【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第167回:下克上の策謀】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第167回:下克上の策謀】

貴様らが消えた世界は、きっと骨のように綺麗だ・・!応仁の乱にて山名宗全側(西軍側)に属し、宗全死後に西軍総大将の立ち位置となりそのまま戦国時代において山陽・山陰・北九州等、計六カ国を支配下においた大内家。大内家の家臣として仕えていた陶氏の家督を継いだ武将:陶隆房(すえ/たかふさ)。大内家の第16第当主:大内義隆に寵愛され、青年期には武将へと取り立てられた。(名の「隆」房に関しても一字を義「隆」から拝領したものである)西国一の大勢力であった大内家であったが、中国地方にて台頭した尼子勢力に対して大内家は大敗。以降、大内義隆は軍事面への興味をすっかりと失ってしまい戦国大名としての大内氏は衰退の一途を辿っていこうとしていた。隆房は戦場を駆ける武将として大内家武断派を担っており義隆の非戦的な姿勢によって徐々に大内家での立場を失っていくこととなったのである。文治派との対立、そして主である義隆との関係は絶望的に悪化していきとうとう隆房は武力蜂起を決行。隆房の謀反に対して義隆及び文治派の対応は著しく遅く兵力5000~10000の隆房に対して、2000~3000の兵しか用意できず義隆は大寧寺に逃げ込んだ後に自害する結末となった。(大内氏の乗っ取りに成功した隆房は、義隆から一字もらった隆房の名を捨て、以後は陶晴賢を名乗る)大内氏の軍備強化を行った後に、晴賢はとうとう東へ軍を進める。当初、晴賢の謀反を支持する姿勢を取っていた毛利家へ侵攻を開始したのである。兵力2-3万の軍勢を以って必勝の構えで安芸国:厳島へ進軍するが大軍ゆえの足回りの悪さを突かれ、兵力4000-5000程度の毛利軍に陸海からの挟撃を受ける。これによって大混乱に陥った陶軍は数の利を活かすことなく大敗。下克上の体現者:陶晴賢は志半ばにて戦死することとなった(戦国三大奇襲戦:厳島の戦い)長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42924997