟)新選組八番隊組長:藤堂平助はかつて伊東道場にて剣を学んだ過去があり規模拡大に伴い隊士を募っていた新選組に藤堂平助の推薦/紹介もあり参加した。水戸という尊皇攘夷の考えが根深い地で遊学していた甲子太郎の思想は強烈な尊皇攘夷派でありかつて袂を分かつこととなった清河八郎に似た思想者を新選組は招き入れる形となったのである。新選組局長:近藤勇との思想の違いはすぐに発覚するが新選組の鉄の掟「局を脱するを許さず」がある以上は個人脱退は不可能。そこで甲子太郎は新選組と同志ながらも分離という形で御陵衛士を結成。これにより隊士が分散した為、甲子太郎の参加は結果的には新選組を弱体させたとも考えられた。甲子太郎はその後、近藤勇との会談を行うがその帰り道で新選組隊士に囲まれ大石鍬次郎によって斬殺されたと伝わる。さらに新選組は甲子太郎の死体を利用して油小路にて御陵衛士メンバーへの襲撃を実行に移す。(油小路事件には多数の隊士を動員していることから局長あるいは副長命令であったのはほぼ間違いない)これらは後に大きな恨みとなり、近藤勇の運命を決めることとなる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:15|2023年03月07日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第85回:盛者必衰】
花は枯れようとも、人は倒れません!日本初の武士政権を確立させた平清盛の正室(継室):平時子。二条天皇の乳母であり、後に高倉天皇の皇后となった平徳子の母である。(平徳子の入内は、皇女でもなく貴族でもない平氏の血筋が朝廷に入るという意味であり この頃の平清盛は太政大臣に就任して、もはや誰にも止められない域にまで達していた)高倉天皇と徳子の間に子(安徳天皇)が産まれ、安徳天皇が数え3歳で即位したことで平時子は天皇陛下の祖母という立場となり夫:清盛が没した後は平氏一門の後見役として影響力を持った。各地で源氏を中心にした反平家勢力の台頭。平氏側の敗戦続きによって西に追い詰められ源平最後の決戦の地である壇ノ浦の戦いで平家が完敗したことを悟ると自身の孫であり僅か8歳であった安徳天皇と三種の神器:天叢雲剣(草薙の剣)を抱き入水自殺をして平家とその隆盛を築いた清盛に殉じて果てたという。その時代の主役格のカードの有名な奥さんはお龍さんをはじめとしてER級とされているが平時子もその最期が非常に有名である点から堂々のERで登場。一般的に尼の格好をしたお婆ちゃんのイメージだが、英傑大戦では爆裂魔法を使いそうな見た目と声で非常に可愛い。平家側の全体強化なのに「盛者必衰」という何故か自虐的な計略名を持たされているのは何故だろうか。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:47|2023年03月05日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第84回:栄耀栄華】
俺たち武士が、このデッカイ天下を持ち上げてやるんだッ!!伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男:平清盛。母については不明。一説では白河法皇の落胤(認知されない子)であるとも実は忠盛とは血は繋がっていないとも伝わっているが、事実定かではない。(群雄伝では祗園女御の妹と白河法皇の子であるという説を採用している)公家貴族や朝廷の小間使いでしかなかった「武士」という存在の身分を改めさせ日本史上初の太政大臣にまで上り詰めて武士政権を確立させた武士ある。朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱。平氏・源氏ともに二分したこの派閥争いでは源義朝と協力してこれに勝利。さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。清盛の留守を狙った義朝のクーデター行為に対して、清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻り鎮圧。ただ一つ、平清盛は優しすぎた。源義朝の嫡男を流罪で済ませてしまったのである。「平家にあらずんば人にあらず」平治の乱から二十年に渡り、平家の隆盛はその極みに達していた。朝廷内の平氏の台頭が面白くない貴族たちが決起する前に粛清した「鹿ヶ谷事件」かつて支持した後白河上皇との対立。院政を遮断させた「治承三年の政変」これらの事件を経て、平家へ反旗を翻す諸勢力が各地に発生。それら反:平家勢力を束ねるのはもう一つの武家である源氏。そして源氏を束ねる男は、かつて自身が見逃した・・源義朝の嫡男:源頼朝だった。(これが、倒した敵の男児は必ず殺すのが武士の習いとなった原因である)各地で反平家の声が高まる中、清盛は熱病を発してこの世を去った。「おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し」それから4年後、かつて隆盛を誇っていた平家は連敗を重ね、壇ノ浦にて滅亡することとなる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:42|2023年03月03日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第83回:野望の果て】
果ては殺戮、果ては冷たき星、全ては源氏の天下のため・・ッ!清和源氏を祖とし、武士の棟梁と称される河内源氏。その第六代目棟梁:源義朝。後に平氏と戦いを繰り広げる源頼朝や源義経といった次代の英傑達の父である。幼少期・少年期は現在の千葉県周辺で過ごす。成長後は関東圏における武士団(坂東武者)を統率して名を馳せた。(これにより源氏は東日本を中心に拠点基盤を形成することとなる)その活躍ぶりは京にも届いたことが義朝の京進出に繋がり院近臣の家系である由良御前を妻としたことで影響力を急激に高めていった。そんな時に発生したのが皇族を含めた朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱である。後白河天皇と崇徳上皇を担いだ貴族たちの代理戦争を担うこととなった義朝は後白河天皇側に付き崇徳上皇側に付いた父:為義や、弟:為朝と争うこととなるが、平清盛らと協力してこれに勝利。戦功を元に上皇側に付いた父や弟たちの助命嘆願を申し出るがその多くは処刑されてしまった。上記の遺恨は当然義朝の心に残り、さらには恩賞の差、伊勢平氏との格差、それらの不満が積み重なっていった。さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。後白河上皇が寵愛する僧侶「信西」と、それまで朝廷で絶大な権威を誇った「藤原信頼」の派閥争いであり平清盛は信西側へ付いたが、後白河上皇へ上記の恨みがあったとされる義朝は藤原信頼側に付いた。義朝は清盛の留守を狙って後白河上皇/二条天皇を軟禁。さらには信西を攻めて自害に追い込んだがこのクーデター行為の知らせを聞いた清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻ることとなった。義朝のこの行動は隠密裏に少数で決起したものであり、軍と呼べるものではなかった。(国家レベルの動員を行ったものではなく一族衆や自身近臣のものだけで構成されたものだった)さらには軟禁していた後白河上皇/二条天皇が脱出してしまった為に一気に窮地に立たされ、信頼一派はすぐに鎮圧されてしまう。義朝は鎌田政清の家人宅へ逃げ延びたが、恩賞目当てに裏切られ殺害されたという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2023年03月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第82回:獅子の覇道】
獅子の進軍からは逃れられぬ。さぁ、進めッ!伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)の嫡男にして北条五代の第二代目当主:北条氏綱。初め伊勢氏を名乗っていたが、北条家を名乗った最初の当主である。鎌倉時代の執権を務めた北条氏と区別するために後北条氏と称される。(これは関東鎌倉の地で長く執権として治世を行った北条家を名乗った方が源氏恩顧の 坂東武者及び坂東の民の信を得やすく、関東を治める正当性を主張するために氏綱の代で改姓したもの)初代:早雲、三代目相模の獅子:氏康、最大版図を完成させた四代目:氏政、最後の当主:氏直。それぞれに比べると後世に残る見せ場たる主戦場が少ないので地味な二代目と認識されがちだが徳川家の第二代将軍である秀忠と同様に、二代目として統治基盤の確立に尽力した名主である。この氏綱の代に確立させた北条家の内政統治方法は後に関東へ移った徳川家康が模倣したとされる。戦国大戦では最大でもR止まりであったものの「効果は地味だが確実に優秀」なカードでありまさしく彼のイメージと功績を表現するかのような計略だった。英傑大戦ではとうとうSRとしての登場となった。(現在北条家当主は第2~4代目まで全員SR。歴代当主陣と肩を並べる形となった)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:39|2023年02月27日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第81回:雪中の松柏】
たとえ木の中、雪の中~~ッ!源義朝の側室にして、後の源義経の母:常盤御前。(※同名ではあるが島津家の常盤御前[人魚の涙、海女の素潜り]とは無関係)元は近衛天皇中宮:藤原呈子の召使いであり平安京の美女1000人の中でも最も美しかった為、選ばれたと言われる。後に源義朝の側室となり、年長の順で阿野全成(今若丸)源義円(乙若丸)、源義経(牛若丸)を産んだ。平治の乱にて義朝が敗走し、逃走先で殺害された後は3人の子供の命を守るべく雪中での逃走劇を開始。京から大和国(現在の奈良のあたり)まで避難したが、自身の母親が平氏に捕縛されてしまう。この知らせを聞いて常盤御前は男子3人と自身が殺されることを承知で清盛と対面。「息子たちが殺されるのはどうしても見ることが出来ないので自分を最初に殺してほしい」と語りその言葉に感銘を受けた清盛によって全員助命されたという。(また、常盤御前は後に平清盛の妾となった)この雪中の逃走は「常盤御前図絵馬」が文化遺産として残っており英傑大戦での常盤御前の格好はこの絵馬の姿を元にデザインされている。また、計略台詞の前半は「木の中」と言っており「火の中」ではない。欅の絵馬(木)の中で、雪中を進んでいる文化遺産が現存していることから自身の現在での姿(常盤御前図絵馬))由来で「たとえ木の中、雪の中」という台詞になっていると思われる。びびるという現代語らしきものを使うが、びびるは学説としては江戸時代に出来た言葉である。鎧の音が[びんびん]に聞こえたことから、びびるは平安時代にできた言葉という俗説があるため平安時代の女性である常盤御前に敢えてびびるという言葉を使わせていると思われる。イラスト・開幕台詞・落城台詞からはシリアスな女性の印象を受けるがそれと同時にユーモアに溢れるおもしろお姉さんとしてキャラ付けされていて可愛い。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:59|2023年02月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第80回:八方破の陣】
アゲアゲでイッちゃうよ~!謀聖と呼ばれた武将:尼子経久の孫。尼子晴久。父は尼子政久。父:尼子政久は武勇文芸の双方に優れ「花実相応の大将」と呼ばれるほどの男であったが味方を鼓舞する目的の戦勝祈願として笛での激励を行ったところこの見事な笛の音色は政久に違いないと敵側の弓兵に狙撃され死亡してしまう。この想定外の出来事に対して、謀聖:経久は急遽家督を孫の晴久のものとした。尼子家の方針として経久の代では支配地域の管理を各方面の豪族/有力者に任せていたが晴久の代では権力の枝分かれによる離反を警戒して中央集権に尽力した。その政策のもとで尼子家の軍事集団:新宮党との折り合いが悪化し、尼子家の血族を含めて粛清。一族衆の力を削いででも成そうとした中央集権の確立まであと一歩のところで急死してしまったことが後世の評価を悪化させた要因となってしまった。しかしながら事実として尼子家の最盛期を作り出したのも尼子晴久の代である。(最大版図完成と滅亡原因の功罪がある点は北条氏政の評価に近いと言える)さらに言えば尼子家の勃興を果たしたのは祖父経久だが、この急速な台頭によって外交面がボロボロだった。特に大内氏との関係悪化と毛利家の離反を起こしてしまったことを始めとした問題を解決しないまま次代の晴久に家督を移して没してしまっている為、この負の遺産のせいで不当に低く評価されているのが尼子晴久である。(功罪の点では氏政に近いと書いたが、先代の負の遺産により不当に低く評価・・この点は武田勝頼に近い)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:14|2023年02月23日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第79回:胆略の継戦】
今に全ての勝利が、俺たちに微笑む!三国時代は呉国の忠臣:朱然。字は義封。元は朱治の甥であったが、朱治に子が居なかった為に養子となった。(彼が活躍するのは孫権の時代だが、肝心の孫権はまだ出し惜しみの状態である)メキメキと頭角を現し始めた朱然は、呂蒙配下として関羽討伐に参加し見事に武神:関羽を捕縛することに成功。この後、呂豪は関羽の呪いとも言われる急死を遂げるが、最期に朱然を重用するように孫権に進言。これを聞いた孫権は最重要拠点である江陵の守備を任せた。関羽討伐によって完全にブチ切れていた劉備が呉国に侵略を開始すると陸遜/孫桓らと共に火計によって蜀軍をボコボコにした。(夷陵の戦い)(この関係で三国無双の朱然は隙あらば火を付けようとする火炎キャラにされている)さらに後、今度は魏国が総力をあげた10万を超える大軍団にて江陵に進軍。援軍も魏軍の大攻勢の前に敗れ、重要拠点:江陵は孤立無援となりその命運も風前の灯となったが朱然はこの状況に対しても魏に下らず孫家への忠誠を続けて徹底抗戦を貫いた。そしてなんと、魏国撤退まで防戦し続けたのである。(これが粘り強く継戦する今回の計略の元となった)この事実に感銘を受けたのは他ならぬ孫権であり、以後、朱然への信頼は絶大なものになったという。以上は正史での記述であるが、演義では特に見せ場が無く、勝ち戦の夷陵の戦いで戦死。驚くほどに見せ場がない上に正史よりも30年近く早く退場するという呉国によくある正史に比べて演義での扱いが悪い武将の一人である。(ex:周瑜)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:06|2023年02月21日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第78回:全知の領域】
我が両目からは逃れられぬ・・・今川義元の教育係兼、軍事・外交・内政全般の師:太原雪斎。臨済寺の区画「雪斎」の地に住んでいたことに伴う通称であり、名を崇孚(そうふ または すうふ)という。元は臨済宗の僧侶であったが、今川家当主を継ぐ席次から遠かった今川義元が仏門に入り義元の教育係として雪斎が指名された。今川家の家督相続に関して、嫡男であった氏輝が急逝。さらにその弟も急逝したことで事態は急変する。義元こそ次代の当主に相応しいと担ぎ、同じく当主候補であった玄広恵探を攻めて自害に追い込んだ。義元が今川家当主となった後は対外勢力との友好関係を作るべく武田家当主信虎の娘(定恵院)を義元の妻として嫁がせて武田家とのパイプを作り定恵院が亡くなった後は義元の娘である嶺松院を武田家嫡男の武田義信に嫁がせさらには北条家から瑞渓院を義元の嫡男である氏真の妻とすることで婚姻関係による外交戦略を展開。長く争っていた三勢力はこの婚姻関係の後押しもあって三国同盟(甲相駿三国同盟)を果たした。この成立を見届けた翌年の1555年、60歳にて死去。三国同盟成立後から6年。領地基盤を磐石なものとした義元は上洛を開始。1560年桶狭間。太原雪斎が存命であれば、この地での大盤狂わせは発生しなかったであろうと言われている。英傑大戦では諸葛亮が初の知力12になると思われていたがver1.5現在、諸葛亮を上回る知力(ゲーム内最高知力12)の英傑大戦オリジナルカードは太原雪斎のみ。諸葛亮・司馬懿・竹中半兵衛という名立たる面々が知力11であるなか、彼らを上回る知恵者として評価されている。李牧級の頭脳(知力12)と表現すると急に無能そうに見えるんだよね。酷くない?長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:20|2023年02月19日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第77回:戦巧者の采配】
世の秩序を正し、私が革新者となるッ!安房国の戦国大名にして、里見家の全盛期を築いた第5代当主:里見義堯(さとみ/よしたか)。元は本家里見氏ではなく分家の生まれであったが、父が里見本家筋の里見義豊(第4代当主)により殺害される。これに対して激怒した義堯は、北条家の協力を得て里見義豊を追放、または自害に追い込むことで分家筋であった自身が本家筋を乗っ取って第5代当主に付いたと伝承される。(この強引なまでの家督継続事件[稲村の変/天文の内訌]に関しては近年異説が唱えられている)この伝承に寄るならば義堯は北条家に対して「仇を討ちへの協力」「自身の大出世」の大恩があるのだが時は戦国時代。恩があるなら必ず味方とはならず、領地が面している北条氏とは敵対関係となる。北条氏綱から氏康へと代が変わり、他国との同盟を用いた一進一退の攻防を繰り広げ海戦に於いてはほぼ全戦で北条水軍を散々に打ち破るほどの、屈強な里見水軍を所持していた。そのまま北条氏と徹底抗戦を貫き、息子に家督を譲った後も、実権(特に外交姿勢)は握り続けたという。ちなみに、その義堯の息子が戦国大戦に登場していた里見義弘である。7/6魅柵という恵まれたスペックと武力11気魅車を連想させる強そうな名前からくる計略:円陣であり、凄く地味であった。繰り返すが、もの凄く地味であった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:16|2023年02月17日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第76回:屍山血河】
源氏の軍星はここに在り!者ども、いざ突き進め!!朝廷の障害となるものを排除する武将集団、河内源氏:源為義の八男、源為朝。頑強な体格と粗暴な性格で、若き頃から喧嘩や傷害事件を頻発する暴れ者だった。あまりの狼藉に困った為義は、為朝を九州へ追放したが今度は九州へ派遣された国司であると「鎮西八郎」(九州平定を任ぜられた八男坊)を自称。数十回の戦を行って九州をほぼ支配下とするが、地元民は朝廷へこれを直訴。為義はその責任を問われ解任にまで追い込まれてしまった。保元の乱では父:為義側に付き、平清盛・源義朝連合軍と対立。決戦においては夜討ちを仕掛けるべきと提案するも、卑怯であると拒否され逆に相手側が夜討ちを仕掛けてきたことによって一気に劣勢に。保元の乱の趨勢は決まった。父:為義は斬首。為朝は伊豆大島への流罪にまで許されたが、あまりに強いので腕の腱を切断された。しかし今度は伊豆諸島の平定に動き出したので、朝廷から討伐軍が派遣され、もはやここまでと自害したという。源平伝説通しての最強の男と名高い人物であり、伝説的なエピソードの枚挙に暇がない。・九州で暴れたので朝廷から帰還命令が出るも無視。しかし、父:為義が解任されたと聞くとすぐに戻った・保元の乱では義朝に「兄に逆らう不埒者」と言われるも「では父に逆らってる兄上は何なのか?」と反論・保元の乱で義朝を討ち取る機会は何度もあったが、兄は殺せぬとわざと見逃すことを繰り返す・五人張の強弓も、腕の腱を切られたので二度と弓がひけない・・と思いきや三人張の弓に変わっただけ・朝廷からの討伐軍数百人が乗った船を、弓の一撃で轟沈させた・後の英雄:源義経は八男であったものの、叔父の為朝に配慮して八郎の1つ下「九郎」を名乗った粗暴な豪傑としての印象もあるのだが、家族愛を感じられる人間味のある行動もしているのが今日の為朝の印象を形作っている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:23|2023年02月14日 22:30:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第75回:常闇の奇襲/暗殺の太刀】
風魔の力、ここに解放しよう・・!斬って斬って斬りまくってやる!!相模国乱波(忍・スパイ・傭兵)を生業とした風魔一族の頭領:風魔小太郎。(その名は「服部半蔵」等と同じく一族の長が取る襲名制のもの)後北条氏に仕えて各地でのスパイ行動を行ったとされるが北条氏が滅んだ後は賊へと身を落として、徳川の関東転封後に捕まり処刑されたという。新選組隊士にして諸士調役兼監察:大石鍬次郎。一橋家の近習番衆の子であったが出奔。隊士募集をしていた新選組に加入した。新撰組を離脱した御陵衛士盟主:伊東甲子太郎を暗殺の実行犯であるとも伝わる。鳥羽伏見で敗れた後にしばらくして捕縛。新政府側に所属していた元:御陵衛士の加納鷲雄にも当然ながら恨まれていたこともあり甲子太郎暗殺の容疑で斬首刑となった。大河ドラマ「新選組!」では、解決した事柄であるにも関わらず敵と見なした人物を斬り殺し事態を悪化させるトラブルメーカーとしての哀れな役回りに定評がある人物である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:46|2023年02月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第74回:正義の剣】
ここからは、私自身の正義に従う!戦国大名としての浅井氏第3代当主:浅井長政。浅井家は元は北近江を牛耳る京極家の配下の国人に過ぎなかったが長政の祖父である浅井亮政が京極家の家督争いに乗じて躍進。京極家領地を乗っ取ることに成功。これにより浅井家は戦国大名として君臨するも、江南の勢力、六角家と対立。この六角家との対立の中で朝倉家に援軍を要請した伝で、浅井家は朝倉家に恩がある立場となった。しかし結局のところは六角家に従属する形で降伏することとなる。代が変わり、長政の時代。六角家から独立すべく挙兵して「野良田の合戦」にて倍以上の兵力を誇った六角軍を撃破。これにより独立に成功した浅井長政は先代(父):久政から家督を強引に奪取した。この勢いに目を付けたのが尾張の覇者たる織田信長である。斎藤家に苦戦していた信長は、美濃の隣国である浅井家との同盟を画策。自身の妹である「お市の方」を長政に娶らせて織田-浅井の同盟を結んだ。さらに時を経て、信長が上洛を完成させて足利幕府の権威を利用していた頃朝倉家が信長からの(表向きは足利幕府からの)上洛要請を無視。これに怒った織田軍が朝倉征伐を開始する。織田-浅井の同盟協定の一つに「朝倉家を攻撃しないこと」があるにも関わらず、である。信長はそれを承知で侵攻を開始。長政はこれを黙認すると確信しての行動だった。しかし、信長の人生上、最大級の読み違いが発生する。旧知の親交のあった朝倉家への加勢を長政が決断したのである。浅井朝倉から挟み撃ちの形となった織田軍は金ヶ崎にて撤退戦を開始。何とか逃げ延びた信長は、徳川軍に協力を要請して姉川にて浅井朝倉軍を撃破。一旦は交戦停止となるも、後年、織田軍は浅井朝倉家への再侵攻を開始し長政の居城:小谷城に迫る。進退窮まった長政は、妻と娘3人に罪は無いと織田側へ送り、自刃した。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:37|2023年02月11日 17:40:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第73回:正兵戦陣】
跪け 我が大いなる 智の前に・・曹操・曹丕に使えた魏の謀将/参謀/軍師:賈詡。字は文和。主君を数度変えたが、その誰もが「賈詡の進言を採用した時は勝利」「進言を無視した時は敗北」したという稀代の軍師。初めは漢を牛耳った董卓に仕え、後に張シュウに仕えた。張シュウが曹操に降伏した後は賈詡の謀略により曹操を奇襲。本来曹操の跡継ぎになるはずだった曹昂を討ち取り、さらには猛将と名高い「悪来」典韋をも討ち取った。さらに後に、曹操が袁紹と一触即発の状態となっていた時上記の事件によって曹操の仇敵の状態となっていたにも関わらずここで曹操側に付くように進言。賈詡の狙い通り、曹操は過去のことを水に流して張シュウを厚遇したという。魏国所属となった後、西涼の馬超・韓遂連合軍に対して仲違いを狙う離間の計を提案。この策を採用した魏軍は西涼軍を散々に打ち破った。次代君主の選考においては曹丕を皇帝にすべきと進言。賈詡の後押しもあって跡継ぎに選ばれた曹丕は、彼を一層厚遇したという。(曹丕の兄である曹昂を過去に討ち取ったことが、曹丕が皇帝となるうえでの一番の貢献だったりもする)さらに自身にあらぬ疑いの掛からないように賄賂や王族・貴族との婚姻の話を拒絶。とにかく謙虚に振舞うことで、身を滅ぼす要因となる事柄を排除した処世術の達人でもあり見事に天寿を全うしてこの世を去った。三国志正史に加えて、蜀を贔屓した内容となる演義でも、賈詡は悪手や失敗を一度もしておらずほぼ完全無欠な有能軍師という評価で描かれている数少ない人物である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:42|2023年02月09日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第72回:魅了の銃弾】
手加減無しよ!骨抜きにしてあげる!!織田信長のおっぱいブラザース(乳兄弟):池田恒興の娘、池田せん。関ヶ原において東軍側に付き、池田家を発展させた池田輝政の姉でもある。織田家重臣である池田家及び森家の縁を繋ぐために森長可の妻となった。エキサイティングなエピソードの枚挙に暇がない鬼武蔵こと長可ではあったがせんとの夫婦仲は良好であった。しかし、小牧長久手の戦いで夫:長可が討ち取られてしまう。その後は豊臣政権三中老の一人となる中村一氏と再婚するも一氏は関ヶ原前に病死。関ヶ原後には一氏との子も急死してしまう。これにより中村家は御家断絶となってしまい、所領没収の憂き目にあうのだが隠居していた安養院(池田せん)がこの危機に立ち上がった。城の侍女約200人を集めて鉄砲隊を編成し、幕府の沙汰に猛抗議を開始。これに対して家康は、女ながらに家臣やお家を守ろうとしたせんに感服して一万石分の所領と城を残すことを認めたという。戦国大戦では戦国ジョーカー(電影カード)として登場。(後に実物カードにもなった)計略性能に優れ、(英傑のイラストとは方向性が違う)イラストにも恵まれていた。ちなみに計略は英傑の無二ちゃんの計略の通常発砲(引き付け効果)に貫通が付いたもの。着弾すると魅了の銃弾の名の通りハートマークが出ていた(無二ちゃんは貧相すぎて出ないようだ)英傑のせんは昔と見た目が大きく異なるものの、台詞は戦国由来のものが多数となっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:10|2023年02月07日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第71回:今孔明の采配】
水の如く、心を澄まし、見極めるのです!羽柴秀吉に仕えた天才軍師:竹中重治。通称:竹中半兵衛。初め斎藤道三に仕え、道三が討ち取られた後はその子:斎藤義龍にさらに義龍が没した後はその子:斎藤龍興と、斎藤家三代に仕えていた。しかし、龍興の代になってからは主君が酒興に溺れるようになったために美濃三人衆:安藤守就と結託して龍興の居城である稲葉山城を奪取。その後、速やかに城を返還して龍興を諌めたという説が残るほどであった。斎藤家が滅んだ後は浪人となったが、羽柴秀吉に三顧の礼を持って迎えられたという。それから姉川の戦い、小谷城の戦い、長篠の戦いと名だたる戦場で才を発揮。織田軍の勝利と、秀吉の出世に大きく貢献した。秀吉が中国方面の制圧司令官となった時も帯同するが、陣中にて肺炎により死去した。卓越した手腕を称えて「今孔明(現代の諸葛亮孔明の如き人物)」の異名を持ち孔明の異名「伏竜」にも因んで戒名は「深竜水徹」という。秀吉の両兵衛と言われた二人の軍師、一人は竹中半兵衛。そのもう一人である黒田官兵衛は密かに半兵衛に対して憧れや嫉妬を含んだ特別な感情を持っていたとされ彼が晩年名乗った「如水」という名は「深竜水徹(=半兵衛)」の如くという意味を含んでいる・・・のではないかとする説が存在する。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:25|2023年02月05日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第70回:安政の大獄】
鬼となった我に、亡者の声は聞こえぬッ!戦国時代よりその地位を確固たるものとした井伊家。幕末に至り老中陣の中でも有事の際に設立される最高位[大老]にまで上り詰めた男:井伊直弼。井伊直弼は元々家督争いや出世には縁の無い井伊家の十四男であり庶子であり若き頃の直弼は剣術に没頭。独自の流派と極意書を著すほどであった。転機が訪れたのは兄の井伊直元が急死したことで、彦根藩第15当主として指名されたことである。そして直弼が藩主となった3年後、彼の運命を決定付ける事件が起きる。黒船来航である。この対応の為、幕府に赴き、初め鎖国を主張していたものの不可能と判断した直弼は一転して開国派となった。さらに将軍:徳川家定からの指名を受けて、大老職を拝命する。その外交政策の中で不平等条約と名高い「日米修好通商条約」への調印を実質上、黙認した。天皇からの勅許を取っていないこの行動に関して反幕府の諸藩士の猛烈な批判を受けたがこの世論に関して反論者を捕縛、隠居、謹慎、あるいは処刑して黙らせる「安政の大獄」を決行。反幕府側の怒りは頂点に達した。江戸幕府が開かれ250年以上、江戸市中の大名駕籠が襲撃された事件は唯の一度も無い太平の世。1860年3月3日。雛祭りの祝賀の為に諸侯が登城しようとしていたその日。江戸城に向かう彦根藩行列の前に直訴状を持った男が立ちはだかった。これを取り押さえようと藩士の注意が移ったその時、他から直弼の駕籠に向け凶弾が発砲された。これが命中した為、かつて磨いた剣術は発揮されることもなく、瞬く間に襲い掛かってきた尊皇攘夷派により絶命した。後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件から、幕府側と反幕府側の対立は決定的に深まっていくこととなる。ちなみにNHK大河ドラマの第1作のタイトルは「花の生涯」 井伊直弼はその主役である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:04|2023年02月03日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第69回:平蜘蛛の釜「桶狭間の戦い・風雲急 織田軍」】
炎となって、消し去れぇぇぇ!!三好家重臣にして乱世の梟雄:松永久秀。出自に関しては定かなものがなく、三好長慶の重臣として頭角を現したことから歴史の舞台に登場。長慶が没した後は三好家を乗っ取り、織田信長の上洛が行われると降伏して傘下に入るも二度の裏切りを働き、一度目は帰参を許され、二度目に関しては天下の茶器:平蜘蛛の譲渡を条件に許すと寛大な帰参条件を信長から提示されるもこれを拒否。最後は平蜘蛛に爆薬を込めて自爆。一説では日本初の爆死者であるとも伝わる。松永久秀は、織田信長に天下の三悪を成した大悪人と称された。即ち以下の3つである。・征夷大将軍(足利義輝)の殺害・主家の乗っ取り(三好一族の暗殺)・東大寺大仏殿の焼き討ちこのイメージから現代では長き間、味のある悪人として認知されることとなるが上記の三悪を実行したとする括弧たる証拠がない為、三悪の梟雄は嘘のイメージとする説がある。群雄伝での松永久秀は表ルートでも将軍暗殺を指揮しておらず、襲撃に走った者たちに怒りを覚えておりさらには異聞(ifルートや時代クロスオーバーの章)では久秀が義輝の救援に間に合う展開すらある。ゲーム内の性能としては、その死に方があまりに衝撃的であることを踏まえて自爆ダメ計で登場するのがお約束のようになっている。(戦国大戦後期追加カードでは自爆ではなくなったが)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:20|2023年01月31日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第68回:殺生石】
野望の光、輪廻の囁き、ウグイスの声・・・日本三大妖怪の一角、白面金毛九尾の狐。その化身:玉藻前(たまものまえ)平安時代末期、鳥羽上皇の寵愛を受けたとされる伝説上の女性。玉藻前の正体である白面金毛九尾はかつて古代中国、殷国の紂王を狂わせた傾国の美女:妲己の正体であったとも伝わる。玉藻前と暮らしていた鳥羽上皇は年々病の症状が重くなり名を馳せた時の陰陽師:安倍晴明の後継に上皇の症状は玉藻前の呪術によるものと看破され逃亡。京から栃木県那須町まで逃亡した玉藻前は追っ手である三浦義明・千葉常胤・上総広常によってとうとう追い詰められ討伐された。その時、ただでは死なぬ、と近付くあらゆるものを殺す殺生石に変化したという。この九尾伝説の殺生石は栃木県那須町に実在するが近寄るものを殺す呪いの正体は硫化水素や亜硫酸ガスやヒ素が混じった天然由来の毒ガスである。原初の相撲伝説で野見宿禰(のみの/すくね)に敗れたことで名を残す当麻蹴速(たいまの/けはや)だが近年、蹴速の子孫によってこの悪い石は一撃で真っ二つにされて現代ニュースになったのは有名な話である。(民明書房刊:グラップラー刃牙が打撃主体で、高校鉄拳伝タフが組み技主体の奇跡 より一部抜粋)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:09|2023年01月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第67回:海道の支配者「桶狭間の戦い・風雲急 今川軍」】
圧倒的!圧倒的!圧倒的よぉぉぉ!!曰く、東海一の弓取り、海道一の弓取り、天下に最も近き男:今川義元今川氏親の五男として生まれ、家督相続とは縁のない誕生席次であった為、仏門に入った。・・が、氏親の嫡男:今川氏輝が急逝。師:太原雪斎の協力を得て、実の兄である玄広恵探と今川家の当主継承権を争った。花倉の乱と呼ばれる家督争いを制した義元は、今川氏第11代当主として駿河・遠江・三河の三領国もの地域を治める大大名として君臨。今川家最大版図を完成させ武田/北条といった関東周辺の列強と争い続けてきたが、とうとう甲相駿三国同盟を成立。今、上洛を完遂させ天下に覇を唱えるべく義元は進軍を開始した。圧倒的な戦力差でただ踏み潰すだけ、単なる進軍ルートでしか無かったはずの尾張。そこには尾張の風雲児と称される戦国大名がいた。その名は織田信長。今川軍の戦線は上洛を急ぐゆえに大きく伸びていた。その時、今川本陣に向けて、織田軍がその命運を賭けて突撃してきたのである。この突然の奇襲に今川軍は大混乱に陥り、織田家:毛利良勝(新助)によって義元は討ち取られた。上洛の夢は幻と終わったが、今川軍が油断せずに今あるものを振り絞った「渾身」の進軍が出来ていた時義元の采配は、信長を上回っていたのではないか?今はもう知る由はないが、桶狭間の戦いは大きく日本史の運命を変えた出来事である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:32|2023年01月22日 16:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第66回:死神の革命】
どうした?こっちは遊び足りんぞぉ!?アイヌの隠し財宝を巡る物語、「ゴールデンカムイ」より日本軍第七師団陸軍中尉:鶴見中尉。本名:鶴見篤四郎が登場。日露戦争の終結後、多大な功績を上げつつも自軍側にも損害を出した第七師団は冷遇を受けていた。部下達の賛同を得て、鶴見中尉は北海道を根城にした軍事クーデターを画策。体裁上は、その軍資金としてアイヌの隠し財宝「ゴールデンカムイ」の獲得を目指す。特徴的な額当てに裂けた両目の周辺、時折見せる狂気を孕んだ行動を見せるが元の彼はナイスミドルを絵に描いたような男前で実直な性格を兼ね揃えた人物だった。(・・ただし、この頃から既に彼の心にはある出来事によって歪んだものが存在している)日露戦争最後にして最大規模の戦い「奉天会戦」にて敵砲弾の破片によって頭蓋骨及び前頭葉の一部を欠損。これにより感情の昂ぶりのコントロールが出来なくなってしまっている描写がある。特徴的な額当てもこの傷を隠す為のものであり、感情が高ぶると脳漿が漏れ出る時もあるほど。最終巻に描かれる後日談では、彼に纏わる都市伝説的なエピソードも描かれている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:06|2023年01月21日 09:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第65回:暗殺剣】
人斬り彦斎、参るっ!!肥後細川藩下級藩士:小森貞助の次男、河上彦斎。幕末四大人斬りの一人に数えられる。(生家である小森家と姓が異なっているのは一般的に長男=嫡男である故に、河上家へ養子に出されたため)若き頃は剣道だけではなく、儒学や兵法についての知識を高めた。その流れで肥後藩:宮部鼎蔵に兵法を師事した関係で尊皇攘夷過激派(排外派)への意識を高めた。池田屋事件にて師の一人であった宮部鼎蔵が討たれ、その報復として京に上がり開国論者であった佐久間象山を暗殺。しかしながら彼の属した肥後藩は佐幕派であった為、幕府と対立した彼は投獄された。明治の世が開けた後は、ガチガチの攘夷論者であった彦斎は反乱分子と見なされ斬首に至った。人斬りとして名を馳せた一方で愛妻家かつ親孝行者であり落城台詞には彼の愛妻家たる逸話を反映させたものとなっている。ちなみに、色白かつ小柄な体格であった為、女性に見間違われることがあったという逸話が残るが小柄な幕末の人斬り・・・実は彼は「るろうに剣心の主人公:緋村剣心」のモデルとなった人物である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:08|2023年01月19日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第64回:アイヌの毒矢】
アイヌの矢毒に解毒方法は無い・・!アイヌの隠し財宝を巡る物語、「ゴールデンカムイ」よりヒロイン兼マスコット兼料理人兼顔芸担当のアイヌの少女:アシㇼパさんが登場。(アシㇼパさんの"リ"の部分はアイヌ語発音で小さな"リ"。 英傑大戦でもしっかり再現しており、よく見るとリだけ少しフォントが小さい)ヒグマに襲われていた杉元を救い出した後に行動を共にする。(彼女が杉本と共にゴールデンカムイを追うことにしたのはちゃんと理由がある)金カムにおけるサバイバル部門とグルメ部門を主導する役割もあったりする。見た目に関してはアイカラー以外(これは彼女の出生にも関わる)和風美少女を絵に描いたような見た目だが巻数が進むごとに等身が小さくなっていった。(Dr.スランプのアラレちゃんのような感じである)逆に言うと初登場時のアシㇼパさんは等身が高く無表情気味で変顔もしない王道の美少女である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:12|2023年01月17日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第63回:溌剌娘の激励】
こういう時、楽しんだもの勝ちでしょ!土佐藩士:平井直澄の娘、平井加尾。夫は板垣退助(乾退助)主導の迅衝隊に所属し明治時代以降に衆議院議員及び警視総監を務めた西山志澄。坂本龍馬に纏わる女性として以下の女性たちが存在するが・坂本龍馬の妻:楢崎龍・坂本龍馬が江戸に滞在した際に恋仲となった千葉佐那(さな子)平井加尾は坂本龍馬の初恋の人として現在に伝わっており龍馬脱藩の際には脱藩準備の品を用意してほしいという旨の手紙が残っておりさらに、加尾の兄が亡くなった際には、龍馬は姉の乙女に対して加尾の状態はどのようかと心配する手紙を送っている。才色兼備で学があり、公家の作法も身に着けていたとされており現代では「天真爛漫」な明るい女性としてあらゆる媒体でキャラ付けがされている。(2010年大河「龍馬伝」では広末涼子さんが演じていた)英傑大戦の見た目は褐色肌の腋見せ娘として全筆者回で話題に。薩摩藩(または島津家)の女性カードのように見えるのは私だけではないはず。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:11|2023年01月15日 23:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第62回:鍾馗の銃弾】
いいぜ、かかってきな・・・!上杉家の軍事と政治を担った武将:斎藤朝信。武闘派が多かった上杉家の中で、軍務/政務の両方を担える家臣は少なかった為、重用された。(斉藤家は上杉謙信の父である長尾為景の代から仕えた忠臣の家系。 上杉家家臣団の中で重要な位置に居つつも裏切らなかった珍しい家系であった為、 隙あらば反乱を起こす家臣に囲まれていた上杉謙信は斎藤朝信に絶大な信頼を寄せていたと言われる)武勇に関しての能力も高く越後の鍾馗(※)の異名を持つ。御館の乱では景勝側に付き、武田勝頼との交渉に当たり活躍。恩賞を与えられた。斎藤家は幕末まで米沢藩士として続いていった。見た目が某いい男に似ていることと、実際にいい男であることも合間って上杉(越後)のいい男で有名。戦国大戦の群雄伝では「何故か」「千代女の色仕掛けが効かなかった」・・お鍋さんの本が薄くなりますねこれは。【英傑大戦では何故片目を隠しているか】これは軍記「甲越信戦録」の記載ベース。朝信が武田信玄との交戦中止の外交にあたった際に信玄に「お前のような小兵の隻眼身障者が高禄をもらってるとはなw」と挑発されるが「隻眼は武功の証。武田も有能と見れば小兵の身障者を重用しているだろう(山本勘助のこと)」・・と返した逸話から。※鍾馗:「道教の魔除け」と「学業成就」の神様。 魔除け=外敵を払う(軍事)、学業成就=文官としての才(内政) 軍事内政の両方をこなせる朝信を文武両道の神の名を使って称えたもの。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:29|2023年01月14日 13:30:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第61回:鬼神の一等卒】
殺してみろ!俺は不死身の杉元だぁぁぁぁ!!アイヌの隠し財宝を巡る物語、「ゴールデンカムイ」より主人公が登場。元日本帝国陸軍所属、日露戦争の英雄:杉元佐一。絶体絶命の戦場で幾度も奇跡的に生き残ったことから不死身の杉元の異名を取る。亡くなった戦友の妻であり、佐一のかつての恋人でもあった女性の眼病の治療の為北海道に向かい砂金集め目的で奔走していたが、そこでとある噂話を耳にした。アイヌの隠し財宝(ゴールデンカムイ)の存在にまつわる噂話である。どうしても大金獲得が必要な佐一はこの噂話を信じて財宝の在り処を探る。同じくゴールデンカムイを狙う大日本帝国陸軍第七師団の鶴見中尉との間で争奪戦となり北海道で出会った命の恩人であるアイヌの少女:アシリパさんや自称愛され脱獄王のお調子者:白石由竹と協力してゴールデンカムイに迫る。傷だらけの顔や、敵対者に関しての残忍で容赦ない言動から恐怖の象徴にも見える男だが本来の彼は好青年そのものの性格をしており、良識を併せ持っている。(上記の台詞に関しても必死に自分を鼓舞しているだけであり 本来まともであるが故に戦後のPTSDに陥ってるだけと捉えることが出来る)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:01|2023年01月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第60回:麗人の太刀】
ボクが先陣を切る!皆も続け!!新徴組(※)隊士、女性剣士:中沢琴。女性ながら武勇に優れ、薙刀の腕前に関しては師父を超えていたと伝わる。清河八郎の画策により集められた浪士組に兄と共に参加。京に向かった後に、清河から「浪士組は佐幕組織ではなく勤王組織である」ことが告げられた。これを不服としたのが近藤勇・土方歳三・芹沢鴨一派であり、浪士組を脱退。後に壬生浪士組(後の新選組)となった。中沢琴は京に残った壬生浪士組側ではなく、江戸に戻った大多数の浪士組(後の新徴組)に属した。後に江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件に参加し、これを起因とする鳥羽伏見の戦いにも参加。戦後は故郷で晩年まで過ごし、88歳の天寿を全う。明治大正を越えて、昭和の時代まで生きたという。彼女に纏わる逸話として以下のものがある。・眉目秀麗で170cmにも及ぶ長身であった為、男装した姿は町娘の憧れの的だった・自身より強い男としか結婚しないと宣言しており、生涯独身だったまた、何故か群雄伝では彼女は新選組に属していたことになっている。(裏面にはしっかり新徴組に属したと書いているのだが・・・)※新徴組清河八郎の京都での宣言後、江戸へ戻った大多数の浪士組。発足者である清河が暗殺された為、崩壊寸前となるが幕末三舟の「山岡鉄舟」「高橋泥舟」にてこれを再編して管理にあたった。当時の江戸は、天誅が日常的に起こる京都以上に世紀末な状態となっており、この治安取締りにあたるが新徴組も新選組同様にチンピラ集団の面があり、幕府庄内藩お抱えの傘をきて横暴な振る舞いが目立った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:15|2023年01月11日 21:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第59回:天誅】
人の斬り方、わしが教えてやるよ・・!土佐藩郷士:岡田宜振。通称:岡田以蔵。河上彦斎と共に幕末四大人斬りに数えられる尊皇攘夷派志士。けっして高い身分ではなかったが、以蔵の剣才を見込んだ武市瑞山(半平太)に拾われ彼に師事して九州諸藩を回って小野派一刀流を修めた。半平太主導の土佐勤王党に参加した後は京に上り、天誅と称して佐幕派要人を次々に殺害。(その反面で坂本龍馬との交流もあった為、幕府軍事総裁:勝海舟の警護を行ったこともある)彼の運命が狂うのは攘夷過激派であった長州藩が朝廷から追放された「八月十八日の政変」の発生である。これによって土佐藩主だった山内容堂は、尊皇攘夷派の一斉弾圧に舵を切った。土佐勤王党により土佐藩軍政:吉田東洋暗殺が行われたことを半ば確信していた容堂は速やかに武市半平太を捕縛。後ろ盾を失った以蔵も急速に身を崩していき、京での押し入り強盗として捕縛されてしまう。土佐勤王党の犯行を吐かせるために拷問を受けるが、軽い拷問でも喚き散らした為に半平太に呆れられこのままではすぐに白状すると判断した半平太による以蔵毒殺計画も謀られたがあっという間に以蔵が土佐勤王党の犯行を吐露した為に、勤王党幹部と共に処刑された。最後があまりにもダラしないエピソードで土佐勤王党崩壊の理由となった為に土佐維新志士の顕彰碑名簿に載せてもらえない等の冷遇が続いたが大河ドラマ「龍馬伝」の放送から一般的イメージがかなり見直された人物である。ちなみに近年の岡田以蔵のイメージに首巻き(マフラー)が描かれるのは大河ドラマ「龍馬伝」で岡田以蔵役であった佐藤健氏が細身であった為首周りを太く強そうに見えるようにする目的で着用されたものが岡田以蔵=マフラーのイメージとなったものである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:20|2023年01月10日 21:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第58回:芸妓の恋慕】
こーして、あーして・・・どうするんでしたっけー?長州の風雲児:高杉晋作の愛妾、おうの。彼が最も愛した女性であったと伝わる。下関で奇兵隊を結成した高杉晋作と、芸者:おうのが出会い、恋に落ちた。おうのは非常におっとりした性格で人を疑わない従順な性格であったと言われておりその性格を心配した晋作がある日「右を向け」と指示すると何故こんなことをさせられているのか一切の質問をせずに指示通りに右を見続けていたという。晋作が肺結核に冒された後は彼に付き添い看病を続けた。高杉晋作は長州藩のれっきとした上士であり、正妻は山口奉行の娘である雅子である為いよいよ死が迫った際には看病役を正妻に譲って身を引いた。晋作の死後は、晋作の最愛の女性であったと評されていた為にその後は誰の妻ともならず尼(梅処尼。明治戸籍名:谷梅処)として明治を迎えたとされ奇兵隊本陣跡に立てられた東行庵の庵主となった。明治42年、67歳の天寿を全うして、その墓は高杉晋作の墓が見える丘地に立てられた。さらに七回忌の際には村人たちの手によって晋作の墓のすぐ傍らに墓が移されたという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:54|2023年01月09日 10:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第57回:癒しの陣】
これ以上、虐めないでください・・・織田信長の側室:お鍋の方。別名:興雲院。信長死後、側室陣の代表という立場となり美濃国長良崇福寺の信長の位牌所を守ったとされ、1612年まで生きたと伝わる。パッと見だと文学少女といった見た目だが戦国大戦時代に彼女が持っている本に"衆"の文字が見えており、衆道本なのではないかということでキャラクターが確立。英傑大戦では「台」の字が見えている本を持っており、これはおそらく「台記」(※台記・・・ver1.5で登場もしている藤原頼長の日記。男色のことも書かれている)コンパチカードとして眼鏡を掛けた姿(+信長&信勝のカップリング推し人形を抱いた姿)も見せたが英傑大戦では「毛利の人と間違われるので読書時以外は眼鏡を掛けない」ようにしているらしい(贈り物台詞)また、計略発動時の特殊台詞が「2種類」ある珍しいカードでもある。(ver1.5で出た由良御前などは計略特殊台詞が3種類あるので上には上がいるが)仲の良い二人が入っているときの男性版キマシタワーのような状態になっており「あの子、ホモネタになると急に早口になるよな」感のある台詞となっている。┌(┌ ^o^)┐長兄の英傑大戦:mylist/73130055
5:38|2023年01月07日 22:10:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第56回:追伐の陣】
我が名は兪伯海、修羅の河と血の海を征く者だ!孫堅旗揚げ時から仕え、孫策、孫権の孫呉三代に仕えた腹心:兪河。字は伯海。孫堅の雌伏の時代から支え続けた家臣であり、孫家の戦いの第一線に常に立ち続けたが孫策・孫権の弟である孫翊が家臣に暗殺された際に居合わせた為、巻き添えで殺害された。三国志大戦では孫河名義であり、英傑大戦では統一名称:孫河となっている。姓が変わっている理由としてはいくつか説があり・元は孫家であったが、兪家に養子となり、後に孫家に復姓した・常に第一線を張った武功に対する褒章として孫姓を名乗ることを許された上記の説がある。三国志大戦での彼はとにかく地味だったので英傑大戦での華々しいキャラ付けがされているのが意外な人物でもある。ちなみに計略時の台詞は自身の名([河]と[海]が入っている)を使った名乗りとなっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:40|2023年01月06日 21:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第55回:獄中の学び】
出し惜しみはしねぇ!景気良くいくぞぉぉ!!土佐藩士、地下浪人(※):岩崎弥太郎。19歳の時に江戸へ遊学して学問を修めるが、父親が投獄されたことをきっかけに帰郷。納得しがたい奉行所の裁定に対して猛烈な批判を行った為に本人も投獄された。この時、獄の中でも商人から算術と商法を学んでいたとされる。(獄中の学び)娑婆に出てきてからは吉田東洋に師事。東洋暗殺後は土佐勤皇党と対立した。坂本龍馬の亀山社中(海援隊)が設立後、龍馬の脱藩罪が解消された関係で海援隊は土佐藩引継となり算術に長けた岩崎弥太郎が海援隊の会計担当となった。ここで海運知識を身に付けた弥太郎は新たに九十九商会を設立し西南戦争では政府側の海運担当を担ったことで、商会として括弧たる地位を獲得した。この商会は名を変えて後に財閥として大いに発展していくこととなる。現在、日本が誇る大企業:三菱グループの創始者が岩崎弥太郎なのである。【※地下浪人】他藩に比べても身分制度が厳格に定められていた土佐藩独特の身分。郷士(武士待遇を受けた商人や農民)の中でも、その身分を他家に売り渡した家を指す。上士>下士(郷士含む)>地下浪人といった身分の上下関係となる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:03|2023年01月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第54回:毘沙門天の陣】
毘沙門天の化身となりて、敵を討ち払う!越後国守護代:長尾為景の子:長尾景虎。後に、川越夜戦で致命的な敗戦を被った関東管領:上杉憲政から山内上杉家の家督を譲り受けて上杉性となり「上杉謙信」と呼ばれた。(※"謙信"は後年に名乗った法号)若き頃から並外れた軍略の才を見せ、曰く「軍神」「越後の龍」と称された。度重なる内紛を鎮圧し、武田家・北条家といった強豪と互角に立ち回りさらには飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田家を相手にしても互角以上の戦いを見せた。「越後の龍」と「甲斐の虎」で龍虎相搏つの言葉にもなることもあいまって「大名同士のライバル」といえばまず第一に上杉謙信と武田信玄が連想されるが英傑大戦では上杉謙信はER、武田信玄はSRであり、上杉謙信が格上となっている。(池田せんがERで、武田信玄や徳川家康がSRのゲームである時点でどうでもいいことだが)生涯未婚であったことや若い男性を身の回りに好んで多く置いたという逸話から女性説がある為戦国大戦では上杉謙信(女性)のカードが2枚も存在していた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:38|2023年01月01日 19:45:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第53回:風林火山】
風林火山の旗の下、結束せよ!!武田家の家督を継いだ戦国の巨星:武田信玄。板垣信方・甘利虎泰を中心とした有力家臣の助力を得て国境を封鎖。実父を追放して無理矢理に第19代当主となった。外交・内政・軍事の全てにおいて(強引ながらも)卓越した手腕を発揮し「甲斐の虎」と恐れられ甲斐・信濃を中心にその勢力を拡大し、越後の龍:上杉謙信と川中島五度合戦と呼ばれる戦いを演じた。足利義昭による信長包囲網の主翼を担い、武田軍上洛開始によって織田軍は窮地に立たされるがその上洛の最中、寿命を迎えてしまった。これが無ければ信長の台頭は終わっていたとも言われている。ちなみに、信玄は最期に「我が死を三年隠せ」と遺言を残したとされるがこれは信玄時代の「領土を広げるだけ広げた後の内政関連の整備不足」や「強引な外交戦略に対する内外諸勢力の反抗」への対策をその間にせよという意味が大いに含まれておりこれらの負の遺産の後処理を任せられたのが次代の勝頼であった。信玄に対して勝頼が無能のように扱われるのは、この信玄の後始末をさせられたからであるとされており信玄有能/勝頼無能の評価は近年の研究ではだいぶ覆されつつある。セガもその点を汲み取って、戦国大戦において勝頼名義のカードは全て最上位レアリティとしていた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:32|2022年12月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第52回:難攻不落】
敵陣に突入する!俺に続け!!曹操一族衆:曹仁。字は子孝。曹操軍のエリート親衛騎馬軍団「虎豹騎」を率いた曹純は曹仁の弟であり虎豹騎と名付けられる前の騎馬軍を指揮していたのは曹仁であったと伝わる。黄巾の戦いにて曹操が旗揚げした際に他の一族衆が曹操の下に続々と結集したがその中でも曹仁の参戦は最も遅かった。(彼の落城台詞[覚悟を決めるのが遅かった]に反映されている)三国志演義ではやはりと言うべきか蜀側の引き立て役になっていることが多いが正史での彼の敗北は対周瑜(荊州防衛戦)ぐらいでありそもそもが正史での周瑜は完全無敗の超人に近いのでそこまで不名誉なことではないうえにその敗北に関しても一方的に負けたわけではなく周瑜を負傷させるまで迫ったと言われている。(この関係で周瑜の計略に曹仁を入れると特殊台詞が発生)樊城の戦いでは頼みの綱であった援軍(于禁/龐徳)が壊滅するも、じっと耐え続けて蜀を裏切った呉軍の到着によって一気に形勢逆転。関羽軍を打ち破った。これらの軍功から「守りの名手」として名が残っており、英傑大戦では難攻不落の計略が与えられ三国無双では比較的早期からの参戦及び「守りの名手→防御に定評→全身鎧おじさん」として登場している。(三国志大戦4でもやはりと言うべきか全身鎧の守り重視計略で出ている)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:23|2022年10月26日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第51回:下克上】
決めるぞォ!下克上ォォォ!上杉家重臣。上杉二十五将の一人:本庄繁長。上杉謙信に対して「2度」の反逆を繰り返して鎮圧されるがそれでも帰参を許された。関東出兵や川中島といった上杉の大決戦に多数参戦。御館の乱では景勝側に付き、以後、上杉家の為に尽力。特に関ヶ原緒戦では、片倉小十郎率いる伊達軍を撃退。獅子奮迅の活躍を見せた。(驚くべきことに関ヶ原時点での繁長の年齢は60歳であり、時代的に見てかなりの老将であった)徳川政権後、米沢藩が成立した後も米沢藩士として上杉の復興に尽くした。彼の死後、その武功・活躍から上杉景勝に"武人八幡"の称号を与えられた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:44|2022年10月22日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第50回:関東管領職譲渡】
この戦場で最も自由な者こそが大将なのじゃ!山内上杉家15代当主:上杉憲政。今日においての歴史研究においてもあまり良い結果を残していたとは言えず上杉家の当主であるにも関わらず戦国大戦でも英傑大戦でも1コスであることからセガ内での評価も推して知ることが出来るというべきか....?この評価を決定付けたものは、台頭してきた相模の雄である後北条氏との決戦にある。扇谷上杉家を中心として関東管領の山内上杉家(上杉憲政)にその他関東諸大名連合軍は約8万の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した(※)この圧倒的優位な戦いであるにも関わらず、戦い前から戦勝気分であった連合軍側は北条氏康と北条氏綱らの決死の夜戦敢行によって大敗を喫し扇谷上杉家の当主:上杉朝定は討ち取られ(諸説あり。この戦いでは死んでいないとする説もある)山内上杉家の上杉憲政は敗走後に急速に勢力を縮小させていった。進退窮まった上杉憲政はこの頃台頭してきた戦上手である長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り彼を山内上杉家の養子にして関東管領職を譲渡。これが「上杉謙信」の誕生へと繋がる。謙信が没した後の跡目争い[御館の乱]では景虎側を支持。景虎側が劣勢になると景勝との調停に向かおうとしたが、その途中で景勝方の刺客によって討ち取られた。※この時の河越城の守備兵3000と救援兵合わせて約1万。 戦力差が約8倍に及んだことが開幕台詞「我が兵力は敵の八倍じゃ~♪」の元となっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
5:48|2022年10月19日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第49回:回復の舞い】
痛いの、飛んでけー!劉備の側室:甘皇后(甘夫人)[正室は第21回登場:麋夫人] 身分定かならず父母や家族関係は不明。(父母不明及び劉備が正室にしてはいないことからあまり身分の高くないとされる)しかし、劉備が最も愛して最も古くから連れ添った女性とされるのが彼女である。三国志演義で言うところの趙雲のハイライトシーン「長坂の戦い」では逃げ遅れた阿斗と麋夫人を救うために趙雲が敵中突破を敢行。麋夫人は足手まといになると自殺して劉備の嫡子である阿斗(劉禅)を託すが実はこの阿斗は麋夫人の子ではなく、甘夫人の子である。(演義及びそれを元にした創作では、麋夫人と甘夫人が統合されているものが多々ある)正史での甘夫人は長坂の戦い後、間もなく逝去。英傑大戦では甘[皇后]名義であるが「皇后とは皇帝の正妃の名称」であり彼女が生きていた時点では皇后と称されることは無かった。蜀建国後(=甘夫人は故人)「皇后」の称号が与えられ、甘皇后として名前が残っている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2022年10月16日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第48回:百錬成鋼】
欲望を隠したままでは、力も出ないだろう・・?夏侯惇・夏侯淵と同じく曹操旗揚げ時から従う親族有力衆:曹洪。字は子廉。一族衆としては曹操の従兄弟にあたる。曹操は黄巾での武功に対して対董卓ではあまり活躍できておらずむしろ敗走/追撃の憂き目にあっていた。そこで曹洪は自身の馬を曹操に譲り「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず(曹洪が死んでいなくなっても、貴方は天下に不可欠である)」・・と言い放ち、曹操に対して再起を促す檄を飛ばしたという。演義においては知略よりも武のタイプの将軍である書かれ方がされており猪突猛進な攻めが原因で窮地に陥る場面が地味に多い。(特に横山三国志で曹洪が大将で出てきたら毎回蜀側のボーナスステージのような勝ち戦になっている)三国志前半での前述のカッコいい良エピソードに対して後半のエピソードにあまり良いものが無いので現代日本のイメージではあまりパッとしないというのは事実である。また、曹一族の中でも酒色財(酒・女・金)に没頭する俗物的なエピソードが多い。英傑大戦では酒色財のイメージに加えて掴みどころの無い独特なエッセンスが加えられている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:06|2022年10月13日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第47回:涼州の勇士】
俺の速さに付いて来られるか・・ッ!涼州出身の猛将:龐徳(ホウトク)。字は令明。 ※龐は常用外漢字。同じく涼州の馬騰およびその息子:馬超に仕え、何度も魏国と衝突したがついには追い詰められて魏国へと投降した。助命してもらった恩義に報いらんと対呉国で奮戦。さらには蜀との戦いへの参戦にも踏み切った。蜀国には旧君である馬超が属しており当然ながら内通を疑われた為対蜀での覚悟を示すために「自身の棺桶を持参して参戦した」という。蜀国にとっても運命の戦いとなる樊城の戦いでは副将として参戦(大将は魏国古参の将:于禁)。大雨を利用した関羽軍水計によって勝敗が決まってしまった後、大将:于禁が降伏してもホウ徳は徹底抗戦を貫き通して奮戦。しかし最後は捕縛され処刑されてしまった。古参である于禁が早々に降伏したことに対して、新参者であるホウ徳が短期間の恩義であったにも関わらず最期まで魏国に殉じたという事実は魏国でも大問題となり曹丕の代に移った後、ホウ徳の子孫を高待遇にすることでその忠節に報い反対に于禁に対しては徹底的に冷遇して、最後には憤死させるに至った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:48|2022年10月10日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第46回:悲哀の舞】
人の思いは、どこまでも繋がっていきます...!織田家家臣、生駒家宗の娘にして、織田信長の側室:生駒吉乃(いこま/きつの)織田信長の目に止まり、一目惚れに近い形で信長の側室となった。正室:帰蝶(濃姫)を上回る織田信長からの最大の寵愛を受けた女性である。信長と吉乃との間には嫡男:信忠、信雄、さらに五徳姫を授かった。(正室濃姫の間には子供が誕生しなかったことで、信忠は実質養子となり正室との子とされたが 実のところ信忠が吉乃の子であるか、信忠が信長-濃姫の養子扱いとされたのかは異説が多々ある)一説では彼女の没年齢は29歳と若死にしてしまったという説もありこのことから戦国大戦でも英傑大戦でも何処か儚げな印象を与えるカードとなっている。ちなみに戦国大戦での名称は苗字の無い「吉乃」名義だったが、実はそもそも「吉乃」の名称自体後世の創作である可能性が高く本名に関しては確固たる資料が存在しない。戦国大戦時でも彼女は舞計略ではあったものの鉄砲射程を伸ばす効果であり、丹羽長秀の計略を含めて全部隊の鉄砲射程UP計略を出してなるものかという兵種流派2への忖度的なものを感じなくもない。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:19|2022年10月07日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第45回:本能型の才】
行くぞォ飛信隊!狙うは敵将の首だァァァ!!舞台は中国。時は春秋戦国時代。後の秦国大将軍:李信。戦争孤児であった信は大家の下僕として雌伏の時代を過ごしていたが同じく下僕であった親友「漂」と共に、いつの日か名を上げ出世し最終的には「天下の大将軍」にまで上り詰めることを目指していた。ある日、親友の漂が秦国中枢へ取り立てられた。親友の出世を嫉妬気味に祝った信だったが後日、衝撃の事件が発生する。一連の騒動を経て、後の始皇帝となる秦国大王と面識を持ち敵国との戦を経て「一兵卒(伍)→百人将→三千人将→五千人将→一万人将(将軍)」へと出世。その中で繰り広げられる敵将との邂逅初めて出会った天下の大将軍「王騎」初めて共に戦った天下の大将軍「ヒョウ公」ありとあらゆる出会いと別れを経て、信自身も天下の大将軍として目覚めていくこととなる。後に、楚国との戦いで李信将軍は常勝大国である秦にあるまじき大敗を喫してしまう。この時、始皇帝の性格から考えて李信の処刑は間違いないように考えられるが何故かこの後の敵国侵略時にも李信は秦軍を率いる将軍として名を連ねていた。この史実から「李信と始皇帝の間には何らかの特別な親しい関係があったのではないか?」とする観点がキングダム連載の軸になっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:45|2022年10月04日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第44回:天才号令】
これが国家の財産、天才の策よ!松代藩士:佐久間象山。外国勢力に対して開国を行うべきと考える開国論者。兵学者・思想家でありながら発明家でもある。その他にも儒学・朱子学にも精通しており、洋学も修めた本人の弁通りまさしく天才であり坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟と名立たる面々が彼に師事。ただし、彼には才ある自分への自尊心・自信のせいか傲慢かつ危機意識に疎い面があった。公武合体論及び親和開国論派であった佐久間象山の存在は尊皇攘夷派の維新志士から見ると邪魔な存在である中で京都で生活をしていた為、河上彦斎等の刺客の手によって暗殺された。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:16|2022年10月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第43回:振鈴の陣】
厄介な奴はわしが止めておこう!フフッ...武田の歩き巫女:望月千代女(もちづき/ちよじょ[※])。※戦国大戦では「ちよめ」読みであったが、現在の研究では「ちよじょ」読みが支配的である為、変更。 同様に武田の内藤昌豊は内藤昌秀になっている等、現代での支配的説に変えているものがある。実在したか定かではない伝説上の存在とも思われるが、一説では武田家のくノ一であるとも言われる歩き巫女の頭領。その伝説的な神秘性からか「戦国大戦でも英傑大戦でも最高レアリティとして登場」している。歩き巫女とは特定の神社に所属することなく全国各地で舞いや祈祷を行ってお布施を集めていた集団であり女性の一人歩き等ではなく男の護衛も揃えた芸者集団のような存在であったと言われている。千代女は武田軍vs上杉軍で最大の激戦となった第四次川中島合戦で夫を亡くした為、未亡人となったが武田信玄の抜擢によって、日本各地の情報を摘み取り武田家に伝える「スパイ」的な活動を行っていたとされる。戦国大戦での千代女は「巫女+(色香で男を惑わす)くノ一」を前面に押し出したキャラ設定となっていたが英傑大戦での千代女は見た目が大きく異なっている。一見すると「のじゃロリキャラ」のように見えるが、実のところ普通にグラマーである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:19|2022年09月27日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第42回:乱れ八咫烏】
俺からの挨拶代わりだッ!石山本願寺に雇われて織田信長と争った傭兵集団雑賀衆頭領:雑賀孫市(さいか/まごいち)紀伊国(現在の和歌山県のあたり)の地侍・豪族にて編成された武将集団:雑賀衆。当時の最新鋭装備であった鉄砲を数千丁有し傭兵稼業営んでおりその雑賀衆の代表の通称が"孫市"であり、織田信長と争った代の雑賀孫市が最も有名である。(雑賀衆の有力家である鈴木家の誰かだったとされてはいるが、誰が"孫市"だったのかは不明。 なんだったら女性だったという説もあるので、戦国大戦では女性版の孫市も存在している)勢力カラーは緑から玄に変更となったが玄を代表する一人として堂々3コスER超絶鉄砲で登場。コスト・スペック・イラスト・計略・音声と戦国大戦のイメージそのままと言っても過言ではない。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:47|2022年09月24日 10:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第41回:隻眼の睨み】
そこまでだ!全員まとめて相手してやる!!曹操の従兄弟にして、曹操旗揚げ時からの宿将:夏侯惇。字は元譲。特徴的な隻眼は対呂布軍との交戦時に負傷したものであり矢が突き刺さった目玉を「親にもらったこの体は一片たりとも無駄にはしない」とその場で食らったことで知られる。昔から曹操の副将として活躍したことで武人的なイメージの強い人物だが正史においての夏侯惇の戦歴は明らかに悪く戦下手と表現されており実は武官というよりも政治面で曹操の補佐を務める文官としての面が強かったりする。一般的な夏侯惇のイメージは「関羽とも戦って決着は付かなかったほどの猛将ではあるが少し知略に欠ける」といったものであるがそれは演義由来のイメージ。知略に欠けるというのは諸葛亮のデビュー戦である「博望坡の戦い」での大失態が原因。副将李典は諸葛亮の火計を見破ったが、忠告を聞き入れなかった夏侯惇によって魏軍は散々な敗れ方をしてしまった。曹操側の武人として正統派に格好良いイメージはやはり真三国無双の夏侯惇が確立させたと言える(そちらも演義由来のキャラ付けである)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2022年09月21日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第40回:宿業の采配/散華の陣】
俺の戦い方は俺が決める!!我が究極の策、御覧に入れよう・・!越後上田長尾氏の当主:長尾政景。謙信公の姉である仙桃院(綾姫)の夫[=謙信の義兄にあたる](また、彼は後の上杉の後継者:上杉景勝の実父でもある)当初、謙信公が越後守護となったことを不服とし出仕を断るなどの反抗を試みたが、業を煮やした謙信公の攻撃にあい屈服。罪を許され上杉家の重臣として活躍するも、上杉家の乗っ取りを画策していたとも伝わる。そして、その最期は宇佐美定満と運命を共にすることとなる。上杉四天王の一人にして上杉軍きっての名軍師:宇佐美定満。第四次川中島合戦において、武田軍軍師:山本勘助の立てた啄木鳥作戦を見破り軍を分けることにより手薄となっていた武田軍本体への突撃を成功させたとされる。そしてある日、長尾政景を危険視していた宇佐美は、政景を舟遊びに誘った。・・・後日、二人の水死体が発見された。二人の体には刀傷があったという説もあり、宇佐美が政景を粛清する形で斬り合いとなりその末に溺死したとも言われている。(上杉謙信に権力を集めるために謙信が刺客を放ち二人を暗殺したという説もあり、事実定かではない)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:10|2022年09月17日 23:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第39回:弱体貫通射撃】
悪いが、俺の敵じゃないな・・!織田家家臣団、織田四天王の一人:滝川一益。その出生に関しては謎が多く、一説では忍びの里:甲賀出身ではないかとも言われている。(戦国大戦と比べても開幕台詞や群雄伝イベントが忍を意識したものに変更されている)織田家の主だった合戦の多くに参戦し、長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮を取り甲州征伐では武田討伐の最功績者として活躍。その後、関東征伐を任せられた。しかし、本能寺の変による統制の混乱により神流川にて北条家に大敗。織田家跡継ぎや遺領配分を取り決める重要な「清洲会議」には不参加となった。(一説では先の北条家戦での大敗を恥じて辞退したとも言われている)さらに後の賤ヶ岳の戦いにて柴田側に付いたことが彼の運命を決定付けることとなった。敗戦後、領地は全て没収され、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:16|2022年09月14日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第38回:合肥の剛鬼】
我が武と神速は、強者と戦うためにあり!!魏国五大将軍筆頭:張遼。字は文遠。呂布の養父:丁原に仕え、丁原→何進→董卓→呂布→曹操と仕えた(※)(※忠義を尽くした主が殺害された為に主が変わっているだけであり不忠ではない)どの主に仕えていた時も最前線を担当した生粋の武将であり下邳の戦いにて呂布軍が曹操軍に降伏した後曹操は自分の売り込みに入った呂布は一切信用せずに処刑したが張遼の人格を信頼して失うには惜しい人材と判断した曹操は、張遼を家臣へと向かえた。後に赤壁での仇敵である呉軍が魏国領内の合肥城に侵攻を開始。兵力10万の呉軍に対して合肥城側の戦力は7000。もはや絶望的な戦力差だった。合肥城の守りを任せられた将軍は張遼・楽進・李典の3人だったが不仲で有名だった(正史記述)しかし、各々名将であり、国家の一大事に私心で協調しない愚者は存在しなかったのである。亡国の危機に一致団結した3将は戦力差14倍の呉軍をボコボコにして敗走せしめた。特に、張遼は精鋭800を集めて呉軍10万に対して突撃。玉砕どころか呉軍を大混乱に落とし入れ孫権を討ち取る手前まで迫って大将旗すら奪い、文字通り「三国無双」の奮闘を見せた。(これは三国志演義での記述ではなく、正史の記述である)ちなみに日本で言う「泣く子も黙る○○」とはこの敗戦がトラウマになった呉国側で子供の駄々や泣きを黙らせるために出来た言葉「遼来来[遼来遼来]」(張遼が来るぞ! の意)が由来であると言われている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:54|2022年09月11日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第37回:獅子の王道】
戦雲が心を燃やし、声無き声がこの剣に宿る!関東に派を唱えた北条家。その三代目:北条氏康。通称:相模の獅子/関東王祖父:北条早雲が創り、父:北条氏綱が統治した国をさらに発展。相模周辺を北条家のものとした。扇谷上杉家を中心とする連合軍に攻め寄られた際扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が築いた三堅城:河越城を要所に防戦。油断しきっていた連合軍に急遽夜戦を仕掛け、扇谷上杉家当主を討ち取り勝利(河越夜戦)。若年期は弱気で恐怖症と馬鹿にされた男は、屈強な獅子へと変貌していた。氏康は茶漬けも満足に作れない息子氏政を酷評したが、氏政を範囲内に入れて計略を使うと特殊台詞「北条五色の力、誇りを受け継ぐのはお前だ!」に変更される。英傑大戦内ではかなりノリノリで後継者指名をしてくれるお父さんキャラである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:24|2022年09月08日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第36回:米五郎左の戦】
米五郎左の本領発揮だ!織田信長の古参家臣:丹羽長秀。信長とは年も近く重用された。【木綿藤吉・米五郎左・掛かれ柴田に退き佐久間】の一人であり(上記4名の中で何故か長秀だけver1.0時点でいなかった)このうちの米五郎左が丹羽長秀のことであり、軍事/内政の何をやらせてもそつなくこなす優秀さから"米のように欠かせない人物"として「米」彼の通称である「五郎」と官位「左衛門尉」これを略して米五郎左の異名をとる。(当時の米の重要性は現代と比較しても圧倒的に重要な存在であり 世界各国を見てもある特定の穀物がどれだけ取れるか=軍事力の目安としていたのは 日本だけである。それと同じくらい重要な人物であるということは相当な評価と考えられる)織田家家臣としては柴田勝家に次ぐ席次であったが柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉といった各方面軍司令官を任せられた者たちと比べると四国方面司令官:織田信孝の補佐であった為、彼らより一つ落ちる格といったところであった。しかし賤ヶ岳の戦いで秀吉側についた長秀は120万石の日本屈指の大大名という大出世を遂げた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:57|2022年09月05日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第35回:神謀】
出てこなきゃ、やられることは無かったろうにな・・!千葉氏に仕えた(?) 軍師/参謀:白井胤治(しらい/たねはる)千葉氏に仕えたというのも定かならず、出自・前半生・後半生もよくわかっていない謎の男。あまりに謎の存在である為、時代:戦国でありながらも戦国大戦に彼は存在していない。・・でありながらも武力8/統率10という勢力当主並の評価なのは理由がある。上杉謙信の関東遠征の際、北条家 原胤貞の城:臼井城が包囲された。原胤貞は旧主千葉氏や北条氏に救援を求めたが僅かな増援しか届かなかった。この臼井城にたまたま在城していたのが白井胤治であり防戦指揮を任せられたのである。軍神:上杉謙信が自ら指揮する15000の兵に対して、白井胤治側は小城の2000程度の兵で対抗。結果、謙信を完全に掌の上で転がして白井胤治が圧勝したのである。一説ではこの時の上杉軍の死傷者数は5000。兵学では死傷者の数が全兵力の1/3に達した場合は「全滅(戦闘続行不可能)」と判断される。圧倒的優位なはずの上杉謙信が、白井胤治の采配の前に全滅を喫したのである。(これは川中島五度合戦の後の話であり、若年期の謙信を手玉に取ったわけではない)この敗戦が大きな要因となり上杉家の支配力が低下。自領下の豪族衆の離反が相次ぎ、上杉家は軍事/内政の見直しを迫られることとなってしまった。この敗戦については上杉家以外の軍記には書かれているが上杉軍の軍記の多くではこの戦いのことは書かれていない。圧倒的有利な謙信側が白井胤治に本当に手も足も出ずに一方的にボコボコにされた為あまりにも酷い惨敗であったことを記録に残せなかったのではないか、とする説が存在する。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:54|2022年09月02日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第34回:決意の銃弾】
我が魂を銃弾に込め、この天下を護り通すッ!!足利幕府を擁立し、後に主君である信長を討つ事となる憂国の士、明智光秀。斎藤道三に仕えた彼は、道三の討死を境に鉄砲の腕を買われて朝倉家へと仕えた。その後、朝倉家を伝にして将軍:足利義昭に謁見。幕臣として仕えつつ上洛を成した織田信長に従いつつ将軍家の復興に勤めた。さらに後に義昭と不仲となった信長により義昭が京から追放されたことで足利幕府は滅亡。幕臣から信長配下となった後はその能力の高さを買われ畿内方面の司令官に任命された。そんな中、織田信長から指令が入る。内容は「毛利攻略中の羽柴秀吉軍の増援に向かえ」中国地方の羽柴軍の増援に向かう途中、明智軍は突如、京都本能寺へと進路を変えた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:18|2022年08月30日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第33回:三本の矢/君臣水船/百戦不敗/慧矢の眼光】
三つの心を一つにすれば、百万一心!俺が毛利の武となり剣となるッ!!我が瞳には、毛利の未来が視えているッ!三本の矢よ、今こそ一つに!!中国地方に覇を唱えた毛利家。江戸幕末における長州藩の祖である。戦国時代最高クラスの謀略家であり「謀神」と称される毛利元就。意外にも若き頃は雌伏の時代を過ごしており中国地方の覇者として台頭したのは元就が50歳を過ぎてからとなる。元就は、自身だけが優秀でも一代の栄華に過ぎないことを確信していた。その為、寵愛していた正室:妙玖との子三人に絶えまない愛情と教育を施した。それに加えて、3人とも各分野に関して類まれなる才を持っていた。長男:隆元は内政・財政、次男:元春は軍事、三男:隆景は外交・調略に優れた。1人1人の不得意分野を他が補うことで磐石となる元就の教え「三本の矢」の逸話は戦国時代の逸話の中でもトップクラスに有名な話である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:44|2022年08月28日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第32回:五色の采配】
北条五色の力!結集させよッ!北条五代の第四代目当主:北条氏政。相模の獅子と呼ばれた氏康の息子。父から受け継いだ領土を守り、氏政の代で北条家の最大版図を完成。石高にして約250万石を誇るほどとなった。(当時これ以上の石高は豊臣・島津のみ)また、息子の氏直に家督を譲った後も実権を握り続けたという。秀吉は、豊臣への恭順の意思を見せない北条家への警戒を強めていたため真田家の名胡桃城を北条家家臣が奪う事件が発生したことを契機にこれが惣無事令(※)違反であるとして全国諸大名へ北条征伐の号令を発布。氏政は全国各地の群雄を相手取り防衛線を繰り広げるが総兵力20万以上の動員を誇った豊臣側に圧殺され進退窮まった。敗戦後、会戦責任を問われた氏政は北条家重臣と共に処刑され、北条家は滅亡した。※惣無事令豊臣秀吉が発布した私戦禁止令。当時の秀吉は全国の大名を従えていたわけではなかったが京都を押さえていたことから「朝廷(天皇)」の勅命であると大義名分を付けていた。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:11|2022年08月25日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第31回:報国之志】
維新への道は、俺が創るッ!!尊皇攘夷派幕末志士にして、陸援隊隊長:中岡慎太郎。土佐国の大庄屋(※)の長男として何不自由の無い人生が約束されていたが剣術家でもあった武市半平太(→sm40787613)の道場で剣術を学びそこで坂本龍馬(→sm40617065)との出会いも果たす。剣術の師でもあり志が一致していた武市半平太の土佐勤王党に入党していたが八月十八日の政変以降の弾圧を逃れ脱藩。長州へと亡命した。その後、下関戦争を目の当たりにして攘夷派から開国富国強兵派へと思想を転換。国家の展望と土佐藩の在るべき姿を書いた「時勢論」を著しておりその展望の実現のため薩長同盟締結へ尽力してついには大政奉還の達成にまでこぎつけた。大政奉還から2ヶ月後、京都近江屋にて坂本龍馬と会談。その際、何者かの刺客によって龍馬は即死(または明朝死亡)。慎太郎は即死は免れたが致命傷を受けて2日後に死亡した。今日のドラマ等での近江屋で何があったかの再現は慎太郎が死ぬまでの間の証言を元にしたものである。※庄屋:地方三役の一つであり、村政を担当。大庄屋ともなれば地方一体の首長であり 藩政幹部の上級武士よりも遥かに裕福であることも多い超金持ち。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:51|2022年08月23日 22:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第30回:稲姫の剣舞】
我が一閃を合図に、陣を展開!父上!私の戦いぶりを見ていてください!本多忠勝の娘であり、真田信幸(信之)の妻:小松姫。幼名を稲姫という。東国無双と称される忠勝の影響を受けて武芸に長け甲冑を身に纏うこともあった彼女についての有名な話としてこのようなものがある。関ヶ原の戦いで東軍西軍に分かれた際に義父である昌幸が孫の顔を見に訪れた。これに対して小松姫は西軍側である昌幸を断固として入城させなかったがその後こっそり城を抜け出して昌幸に孫の顔を見せにいったという。この逸話から、公私の顔をきっちり使い分ける良妻賢母としてその名を残している。(兵の前では西軍と仲良くする訳にはいかないことをよく理解しつつも、人として親族への愛情も ちゃんと併せ持っていることが同時に表現された話であり現代の価値観にも通用する逸話である)長寿であった信幸よりも早くこの世を去ることとなるが信幸は彼女の死を「我が家から光が失われた」と称して嘆いたという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:14|2022年08月21日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第29回:赤報隊の陣】
俺が魁となり、幕府を打ち倒すッッ!!赤報隊一番隊隊長:相楽総三。郷士の子として生まれ、長男ではなかったが後に家督を相続。尊皇攘夷派志士として倒幕運動へ傾倒していた総三は倒幕派の最先鋒である薩摩藩の西郷隆盛配下となり、ある命令を受けそれを実行に移した。幕府との戦の理由を作りたい薩摩藩から江戸城下で市民への暴行・殺人・強盗・略奪・放火と悪の限りを尽くしてから薩摩藩邸へ出入りするのを市民や幕府役人に目撃させるように命令されたのである。この挑発行為に対して幕府側による江戸薩摩藩邸焼討事件が発生し、鳥羽伏見の戦いの口実を手に入れた。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の先鋒として年貢半減を唄って農民を吸収しつつ進軍。しかし戦費問題から財政難に陥った新政府側からすると年貢半減はとても約束を果たせる状態ではなくなりこれを流布して兵を集めていた総三を偽官軍扱いにして捕縛することで年貢半減を反故にしたのである。(もちろん年貢半減での兵集めは総三の独断ではなく命令されたものだった)前述の江戸城下での狼藉と合わせて赤報隊幹部と共に総三は処刑された。この維新志士側にいい様に扱われて最後は切り捨てられる最期となった話はるろうに剣心の相楽左之助の回想として描かれている(相楽の姓も相楽総三から受け継いだもの)長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:19|2022年08月18日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第28回:進士流抜刀術】
進士流抜刀術!一撃で決めますッ!!足利義輝の側室:小侍従(名前というよりも役職/称号名に近い)。あるいは小侍従局(こじじゅうのつぼね)義輝の男児を授かることは無かったが娘を2人授かった。父は幕臣:進士晴舎。(進士氏は代々将軍家の食事調理を担当してきた奉行衆)永禄の政変で義輝が暗殺された後に、その寵愛を受けていた小侍従も捕縛/処刑された。芯の強い女性であり斬首の際に初太刀を外した執行人の不甲斐なさを叱咤したという。小侍従は三千世界の波動(謂わば剣豪お披露目ver)の主役格である「剣豪」将軍:ER足利義輝の妻ということで個人名ではないがSR格での抜擢となった。彼女が武人のような感じになっているのは英傑大戦独自のキャラ付け。また、対戦だけしていると彼女が凛とした武人系の女性というイメージのみに捉えられるが群雄伝での彼女はポンコツ系パワー型の要素を持っていることがわかる。足利義輝伝の最後を飾るのは義輝の最期(永禄の政変)ではなく小侍従の戦いである。ちなみに1コス槍伏柵の朝倉家当主めいたスペックの進士賢光は彼女のいとこにあたる。(賢光自体は三好長慶を宴の席で暗殺しようとしたが失敗したとしか歴史書には記載が無いが料理人であることを絡めてこれでもかというキャラ付けがされている)また、小侍従は進士流を剣術流派のように言っているが、進士流は料理の流派である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:12|2022年08月15日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第27回:大政奉還】
今、政権を一つに・・朝廷へお返しする・・ッ!!徳川第15第将軍にして、日本国においての最後の征夷大将軍:徳川慶喜。水戸藩:徳川斉昭の子として生まれ、後に一橋徳川家の養子となってその家督を継いだ。一橋慶喜となった後に、第13代将軍の徳川家定が急死。慶喜も後継者候補の一人となったが、結果的には第14代将軍は徳川家茂となった。徳川家茂が将軍となってからは慶喜は将軍後見人となったが第二次長州征討が発生してからすぐに徳川家茂が急死。(心不全とも毒殺とも伝わる)その為、第14代将軍候補であり、現将軍後見人であった慶喜が徳川幕府第15代将軍となった。しかしながらこの頃の幕府は第二次長州征討での幕府軍のあまりの弱さから権威を完全に失っていたのである。朝廷/幕府が協力して攘夷を行うべきと考えていた公武合体派の孝明天皇が死去。天皇位が明治天皇へと移ったことから慶喜は朝廷から借りていた治世公務の返還に踏み切った(大政奉還)・・とはいえ未だ政治中枢への影響力を有していた幕府に対して倒幕派が戦を仕掛け鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で旧幕府軍は完全に敗走。260年続いた徳川幕府は滅亡と相成った。慶喜は大政奉還時(30歳)から明治政府樹立後も生き、開国後の日本を見ながら76歳でこの世を去った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:21|2022年08月13日 17:30:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第26回:頼光四天王】
この剣で、人々を守護する!!二倍金時だァァァ!風を読み、動きを見極め、一射一殺・・!人の力を無礼るなよ!!四天王よ!我が剣の下に集え!!平安時代中期、伝説の武人:源頼光(みなもとの/よりみつ。または らいこう)前半生に関しては謎が多く、彼の略歴がわかるのは後半生からであり藤原道長の側近として出世した。朝家の守護として平安時代末期~鎌倉時代を牽引する源氏の礎となった人物である。また、彼には四人の家臣団「頼光四天王」がいた。鬼の片腕を切り落とした四天王筆頭:渡辺綱(わたなべの/つな)童話[金太郎]の主人公で知られる怪力無双:坂田金時(さかたの/きんとき)宝刀髭切を滝夜叉姫から奪い返した弓の名手:卜部季武(うらべの/すえたけ)大鎌を振るって大蛇を討伐した:碓井貞光(うすいの/さだみつ)・・という話ではあるが、平安時代はその言葉の通り大きな戦が少なかった。頼光の武人としての活躍を示すものはほとんど無く権力者に寄り添うことが得意な世渡り上手な人物だったという記録しかない。酒呑童子や土蜘蛛と戦った頼光の伝説は、後の創作物/創作の類がふんだんに入った伝記によるものである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:14|2022年08月12日 07:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第25回:銀魂】
俺のこの剣、こいつが届く範囲は俺の国だ!手ェ上げろ!おかしなマネしたらドタマぶち抜くど!新八の八は、八位の八です!週間少年ジャンプ「銀魂」コラボ銀魂は週間少年ジャンプにて2004年~2018年まで連載された長期連載作品。(NARUTOやBLEACHと同等の長期連載であり、連載後期では先輩連載作品はHUNTER×HUNTERとONEPIECEだけとなった)時代劇にSF要素を取り込んだコメディストーリーにシリアス場面を組み込んだ人情活劇である。時は幕末。(但し、現実の幕末とはパラレルワールドとなった世界軸)外国の脅威どころか地球外の脅威に脅かされた人類は異星人:天人(あまんと)相手に攘夷戦争を勃発させるも江戸幕府はこの天人の戦力に恐れをなして開国。それから約20年後の世界。江戸のあらゆる問題事や依頼事をこなす万事屋(よろずや)銀ちゃんの主人:坂田銀時。そこへ転がり込んできた貧乏道場の跡取り:志村新八と、戦闘種族夜兎族:神楽。これは、犬の散歩から地球平和まで受け持つ万事屋(よろずや)銀ちゃんの物語。(坂田銀時は頼光四天王:坂田金時由来であるが)登場人物は基本的に幕末の偉人の名をもじった別人である為英傑大戦内での元ネタ的な名前の人物は同一人物扱いとならずに同時使用可能。時代に関しては幕末パラレルワールドということで江戸幕末扱いではなく時代「特殊」となっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:45|2022年08月11日 07:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第24回:天啓の幻】
我が天命、幻で終わらせるわけにはいかぬ!!揚州呉郡の雄:孫堅。字は文台。小覇王孫策および呉国初代皇帝孫権の父。通称:江東の虎。17歳の時点で既に軍事職に付いた彼は各地の乱を鎮圧してその名を高めた。後漢崩壊の序曲となる「黄巾の乱(184年:孫堅29歳)」でも鎮圧のため各地を転戦し連勝を重ねてその武勇は諸国群雄からも一目浴びることとなった。後に反董卓連合が立ち上がるとこれに参加。正史において董卓軍の猛将である華雄を破ったのは孫堅である。(演義では華雄を倒せるものが連合側に誰もおらず一介の足軽同様の身分であった関羽が倒したことになった)しかし、その活躍も束の間、前線に陣を張り過ぎたために急襲を受け撤退を余儀なくされた。反董卓連合が解散した後は袁術傘下となり劉表攻めの命令を受けて出陣。董卓軍との戦いでも見せたあまりに前傾の攻めが災いして、罠に嵌って戦死。跡目は子の孫策へと受け継がれたが、孫策の戦い方も親譲りのものがあり孫策(→sm40851698)もまた父:孫堅と似た運命を辿った。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:37|2022年08月08日 19:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第23回:赤壁の大火】
我らが炎にて、敵軍を焼き尽くせッ!!知友兼備の将にして呉国大都督:周瑜。字は公瑾。眉目秀麗を称して美周郎の異名を取る。始め孫堅に仕えその次代である孫策とは主従の枠を越えて個人として親睦が深かったとされ義兄弟の契りを結ぶに至る。(孫策の妻と周瑜の妻が姉妹であるため、親戚関係としても二人は義兄弟にあたる)正史においては各地での大活躍がこと細かく記録されるも早世してしまった若き天才。もはやどこにケチを付ければいいのかわからないレベルの完璧超人であり、諸葛亮とはそもそも関わりが無い。演義においての周瑜はとにかく諸葛亮の引き立て役としての面が強く「何故、天はこの周瑜を生み出しておきながら、諸葛亮を生み出したのか!(既生瑜、何生亮)」諸葛亮からの煽り手紙を読んだ後に上記言葉を残して憤死する役回りである。しかしながら演義においても赤壁での「曹操側のスパイを逆に利用する」「苦肉の策」等は周瑜の策であり、両方とも成功している為、策士としての有能さは描かれている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:20|2022年08月07日 16:20:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第22回:温和なる疾行】
無駄なく迅速に決着を付けましょう!新選組副長(後に総長):山南知信(やまなみ/とものぶ)。通称:山南敬助。※姓に関しては「サンナン」と読む説もあるが、英傑大戦では「ヤマナミ」で表記。陸奥国出身で北辰一刀流の免許皆伝に達した剣豪。(近藤と出会う前の出自は不明点多数)天然理心流試衛館の近藤勇と試合を行った際に敗北。近藤の強さと人柄に惚れ込んだ敬助は以後、試衛館の面々と行動を共にした。チンピラ集団としての面がかなり強かった壬生浪士組の中では温厚で親切人であった為にそれを表す言葉は現代でも残っている。(故に数少ないキレるエピソードが存在する)。それに加えて冷静で頭が切れた為に浪士組の参謀として活躍した。しかしその後、藤堂平助の仲介で新選組に参加した伊東甲子太郎の登場によって幹部としての立場が揺るがされそれと合わせて新選組屯所を勤王色の強い西本願寺に移転することとなり勤王の志高い敬助はこれに猛反発するも抗議が受け入れられなかったことに大きく落胆。この後、突如新選組を脱走。沖田総司(→sm40712089)がこれを追い一旦連れ戻すが、脱走の罪は局中法度に明記されており切腹死罪である。親しくしていたかねてからのメンバーは再度の脱走を促すが、敬助はこれに応じなかった。近藤派メンバー幹部であっても局中法度違反は例外なく切腹。これを敬助の死と引き換えに示した為、局中法度は鉄の掟であるという認識が確立された。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:55|2022年08月06日 18:10:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第21回:義兄弟の誓い/忠義の大号令/長坂橋の仁王/挺身の身代わり】
我ら兄弟の手で、天下を掴み取ろう!我ら将兵、決死の覚悟!突き進めぇぇい!!命の惜しくない奴は、やりあおうぜぇ!!恩はいつか返すものです・・!大徳:劉備と、知友兼備の豪傑:関羽、関羽を上回る武力を持つ豪傑:張飛。後の蜀国第二代皇帝:劉禅(阿斗)を託してこの世を去った劉備の正室:麋夫人(びふじん)後漢末期、乱世を憂い、義の為に立ち上がった三人の義兄弟:劉備・関羽・張飛。「生まれた時は違えども、死す時は同じ日/同じ時を望む」桃園の誓い(※)を成した三人は小勢力ながらも着々と力を付け関羽・張飛は兵力的に劣る戦を引っくり返すほどの活躍を見せること多数。軍師参謀として諸葛亮を得た後は三国時代の一角「蜀」を建国するに至った。この三人の運命は樊城の戦いを境にして大きく動くこととなり、三人存命の間に天下泰平を見ることは残念ながら無かった。(※同じ日同じ時の死は遂げられることはなかったが同時期という意味であれば三人の誓いは果たされている)日本での三国志イメージは創作の「三国志演義」が基本ベースとなっており蜀は三国志演義の主役国に該当する。その関係で蜀贔屓の表現が多く印象の悪い出来事などは伏されていたり省かれていたりすることが多い。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:37|2022年08月05日 15:35:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第20回:小覇王の大号令】
俺たちの力を天下に示すぜぇ!!猛将孫堅の嫡男にして、兵家孫子(孫武)の子孫:孫策。字は伯符。三国志演義においては破竹の勢いで勢力を伸ばしたことから「小覇王」の異名を取る(演義)当時の孫家は大勢力:袁術の傘下であった。勇猛果敢にして苛烈な攻めを得意とする父:孫堅は袁術の命令により劉表を攻めるがあまりにも無謀な攻めを展開してしまった孫堅は罠に嵌り戦死してしまう。その後を継いだのが子の孫策である。家督を継いだ後はしばらく袁術傘下の中で孫家基盤を強大にしつつ江東の地で袁術勢力からの独立を宣言。勢いに乗って周囲の群雄を撃破し、孫家勢力の拡大を成功させていくが、その勢いは最後まで続かなかった。多くの敵を矢継ぎ早に打ち破っていくということは、各地の禍根を絶つ暇もないということである。孫策は過去打ち破った敵軍残党の奇襲に合い、その傷が致命傷となってしまった。17歳で家督を継いだ孫策は、その僅か9年後の26歳で死去。孫策は自身が当主の時代に後の内政・外交・戦で活躍する有能の士を多数登用していた。彼が生み出した勢力版図と家臣団が無ければ、後継の弟:孫権の呉確立は無かったと言われる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:43|2022年08月03日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第19回:狂狼の豪剣】
俺様の豪剣、受けてみやがれェェ!!新選組の前身、浪士組初代筆頭局長:芹沢鴨(せりざわ/かも)。彼の前半生については出自が定かではないが、尊皇攘夷結社:水戸天狗党に属していたとも言われる。[鴨]という印象的な名前も、芹(セリ)が来たなら鴨だろう(鍋を表した冗談)ということで名乗っていただけの可能性が高く、正確な名前なのかどうかも定かではない。剣術流派は永倉新八や桂小五郎と同流派:神道無念流。壬生浪士組のリーダー格として近藤勇派閥と派閥闘争を繰り広げた。酒乱で粗暴な行動が目立っていた為、学が無い乱暴者のような印象を受けるが浪士組の寝所として世話になっていた八木家の者に対しては礼儀正しく、子供の面倒見もよく、教養も兼ね揃える人物であった。壬生浪士組の活動資金を(全部がまともな行動ではないとはいえ)賄っていたのも芹沢一派の功績であるのは事実であったが、芹沢のあまりの問題行動に業を煮やした会津藩は近藤派へ芹沢の処分を下命。(諸説あり)八月十八日の政変/禁門の変に出動し活躍していた壬生浪士組は既に一定の評価をもらっており、既に芹沢の集金力が無くとも隊士を養えつつあった近藤派は派閥統一を狙って芹沢鴨の暗殺を決行。芹沢の剣豪としての腕前を警戒した土方は、芹沢を酒宴の席にてもてなした後寝室に移り泥酔した彼を四人がかり(土方・原田・山南・沖田)で討ち取り、長州藩士により暗殺されたと世間的に公表。この暗殺事件により芹沢一派を排除したことで近藤派主導の新選組が誕生した。ちなみにるろうに剣心の「志々雄真実」のモデルは芹沢鴨である。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:22|2022年08月01日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第18回:最期の剣】
旅立つ前に、最期の剣をとくと見よ・・!五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで足利幕府第13代征夷大将軍:足利義輝。幼名は菊幢丸。通称:剣豪将軍。応仁の乱以降、室町幕府の権威は完全に失墜し、既に日本は戦国の世へと移っていた。義輝の父:第12代将軍の足利義晴は、家臣である細川晴元に実権を握られ、この細川との戦に臨むも連戦連敗を喫していた。そんな中、義輝が11歳の時に将軍職を父から譲り受け、義晴と細川氏は和睦。しかし、細川晴元の臣下であった三好長慶が晴元を裏切り、政権を奪い去られてしまう。この三好長慶とも和議を成立させたが、義輝は将軍による日本統治に拘った。これにより傀儡としての将軍を望む三好氏からは義輝は厄介な存在となっていた。松永久秀および三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は足利義輝の排除を決行。永禄の政変と呼ばれるこの暗殺事件において、剣聖:塚原卜伝に師事していた義輝は畳にいくつもの刀を立てて近寄るものを斬り続けたという。「剣豪」が新兵種として登場した英傑大戦において唯一群雄伝が完結しており足利義輝伝のみifルートの実装やver1.0のサブタイトルである三千世界設定(いくつもの世界軸/パラレルワールド)が取り入れられている。群雄伝を見る限りでは「英傑大戦-三千世界の波動-」の主役として設定されている。また、前述のいくつもの刀で応戦したという逸話は群雄伝においてその1つ1つがストーリーに登場した恩人の刀であったという熱い設定で展開されているため必見。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:05|2022年07月30日 15:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第17回:英魂の目覚め】
誰のものにもならない。私は自分の足で歩く・・!楢崎龍(ならさき/りょう)。お龍(りょう)さんの名で知られる坂本龍馬の妻。楢崎家は曽祖父の代までは長州藩士であったが、何らかの理由に除籍。(詳細は不明)おりょうさんの父:楢崎将作は医師として京都で生活をしており、維新志士とも交流があった。その伝で坂本龍馬とお龍が出会い、互いの名を聞いた時にどちらにも象徴的な「龍」の字があったことで笑いあったという。楢崎将作が没したことで楢崎家は困窮するが、ひょんなことから坂本龍馬と再会。行動を共にすることとなる。龍馬の活躍で薩長同盟が成った後、龍馬とお龍が宿泊中であった京都寺田屋に伏見奉行衆が集結。この捕縛衆にいちはやく気付いたお龍は入浴中であったが、龍馬へ危機が迫っていることを知らせに走ったという・・全裸で。寺田屋からの脱出後、二人は結婚。脱出時に負傷した龍馬は西郷隆盛の紹介で薩摩へ湯治に向かう。かくして二人は結婚直後に薩摩旅行をすることになり、これは(定かかどうか不明だが)日本初の新婚旅行として有名である。薩摩で束の間の新婚生活を送り仲睦まじく過ごしたが、それから約1年半後。近江屋にて龍馬が暗殺される。龍馬の死後は坂本家を頼るが、龍馬の遺産問題が発生して間もなく坂本家を出ることとなる。その後は、各地を流転し、困窮の生活を送ったとされている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:09|2022年07月28日 15:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第16回:暴勇の報い】
大義無き獣に報いをッ!!涼州従事:趙昂の妻、王異。西涼の有力者:馬超(→sm40763742)の侵攻が起きると、自身が身に着けている高価な衣装・宝石を兵に渡してでも士気を高め自身も武装してこれに応戦した(冀城の戦い)。馬超の猛攻は熾烈を極めたが、頑として徹底抗戦を貫いた烈女である。(三国志に於いて女性が軍を率いたと明記されているのは王異唯一人。しかもこれは正史に書かれている)しかし、趙昂/王異夫婦の嫡男:趙月が馬超に捕縛され人質となった為に趙昂は馬超に降伏。馬超は趙昂を信用してはいなかったが、王異は馬超の妻である楊氏を通じて自身と趙昂を信用させることに成功した。冀城から馬超を締め出す策を決行するにあたって、夫から「人質の趙月はどうするのか?」と問われたが「息子よりも城主として果たすべき義を優先せよ」と諭され、この計画を実行に移した。これにより完全にキレた馬超は軍を率いて来襲したが、魏の救援が間に合った為に退散していった。※尚、趙月は予想通り処刑された。(この関係で真三国無双の王異は馬超抹殺キャラ)王異の活躍については三国志正史でのみ取り扱われ、蜀が主役である演義においては全く扱われていない。これは、蜀の期待の助っ人的な登場をする演義の馬超に関してのマイナスイメージにしかならないからである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:57|2022年07月26日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第15回:維新の礎/御楯の烈士】
狂わねばこの国は救えない・・進めッ!最後の瞬間まで!この命を燃やし尽くすッッ!!長州藩士:吉田矩方(よしだ/のりかた)。通称:吉田松陰。長州藩の兵学を担う立場にあったが黒船来航後に思想家としての面が非常に強く出るようになる。叔父が開いた私塾「松下村塾」を継ぎ、勉学・思想の教授を担った。この松陰による松下村塾での講義は二年程度の活動に過ぎなかったが、ある塾生は維新の先鋒となり、ある塾生は後の日本新政府の総理大臣となるなど、後世名を残す門下を多数排出。後に井伊直弼主導で対外不平等条約の締結が行われると、これを批判したとして処断された(安政の大獄)。享年30歳。同じく長州藩士:久坂通武(くさか/みちたけ)。通称:久坂玄瑞(くさが/げんずい)。松下村塾の塾生の中でも吉田松陰から特に優秀であると評価された(晋作は勉学に於いて久坂に劣ると評価)安政の大獄が起きると幕府を大いに敵視。尊皇攘夷過激派の若手衆先鋒となり御楯組を結成。そのリーダー格であった高杉晋作と久坂玄瑞は英国公使館焼き討ちを実行に移した。後の下関戦争を通して長州藩のあまりのエキサイティングぶりに会津藩と薩摩藩は朝廷からの長州藩排除を決行(八月十八日の政変)。八月十八日の政変と池田屋事件に大きく憤った久坂は武力クーデター(禁門の変)を起こすがこの禁門の変に敗れた久坂は自刃することなった。享年25歳。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:58|2022年07月24日 09:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第14回:誅殺の号令】
これが天の意志だ!覚悟を決めろッ!土佐勤王党(※)盟主:武市瑞山(たけち/ずいざん)。通称:武市半平太(たけち/はんぺいた)。(※土佐勤王党/土佐勤皇党:天[皇]陛下の為に[勤]めるの文字通り、尊皇攘夷を掲げる政治結社)郷士(豪農の一部、武士待遇を受ける身分)であった武市家に生まれ、剣術家として藩内でも評価を受けた。土佐藩は土佐藩参政:吉田東洋を始めとした開国派に流れがあったが、黒船来航以降に土佐勤王党が台頭。半平太はその盟主として吉田東洋の暗殺を実行。同時に吉田派を土佐藩から排除して藩論を尊皇攘夷へと移した。しかし、その後に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が朝廷から追放(八月十八日の政変)されてからは状況が一変。土佐藩主:山内容堂は土佐勤王党の弾圧に動き、吉田東洋暗殺が怪しまれた武市一派を捕縛。本人は頑なに容疑を否認し続けたが、人斬り以蔵があっという間に白状した為に罪状が確定。切腹の沙汰となった。(武市半平太はこの切腹に於いて三度腹を切る「三文字切腹」を果たした唯一の武士と言われている)この件について、武市半平太を失うべきではなかったと山内容堂は生涯悔いたとされる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:43|2022年07月22日 18:40:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第13回:天下無双】
愚か者共が!消えよ!!人中に呂布あり、馬中に赤兎(せきと)あり三国無双の豪傑:呂布。字は奉先。北方并州に生まれ、その武芸を買われて并州刺史:丁原に仕え、後に義息となった。漢朝内で丁原と董卓が政敵となると、董卓側に唆されて丁原を暗殺。そのまま董卓と父子の契りをかわした。漢朝を牛耳ることに成功した董卓だったが、あまりの専横に群雄諸侯が連合を組んで挙兵。演義:汜水関/虎牢関の戦いでは関羽・張飛・劉備の三人が束になって呂布と戦うが、それでも尚、呂布を討ち取ることは出来なかった。(後々のエピソードから考えて関羽&張飛と同時に戦える呂布が圧倒的に強いことがわかる)その後、絶世の美女:貂蝉(演義にのみ登場する架空の人物)によって董卓との仲違いを起こし、董卓を暗殺。董卓を討ち取ったことを流布してに各国へ売り込みを開始するが、主君を二度裏切っている呂布を信用するものは誰一人おらず重用しなかった。劉備は、流浪の将となった呂布を迎えるが、劉備の留守の際に劉備の本拠であった下邳城を占拠するいつもの恩を仇で返すスタイルを実行。劉備は曹操の元に向かい、曹操も呂布を危険視した為に討伐を開始。下邳城に水計を仕掛けられた呂布は曹操軍に投降し、またも自身の売り込みに掛かるが全く信用されずに処刑された。呂布は天下無双の豪傑であったことは確かだった。しかし、自分の武勇を過信し目先の欲を優先・・つまりは君主としての大局観を持っていなかったのである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
6:57|2022年07月21日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第12回:流動】
“流動”を使う!北真・北歴・関斗、要の配置に!! 春秋戦国時代、趙国の不敗の名将:李牧。史実においては、北部匈奴に対して堅固な守りを展開しつつ、時に10万からなる匈奴軍を殲滅して侵攻を10年途絶えさせた傑物。天下統一マジック点灯済の常勝大国である秦からの趙国防衛を任された際は秦に対しても不敗・・どころか秦国の領土を奪い返した。(これは李牧以外には誰一人成し得なかった偉業)あまりに強すぎた為、秦国は李牧に戦で勝つことは諦め、趙国内部に手を回して讒言により李牧を処刑させた。李牧を失った趙国は完全に自滅した形となり、秦国に成す術なく滅亡させられた。(李牧は対秦国を含めて戦で敗北したことの無い不敗の将として歴史に残った)キングダムの李牧は王騎将軍(→sm40418180)を完全に嵌めて排除したところは間違いなく有能な強敵だった。その後は(本来李牧が参戦していない)秦国が勝つ戦いの指揮を取っていたことにされ「超有利な戦いなのに負ける」役を連発。(主役側の秦国がピンチを逆転する展開の弊害でもある)この関係で作者的にどう見せたいのかよくわからない人物になってしまった。少なくとも読者からすると圧倒的有利にも関わらず敗戦を繰り返す有能風無能キャラにしか・・・英傑大戦では全カード唯一の知力12であり王騎将軍の知力を上回るという初登場時の李牧を反映した数値となっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:23|2022年07月18日 14:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第11回:獅子槍刃】
我が乱に魂を賭けるッッ!!後の蜀国の五虎将の一人:馬超。字は孟起。その勇姿から錦馬超の異名を取る。(馬家は後漢の名族であったが、馬超の祖父の代で大きく失墜していた)馬超は馬騰の長男として生まれ、父:馬騰は後漢末期の涼秋鎮圧の功績により涼州を実質的に任せられていた。馬騰の支配地を引き継ぎ、同じく涼州の有力者であった韓遂と連合して対曹操に臨むが【潼関の戦い】にて、韓遂との仲違いを狙った「離間の計」によって大敗。この大敗によって一族郎党皆殺しの憂き目にあった馬超は魏国を大いに恨み、蜀国を建国しようとしていた劉備に帰服。正史においては劉備から左将軍の位を授かった後は名前が出てこなくなり、演義においては魏国との漢中攻防戦で活躍するが、やはりこの後は出てこなくなった。演義では蜀を主役として描かれているので馬超は期待の助っ人として好漢の役回りで登場するが、正史の馬超は所謂DQNとして表現されており、大きな差異がある。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:15|2022年07月16日 07:40:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第10回:失墜の献策】
これが現実だ...受け入れろ..!!長州藩士:長井時庸(ながい/ときつね)。通称:長井雅楽(ながい/うた)。[これで うた と読むのは初見は無理]長州藩十三代藩主:毛利敬親の信任を受けて出世。直目付役を司るまでに至った。後に長州藩は外敵を寄せ付けないで自国を守ろうとする攘夷派が台頭するようになるが、雅楽は開国論者であり[航海遠略策]を提唱。この開国論は「広く世界の知識や技術を吸収することで外国に対抗しよう」というものであり結局のところ攘夷に繋がる考えなのではあるが、別派閥の攘夷派である吉田松陰やその門下と対立。(攘夷の考え方でいくつも派閥がある面倒な状態である)安政の大獄が起きると、吉田松陰門下から暗殺計画を仕掛けられるほどとなり、さらに藩内で尊王攘夷過激派が跋扈するようになると派閥闘争に敗れた雅楽は謹慎処分の後に切腹の沙汰にまで及ぶこととなった。しかし、明治の世まで時代が進むと日本は彼の掲げた開国による技術革新に舵をきっており彼の提唱した航海遠略策は正しかったと歴史が証明した。彼の撤退台詞は正しいことを主張しているのに派閥争いに破れたが故に間違っていると断じられた無念を象徴したものである。辞世の句:君がため 捨つる命は 惜しからで ただ思はるる 国のゆくすえ長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:45|2022年07月13日 20:40:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第9回:長州大割拠】
長州男児の肝っ玉!これよりお見せしよう!!おもしろき こともなき世を おもしろく長州藩士:高杉春風。通称:高杉晋作。高杉氏は毛利家の名門であり、高杉晋作は名門出かつ嫡男の身分である。武士の中でもエリートと言える身分であるため幼い頃から英才教育を受け、剣術は柳生新陰流を学び免許皆伝に至った腕前を持つ。松下村塾では吉田松陰に師事して、尊皇攘夷に傾倒。米仏との間で下関戦争が起こると志願兵を募り奇兵隊を組織した。八月十八日の政変、禁門の変、第一次長州征討を経て苦しい立場となった長州藩では保守派(幕府に従おう派)が台頭したが自らの尊皇攘夷派を「正義派」と自称して、保守派の面々を排除。長州藩の実権を得るに至った。第二次長州征討では幕府軍兵力10万超に対して長州藩は兵力5000前後の圧倒的兵力差でありながら幕府軍を撃退。この戦にて決定的な権威失墜を巻き起こした幕府は大政奉還の実行を已む無しとされる。晋作はこの大政奉還を悲願の一つとしていたが、大政奉還を見る前に肺結核の悪化により27歳の若さで病死。驚くべきことに、長州藩を引っ張った風雲児のこれらの逸話は、20前半~半ばの若者の話なのである。ちなみに、CVもあいまって開戦台詞での一人称「僕」はかなりの違和感があるがこれは師の吉田松陰が一人称を「僕」、二人称を「君」と言い始めた最初の人物であるという説があり、師の特徴的な言葉使いについて松下村塾生が強い憧れを抱いていたことを反映したものである。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:32|2022年07月10日 22:10:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第8回:三段突き】
この突き、見切った人はいませんから...白河藩藩士の子:沖田春政(房良)。通称:沖田総司。9歳の若さで天然理心流「試衛館」に入門。近藤勇、土方歳三、永倉新八等の堂々たる面々と剣術を学び12歳の時点で白河藩の武士と互角以上の強さに達していた天才剣士。新選組結成後はその強さと天性の人たらし的魅力から全隊の筆頭と言える一番隊組長を務め、筆頭局長:芹沢鴨の暗殺、池田屋事件の突入組として活躍。しかしその池田屋事件の際、突如吐血して戦線を離脱。それから長期間活躍の場は無いまま時代の流れが維新勢に味方をし、新政府軍に近藤勇が処刑された2ヶ月後、総司は結核の症状が悪化してこの世を去った。ちなみに、沖田総司の幼名は宗次郎であり「るろうに剣心」の"天賦の剣"[天剣]瀬田宗次郎は沖田総司をモデルとしているので名前も同じとなっている。それとは別に、るろうに剣心本編にも数コマだけ沖田総司が出るが、見た目が明らかに瀬田宗次郎にそっくりであり、モチーフであることがよくわかるようになっている。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:53|2022年07月09日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第7回:神道無念流】
死ぬためではなく、生きるために戦おう!!長州藩士、後に維新三傑の一人に名を連ねた男:木戸孝允(きど/たかよし)。またの名を桂小五郎。松下村塾を継ぐ前の吉田松陰に師事して兵学を学び、さらに後に神道無念流「練兵館」に入門。僅かな期間で免許皆伝を取得した天才剣豪としての面を持つ。長州藩の若き俊英として頭角を現し、生涯の伴侶となる芸妓"幾松"(後の木戸松子)とも出会った小五郎であったが、八月十八日の政変、禁門の変を経て、長州藩は朝敵の烙印を押され、追われる立場となった小五郎は、時に乞食に化け、女性に化け、幕府勢や佐幕派の追っ手から隠れ逃げ延びたことから「逃げの小五郎」の異名を持つようになった。それから後、小五郎は長州藩の代表として倒幕維新を積極的に進めて薩長同盟を締結させた。大政奉還後は新政府幹部となり「五箇条の御誓文」「廃藩置県」の推進に尽力したが、西南戦争が勃発した1877年、癌により45歳で病没。その最期の言葉は、残る維新三傑(西郷隆盛、大久保利通)に生じた亀裂を憂いたものであったという。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:58|2022年07月05日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第6回:魏武の大号令】
我等が覇道は、我等の手で創るッ!!魏王、乱世の奸雄:曹操。字は孟徳。後漢末期、名族曹氏の下に生を受けるが、若い頃は素行が悪く家中からの評価は著しくなかったが、黄巾の乱が起きるとその討伐戦で才気を発揮し、漢室を牛耳る董卓を討たんと反董卓連合へ参加。対董卓戦では戦果は振るわなかったものの、後に、大勢力である袁術軍を撃破したことで曹操の名は一気に飛躍し、名族中の名族である袁紹をも撃破したことで、中原北部の覇者となった。勢いに乗り南方へ進軍して天下統一へ王手を掛けるが、赤壁にて呉国に大敗北を喫する。その後、蜀・呉との争いに身を投じ、217年に子の曹丕を後継者に指名。その3年後に死去した。ちなみに「魏武」とは、そのまま「魏国の武力」という意味とも捉えられるが曹操(→魏の武帝→魏武帝→魏武)その人を指す言葉でもあるため魏武の大号令=曹操の大号令と言い換えることが可能である。※三国志大戦では曹操でなくとも「魏武の○○」名称の計略を持つ武将が複数存在したので セガ的には前者(魏国の武力)の意味で使っていると思われる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:15|2022年06月30日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第5回:局中法度】
目覚めろ!壬生の狼たちよッ!!新選組「鬼の副長」こと土方義豊。通称:土方歳三。多摩の豪農の子として生まれ、若き頃は実家の秘薬[石田散薬]の行商で生計を立てていた。天然理心流「試衛館」に入門し、そこで土方は後の盟友となる近藤勇(→sm40615014)と剣術を学んだ。新選組誕生前、誕生後も、トップとしては華が無いと言われた近藤を立てて組織の為に尽くし近藤勇を陽(組織の顔)として立てる為に、土方歳三は陰(憎しみを集める汚れ役)を担った。後に、身分も定かならずならず者の集まりという面もあった新選組を律する「局中法度」を制定。これを破った者はかねてからの仲間であろうと例外なく厳しく取り締まった。・・・それから月日は流れた。幕府が倒れ、近藤との今生の別れが訪れようと、壬生の狼として新政府軍に立ち向かう土方の姿がそこにあった。※土方歳三は今後、確実に2枚目(戊辰戦争ver)が出ることを確信しています。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:52|2022年06月25日 22:50:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第4回:壬生狼の号令】
誠の旗の下!真の武士共よ集えッ!!時は幕末。京都周辺の警備に当たった新選組。その局長:近藤昌宜。通称:近藤勇(こんどう/いさみ)。元服前の14歳の時に天然理心流「試衛館」に入門。12年後、26歳の若さで天然理心流宗家を継ぐ。それから数年後、徳川家茂(第14代将軍)の警護を目的とした浪士組に入隊するがこの浪士組の真の姿が親幕府組織ではなく朝廷側に付くことを重視した「尊皇攘夷」組織であったことが判明したために、大多数の隊員とは袂を分かつこととなった。江戸に駐屯することとなった浪士組からは離れ、「壬生浪士組[※みぶ:京都の地名]」を結成。副長:土方歳三と共に厳しい隊の規律を完成させ、新選組(新撰組)の名を賜った後に、隊の中での別派閥であり大きな影響力を持った筆頭局長:芹沢鴨を暗殺した。その後、池田屋事件/禁門の変への出動と活躍するが、補充隊員であった伊東甲子太郎を思想上の違いから危険分子として暗殺。後に幕府が崩れると、伊東甲子太郎の弟:鈴木三樹三郎(元:新選組9番隊組長)の襲撃を受けて肩を負傷してしまう。(この負傷で"剣豪"では無くなった)旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まると、旧幕府軍に所属するが劣勢はどうしようもなく敗走し捕縛。斬首となった。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:30|2022年06月18日 17:00:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第3回:風雲之志】
俺のやり方で、この世界を切り拓いていくぜよッ!日本を今一度洗濯いたし申し候。土佐藩、明治維新志士の一人:坂本直陰。通称:坂本竜馬(龍馬)。武市半平太を筆頭とする尊皇攘夷結社「土佐勤王党」に加盟するが、後に脱藩。かねてより西洋の技術、そしてその脅威に目をつけていた龍馬は海軍の祖:勝海舟に師事して海軍操練所の設立に尽力した。池田屋事件後はその操練所も閉鎖となってしまうが、薩摩藩の助力を受けて長崎に日本最初の商社と呼ばれる亀山社中(後の海援隊)を設立。その後、禁門の変にて武力衝突を起こして非常に険悪な状態となっていた(というよりも孤立した長州藩)と薩摩藩の仲を取り持ち、海援隊による海運能力を活用して「薩長同盟」へと導いた。・・が、大政奉還が成ったことを見届けた翌月、京都近江屋にて龍馬は刺客の手によって暗殺されてしまう。(指示組織/実行犯ともに不明)風雲之志を遂げ、次なる大志に向けて奔走しようとしていた矢先の出来事であった。今回が初のERカード(※)となります。(ER→英傑レアの略。英傑大戦でのカードレアリティはER>SR>R>Nの4種類)英傑大戦ではSR以下のグラフィックが無い代わりに、ERに関してはカードイラストを忠実に再現したグラフィックで作られています。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:26|2022年06月14日 09:30:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第2回:御所への忠誠】
命に代えても、護るべきものを護る...!室町幕府の奉公衆。幕臣:三淵藤英(みつぶち/ふじひで)同じく幕臣であり、後に織田家へと移ることとなる細川藤孝(→sm21063462、sm25160466)は彼の異母弟とされる。(但し、諸説あり。細川藤孝が兄であるとされる説もあるが、英傑大戦では藤英が兄としている)剣豪将軍:足利義輝が暗殺された後に、足利義昭を擁立して足利幕府の復興を志すが後見人であった織田信長と足利義昭の間に不和が生じると、弟:藤孝は信長側へ付いたが、兄である三淵藤英はあくまで幕臣として義昭側に付き【御所への忠誠】を示した。しかし、圧倒的軍事力の差から織田家を打倒することは出来ずに降伏。降伏後は同じく幕臣であった明智光秀(→sm19387324、sm20173553)の下に送られた。その後、一旦は降伏を許されたはずだったのだが信長の命によって自害を命じられた。その理由は今日に至っても謎とされている。※御所:一般的には天皇陛下やその近親の邸宅を意味する。但し、三淵藤英の計略名での御所とは 花の御所(足利将軍邸宅)のことであり、ひいては足利家や将軍その人への忠誠のことを指す。尚、三淵藤英は戦国時代に限定された戦国大戦に於いてカード化されていない。戦国大戦にいなかったのに昔から居ましたよ感を出している珍しいカードである。かなり謎のある人物であった為に戦国大戦時はスルーしたものの、「大河ドラマ:麒麟が来る」によって大きく知名度を上げたこと及び英傑大戦で足利将軍周りをフィーチャーした群雄伝を出す予定があった為だと思われる。長兄の英傑大戦:mylist/73130055
8:38|2022年05月29日 18:40:00 投稿
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第1回:天下の大将軍】
これが、将軍の見る景色です。時は春愁戦国時代。秦国:昭王の下で、自由軍事権を与えられ各地で矛をふるった六人の大将軍がいた。「白起、王齕、司馬錯、胡傷、摎」そして、六大将軍最後の一人にして通称:秦の怪鳥。王騎将軍。大将軍に成ることを夢見る少年:信(後の李信)が初めて出会った大将軍にしてその行動理念・指針に大きな影響を与えた天下の大将軍である。久方ぶりの戦場へ王騎は赴くが、その地は趙国三大天の一人である武神:龐煖(ほうけん)と、王騎と同じ六大将軍であった摎(きょう)。過去の宿命に終止符を打つ決戦の舞台となった。キングダムコラボということでキングダムから多数のキャラクターが登場です。今から10年前にあたる戦国大戦の第3回(合従→sm18608839)の時点で相良君のこと書いてないのが今見ても草生えます。王騎将軍に関しては明らかに意図的に強めの調整にしてるあたり、近いうちの下方は免れないでしょうが、その流れは正しく過去に一時代を作った上で「始皇三年 王騎死す」の原作再現になるのは熱いですねw長兄の英傑大戦:mylist/73130055
7:10|2022年05月04日 19:00:00 投稿