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ニイタカヤマノボレ一二〇八の「ニイタカヤマ」って、どこにあるの?『笹幸恵の軍事トリビア』#77
昭和16年12月8日、大東亜戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃。
日本海軍機動部隊にこの作戦実行の命令を下した電文の言葉として有名な「ニイタカヤマノボレ」だが、この「ニイタカヤマ」とは何だろう?
案外知らない人が多いが、実はこの山、当時の日本で最も高い山だった。
一方、陸軍にも作戦実行を命じる電文の文言があったのだが、これはほとんど知られていない。そこで、こちらもあわせてご紹介。
「ウクライナ国民斯ク戦ヘリ」沖縄線に見る民間人の闘い~「沖縄県民斯ク戦ヘリ」大田實海軍中将の電文を読む『笹幸恵の軍事トリビア』#68
ロシアの侵略を受けたウクライナでは、一般市民を巻き込んだ熾烈な戦闘が行われている。
これに対して日本では、「戦闘で死者を増やすくらいなら、早く降伏した方がいい」などという意見まで出てくる始末である。
国を守るために、軍隊のみならず民間人までもが命を懸けるという気持ちが、今の日本人にはわからなくなってしまったのかもしれない。
しかし、そんな日本人も、かつては民間人までが国を守るために闘い、斃れていったという場面があった。それが沖縄戦である。
戦後の歴史観では、沖縄戦で死亡した民間人は単に戦いの「巻き添え」の被害者扱いにされ、しかも加害者が米軍ではなく日本軍にされてしまっているが、それは本当に正しいのだろうか?
沖縄根拠地隊司令官として海軍の戦闘を指揮した大田實中将が自決の直前に送信した決別電を読み、その実像に迫る。
そこに描かれた沖縄県民の姿は、いまのウクライナ国民と重なって見えないか?
福山聯隊と樋口季一郎中将~岡山からちょっと足を延ばしてみました~『笹幸恵の軍事トリビア』#63
10月10日、第101回ゴー宣道場が岡山で開催された。
せっかく岡山まで来たのだからと、笹さんが足を延ばしたのが、福山。
備後護国神社には立派な戦没者慰霊碑が並び、中でも「メレヨン島戦没者慰霊碑」に感激。
そして福山といえば、歩兵第四十一聯隊。
というわけで、第四十一聯隊の創設から大東亜戦争末期、「二度、玉砕した部隊」と言われるまでの歴史を語る。
歴代の第四十一聯隊長の中でも特に語るべきは第17代・樋口季一郎中将。
樋口中将は後に北方軍司令官となり、戦争末期のアッツ・キスカや占守島の戦いにおいて名を知られている。
そして実は他にも、樋口中将にはユダヤ人難民の救援に大きく尽力した功績があるのだが、これは外交官・杉原千畝の活動に比べてほとんど知られていない。
そこで、樋口中将を顕彰するための新たな動きについてもご紹介!
新潟といえば「歩16」!!~飢餓と地獄の戦線を戦い抜いた新発田の歩兵聯隊 『笹幸恵の軍事トリビア』#56
4月11日、新潟で初のゴー宣道場が開催されることを記念して、新潟にちなんだ話題をお届け。
新潟といえば日本酒! 美味しい海産物も豊富だし、温泉も多いし…とはいえ、この番組はは「軍事トリビア」!
軍トリで新潟といえば、新発田! 新発田といえば歩16! それ以外にありません!
ということで今回は新発田にあった歩兵第16聯隊の略歴をたどります。
「餓島」と呼ばれたガダルカナル島に派遣され、ようやく撤退したと思ったら今度は「地獄」と呼ばれたビルマ戦線に送られて、最も過酷な戦場を2度も踏むというほかにあまり例を見ない経歴を持つのが、この歩兵16聯隊。
最後には、その2つの戦場の両方を経験して生き残った元兵士に笹さんが取材した際の、「ある意味すごい」と感じた秘話(?)も。
楽器を持つ手を○○に変え… 陸海軍「軍楽隊」 『笹幸恵の軍事トリビア』#51
NHKの朝ドラ『エール』でも、主人公の音楽家が戦地へ慰問に行くシーンが描かれたが、今回は陸海軍に設置された「軍楽隊」のお話。
軍楽隊は明治に軍隊が発足するとほぼ同時期に、近代軍隊には軍楽隊が必要というイギリスの軍楽隊員で『君が代』の最初の作曲者としても知られるフェントンの進言によって誕生した。
その仕組みは、陸軍と海軍とでは、全く違う。
戦局が悪化して、音楽どころではなくなった時期の軍楽隊員たちは、どうしていたか?
そして、日本の軍歌を今も受け継いでいる、意外なところとは?
玉川徹と大本営作戦参謀・辻政信の共通点 『笹幸恵の軍事トリビア』#48
テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」のレギュラーコメンテーターとして、最近は新型コロナの恐怖を煽りまくることに余念のないテレ朝社員・玉川徹。
彼は、政府批判をする際に「これは旧日本軍と同じ失敗を繰り返している!」という言い方をよく使う(ただし、引き合いに出すのはいつもガダルカナル島に関する不正確な知識だけ)。
あまりにもしつこく日本軍と同じ、日本軍と同じと繰り返す玉川徹を見ているうちに、この人、誰かに似ているなという気がして、思い当たったのが大本営作戦参謀・辻政信。
ノモンハン事件の敗戦の責任者でありながらいつのまにか復活し、終戦まで第一線に就き「作戦の神様」と言われた辻政信。
彼は自分の「正しさ」を疑わず、周囲もその「正しさ」に異を唱えることができなかった。
その辻政信の「正しさ」こそ、玉川徹の「正しさ」とそっくりなのだ!
果して、その共通点とは何か?
縁の下の力持ち「海軍設営隊」~建設部隊が戦局の帰趨を決した!? 『笹幸恵の軍事トリビア』#47
ゴー宣道場開催に欠かせない、当日の会場設営、警備等の運営を担う門下生有志のボランティアを、「設営隊」という。
始めた頃から、誰言うとなくいつの間にか定着していた名称だが、実は旧日本海軍にも「設営隊」という組織があった。
その任務は海軍の土木建築を担うことにあり、彼らがいなければ作戦遂行もままならない、まさに「縁の下の力持ち」と呼ぶべき存在だった。
設営隊が編成されるまでには、どんな変遷があったのか?
そしてその編成は?
陸軍や、米軍ではどうなっていたのか?
などなど、戦史ではあまり語られない、しかし欠かすことのできない重要な存在だった裏方に今回はスポットを当てる!
クエゼリン玉砕 マーシャル諸島の戦いと今 『笹幸恵の軍事トリビア』#41
中部太平洋戦線、タラワ・マキンで多大な犠牲を強いられた米軍は、次に日本の信託統治領だったマーシャル諸島・クエゼリン環礁の攻略を目指した。ここは米軍にとっては中部太平洋に進攻する足掛かりとなる場所だった。
対する日本軍は、南部のクエゼリンに司令官秋山門造少将以下約6000名、北部のルオットに山田道行少将以下約2900名。戦闘能力としては非常に貧弱な状態で米軍を迎え撃たざるを得ない状態だった。環礁という陣地構築に向かない場所で、増援部隊も間に合わず、戦闘は凄惨を極めた。
もっと多くの人に知ってほしい、今では知る人も少ない小さな島における戦闘。
そして、現在の島の模様もご紹介。
「墓島」と呼ばれたブーゲンビル島~北部ソロモン、孤立無援の島『笹幸恵の軍事トリビア』#31
今回は、悲劇の戦史シリーズ。
ソロモン諸島北部のブーゲンビル島は、戦時中はドイツ語読みで「ボーガンヴィル島」、略して「ボ島」と呼ばれていた。
この島では75年前の3月に激闘が行われた。この時点で既に日本軍は壊滅的な大敗を喫していたのだが、悲劇はまだこれからだった。補給の一切ない見捨てられた島で、日本軍撃滅の執念を燃やす豪軍を相手に絶望的な「持久戦」が継続され、「ボ島」が「墓島」と呼ばれるようになるほどの惨状が繰り広げられていったのである…
ガダルカナル2024 『笹幸恵の軍事トリビア』#80
2024年8月、ソロモン諸島・ガダルカナルを訪れた際の映像公開!
大東亜戦争の激戦地・ガダルカナル島、略称「ガ島」。
補給路を断たれた日本軍が多くの餓死者を出したことから「餓島」とも呼ばれた凄惨な戦場も、今は昔。80年を経た現在では「兵どもが夢の跡」とでもいうべき光景が拡がる。
そんなガダルカナルの街並みや戦跡、慰霊碑、そして中国資本による開発が進んでいる様子など、今の風景をお伝えします。
飛行場を急襲!「義烈空挺隊」 読谷村の碑を訪れました。『笹幸恵の軍事トリビア』#78
今回は沖縄戦における、あまり知られていない戦史について。
沖縄県・読谷村に「義烈空挺隊玉砕之地」という碑がある。
これは昭和20年5月、米軍に占領された沖縄県の北・中飛行場に着陸し、米軍機や施設等を破壊後、ゲリラ活動を行うという「義号作戦」に参加した義烈空挺隊の碑である。
隊は伝家の宝刀のような精鋭部隊だったが、それだけに活躍のタイミングを失い、既に大勢が決していた沖縄戦に、ほとんど特攻のような状態で投入された。いわば「戦艦大和」と同じような状況だったのである。
にもかかわらず、その事実は沖縄戦の中でも語られることは少ない。
もし読谷村に行かれる際には、その碑を訪問してみてはいかがだろう?
海軍兵学校に行ってきた! 海軍の初級士官を育てたエリート校『笹幸恵の軍事トリビア』#75
第71回で紹介した軍港・呉に続く、海軍聖地巡礼シリーズ!
今回行ってきたのは、海軍最大の聖地ともいえる広島県・江田島。
ここには海軍初級士官の教育機関である海軍兵学校があり、現在は海上自衛隊幹部候補生学校となっている。
正門を入ると外とは全く違う、空気が張り詰めたような独特の雰囲気が漂う。ここは観光地ではない、明治以来の伝統を今も受け継ぐ海軍・海自の教育機関である。
今回は江田島見学の見どころやその感想、そして明治20年に築地から江田島に移転した海軍兵学校の、終戦に至るまでの歴史などについてご紹介します!
トラック諸島 大空襲とその後『笹幸恵の軍事トリビア』#74
現在ではダイビング・スポットとして有名なミクロネシアのチューク島。
ここはかつては南洋群島のトラック諸島と呼ばれ、日本の委任統治領だった。
今回は、この地域が大東亜戦争中どのような経緯をたどり、戦争の前後でどのように変わったかについて語る。
トラックの現地で「戦争」といえば、昭和19年2月に米軍が行った2日間の大空襲、それだけを指すという。
それまでは、日本の敗色が濃くなってきてもなお、トラックには繁華街もあり栄えていた。
ところが、わずか2日間の空襲によって、島の様相は真っ逆さまに暗転する。
そして今のトラックでは、ところどころに旧日本軍や日本統治による遺構を見ることもできるが、栄えていた昔日の面影はほとんど残っていない。まさに、兵どもが夢の跡というような風景が広がっている。これも、一つの運命なのかも。
兵站を担う輜重兵 そもそもタイトル読めますか?『笹幸恵の軍事トリビア』#72
このタイトル、読めた人はもうある程度軍事に詳しいと言っていい。
これは、「へいたんをになうしちょうへい」と読む。
「兵站」も「輜重」も、まず軍事関連以外では使われることのない言葉だから無理もない。
しかも「兵站」や「輜重兵」は戦史の中でもあまり重視して語られることのない分野だったから、なおのこと。
最前線の戦闘に当たる兵隊が「花形」であるとしたら、輜重兵はそこまでの舞台を整える「裏方」のようなもの。しかし、花形が輝けるのは、本当は縁の下の力持ちがいてこそである。
実際、日本軍の敗北の原因は「兵站の軽視」にあったというのは、定説のようになっている。
では「兵站」とは? 「輜重兵」とは? ここで解説しましょう!
終戦後のソ連軍侵攻 占守島の戦い~北海道の命運を分けた5日間『笹幸恵の軍事トリビア』#69
ロシアのウクライナ侵略が始まってから、2ヶ月以上が経過した。
その間に明らかになったのは、民間施設への攻撃や虐殺、強姦、略奪など、あらゆる国際法を無視してどんな非道な行為も平然と行ってしまう、ロシアの無法ぶりだ。
この様子を見て、日本人ならば思い起こさなければならない歴史がある。
千島列島の最北端・占守島において繰り広げられた「終戦後の戦争」である。
ソ連がまだ有効だった日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告したのは、1945年8月9日。
そして、ソ連軍が占守島を侵攻したのはなんと、日本がポツダム宣言の受諾を公表した後の8月18日だった!
占守島の防衛に当たっていた第91師団は既に武装解除と帰国の準備に入っていたが、この事態に一転、ソ連軍の上陸・南下を阻止すべく徹底抗戦の死闘を繰り広げた!
もしこの戦闘がなかったら、北海道の半分はソ連に占領され、今もロシア領になっていたかもしれないにもかかわらず、「戦後」の出来事だったためか、このことを知っている人はそう多くはない。
だが、ロシアがどういう国なのかを理解するためにも、この歴史は決して埋もれさせてはならない!
清沢冽『暗黒日記』を読む~戦時中、冷徹な観察眼を持ち続けた人『笹幸恵の軍事トリビア』#67
戦前に活躍した外交・政治評論家、清沢冽(1890-1945)の著書『暗黒日記』の現代語訳版が東洋経済から出版された。
清沢は反軍国主義の主張を貫き、戦時中は情報局から執筆禁止者に指名され、完全に干されていた。
清沢は言論発表の場を奪われた中、現在のおかしな風潮を日記に残し、後に検証する史料にしようとした。
清沢は終戦前に死去したため、自身によって時代の検証をすることはかなわなかったが、しかし清沢が遺した膨大な日記から、現在の私たちが学ぶことは無限にある。
あの時代、本物の言論人は世の中の風潮をどう見ていたのか?
そして現代の我々は、当時の日本人と比べて、少しは進歩しているのだろうか?
ファシズムについて「国家総動員法」から考える『笹幸恵の軍事トリビア』#60
コロナ禍の中で国民の自由が狭められている。
同調圧力や「要請」という名の法的根拠のない事実上の強制によって、全体主義状態が出来上がり、メディアからは決まった意見しか流されなくなり、さらにワクチンを国民全員に接種しようと政府が躍起になるに至って「ワクチンファシズム」が出現した。
終戦の日を前に「悲劇を繰り返さぬように」という番組・記事などはお決まりのように出ているが、もうその悲劇は繰り返されているのではないか?
今ここで、かつての日本がどのように自由を失っていき、戦争へと突き進んでいったのかを検証してみよう。そのキーワードは「国家総動員法」。
果たしてわれわれは、かつての日本人よりも賢くなったといえるのだろうか?
インパール作戦はなぜ阻止できなかったのか?~『組織の不条理』から学ぶ〈2〉『笹幸恵の軍事トリビア』#59
前回に引き続き、菊澤研宗著『組織の不条理』から、旧日本軍の失敗の構造を解説する。
ビルマ防衛のための積極策として英印軍の反攻拠点だったインパールの攻略を企図したこの作戦は、当初から無謀だと指摘されていた。
特に3000メートル級の山岳を越えて進軍するため補給に懸念が示され、常識的に考えれば不可能であることは明らかだった。
ところが牟田口廉也軍司令官が強力に作戦を推進、実行された。
そしてその結果はやはり補給が途絶、作戦部隊は壊滅状態となり、死傷者は5万人にも及び、退却ルートは「白骨街道」と呼ばれた。
なぜ誰が見ても無謀な作戦は実行されたのか?
新型コロナに関する政府の対策を批判するテレビのコメンテータ―などがしたり顔で「旧日本軍の失敗にそっくりだ」と言う際に、ガダルカナル戦と並んでよく引き合いに出されるインパール作戦。
だが、その失敗の構造を見ていくと、いまの何かにそっくりじゃないか?
ガダルカナル島戦三度の「白兵突撃」は合理的だった!?~『組織の不条理』から学ぶ〈1〉『笹幸恵の軍事トリビア』#58
新型コロナに関する政府の対策を批判するテレビのコメンテータ―などが、決まり文句のように言うのが「旧日本軍の失敗にそっくりだ」
とにかくそう言っとけば、なにか鋭い分析をしたかのように見えると思っているのかもしれないが、その例えが的確だったことは未だに一度もない!
特によく引き合いに出されるガダルカナル島戦、「戦時の逐次投入」で「不合理な作戦」だったなどとしたり顔で言う者がいるが、果たしてそれは本当に不合理だったのか?
そもそもそんな批判をする人は、完全合理的にモノを判断できるのか?
軍旗にまつわるあれこれ~軍旗は天皇の分身だった!?『笹幸恵の軍事トリビア』#57
前回話していた通り、4月11日に新潟で行われたゴー宣道場に際して、新発田の歩兵第16聯隊資料館を訪れた笹師範。
そこで目を引いたものは数々あったが、特に目を引いたのは「聯隊旗」。それも「旗のない軍旗」とでもいうようなものだった。
そこで今回は、日本軍と「軍旗」について語る。
日本兵にとっての軍旗とは、どういうものだったのか?
それは、数百千の兵の命にも代えられないものだった!
西洋的合理主義では決して理解できないであろう、想像を絶するような、軍旗に込められた魂の物語!
松の「根こそぎ」動員 海軍の切実な燃料事情~「松根油」について 『笹幸恵の軍事トリビア』#55
戦争の行方を決定的に左右するのは「資源」の差。
日米の間には比べようもない資源の差があり、そもそも開戦すること自体が無謀だった。
そのことは日米開戦の4か月前・昭和16年8月に「総力戦研究所」が行ったシミュレーションでも明らかだったが、結局は楽観論に押し切られて開戦に至り、その後はシミュレーション通りの道を歩むこととなってしまった。
そして戦争末期、いよいよ燃料事情が逼迫してきた海軍がその活路を見出そうとしたのは「松根油」。
松の根っこから取れる油を使おうということで大増産の号令がかけられ、松の根を大量採掘、文字通り「根こそぎ」にしようという国策が実行されようとしたのだった。
日本が資源においてどこまで追い詰められていたかを示す、隠れた逸話。
数字と空気と知性 「日米開戦は不可能」とした総力戦研究所の結論はなぜ黙殺されたのか 『笹幸恵の軍事トリビア』#54
日米開戦の4か月前・昭和16年8月、日本が対米戦に踏み切った場合のシミュレーションを行い、確実に負けるという結論を出していた機関があった。
その名を「総力戦研究所」。
内閣総理大臣の管理下に置かれ、30代の官僚、陸海軍人、民間人のエリート30数名が属する研究機関だった。
そのシミュレーション結果は近衛内閣に報告されるが、完全に黙殺されてしまう。
そして日米は開戦。その後は、原爆投下以外はすべて総力戦研究所のシミュレーションどおりに進んでいった…
その経緯は猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』にも詳しいが、それではなぜ総力戦研究所の研究結果は黙殺されてしまったのか?
そこにこそ、現在のコロナ禍で起きていることに通じるものがあるのではないか?
歴史に学ぶとか、戦争の反省をすべきだとか言うのなら、まずこういうところに目を向けなければならない!
政府のコロナ対策は「戦力の逐次投入」に非ず 『笹幸恵の軍事トリビア』#46
新型コロナウイルスへの政府の対応を批判して「旧日本軍の『戦力の逐次投入』と同じだ」という人がいる。
「羽鳥慎一モーニングショー」の玉川徹がそう発言し、実はそれは古谷経衡の受け売りだなどと言われたりしたが、実際には他でもいろんなところで言われていて、すっかり定型化した言い方になっているようだ。
だが、新コロ対策を「戦力の逐次投入」と同一視するのは、全くの間違い!
このことについては、以前にブログで書いているが、
https://www.gosen-dojo.com/blog/26020/
https://www.gosen-dojo.com/blog/26106/
今回はそこからさらに深く考察した決定版!
実は何も知らないのに、したり顔でどっかで聞きかじった「戦力の逐次投入」という言葉を使ってうまく批判したつもりでいる人は、本当に恥ずかしい!
こういう人たちこそが、自分が「悪い見本」として掲げている日本軍の失敗と全く同じ轍を踏んでおり、しかもそのことに一切気づいてもいないのである!
コロナと空気と日本軍~あらためて『「空気」の研究』を読む 『笹幸恵の軍事トリビア』#45
新型コロナウイルスをめぐって、日本中が異様な「空気」に支配されている。
自粛すること、家にいることこそが正義と疑いなく信じ込まれ、異論が言えない。
レジャーに外出する人、営業中のパチンコ店などは、人々が通報し、つるし上げる。
データに基づいて「コロナはインフルエンザと大差ない」と言っても、感情的な反発を生むだけで、聞き入れられない。
とにかく、この空気に逆らう者は「非国民」! という状態。
これではまるで戦時中と変わらない。
戦前も戦後も変わらない、日本人が逆らえない「空気」の正体は何か?
ここで改めて山本七平の名著『「空気」の研究』を読んでみよう。
そこに書かれていたことは、まるで今起きていることを観察して、分析したような内容だった!
恐怖の島タラワ 米軍の反攻~ガルバニック作戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#39
戦況の悪化によって昭和18年(1943)9月、「絶対国防圏」が策定された。
そして同年11月、太平洋における最東端の占領地・タラワでの戦闘が行われた。
「絶対国防圏」の外にあり、補給も全く届かない、言わば「見捨てられた島」を守るのは、柴崎恵次少々以下、海軍陸戦隊約4600名。ここに米海兵隊1万7000名が来襲する。
5日間の戦闘によってタラワ守備隊は全滅するが、この絶望的な状況における守備隊の戦いぶりは、驚異的なものがあった。
そしてのちに米兵は、タラワを称してこう言った。
「恐怖の島」
ソロモン・ニューギニア戦線 知っておきたい3人の指揮官 『笹幸恵の軍事トリビア』#38
今回は、語り伝えたいソロモン・ニューギニア戦線の3人の指揮官の話。
日本陸軍の指揮官には、作戦のミスやその責任を取らなかったことなどで、後世まで非難し続けられている者も少なくない。
そんな中で、この3人に関しては悪評がほとんど伝わっていない。
第8方面軍司令官「人情将軍」今村均中将(のち大将)
第17軍司令官「暗号の権威」百武晴吉中将
第18軍司令官「愛の統率」安達二十三
その人となりは?
ダンピール海峡と魔のサラワケット ~東部ニューギニア 苦難の51連隊 『笹幸恵の軍事トリビア』#36
今回お届けするのは、東部ニューギニア戦線のごく一部の戦闘経過。
ごく一部でありながら、そこに端解されるのは悲惨に次ぐ悲惨!
ラバウルから東部ニューギニアに送られた51師団は、輸送船が空襲によってわずか20分で壊滅する「ダンピール海峡の悲劇」に遭遇。半数が海の藻屑と消える。
ほうほうの体で上陸を果たした3000名ほどの兵を待っていたのは、さらに過酷な運命、「魔のサラワケット越え」だった。
だが、まだそれでも彼らの味わう苦難はまだ序の口だったのである……!
又も負けたか八連隊~大阪第4師団は強かった?弱かった?『笹幸恵の軍事トリビア』#35
日本陸軍、特に歩兵は「郷土連隊」といって、各地域ごとに組織され、同郷の者によって隊を組んでいた。そのため連帯感があり、それが強さにつながったとも言われる。
また、そのためそれぞれの「地域色」があったということも伝えられている。
そんな中で、「日本軍史上最弱」という有難くない評価をもらっていたのが大阪第4師団。
いったいどう言われていたのかを、伊藤桂一著『兵隊たちの陸軍史』に引用されたエピソードから紹介する。
そして、その弱さはまさに大阪の「お国柄」によるものだという、後に有名になる陸軍軍人の分析も紹介。
さて大阪府民の皆さん、この分析、当たってますか?
真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の間~いったい海軍は何をしていたの?『笹幸恵の軍事トリビア』#34
歴史を見る場合、つい大きなトピックスだけをぶつ切りで取り出し並べるということをやりがちになる。
しかしそれでは、その間に何があり、どう動いた結果次の出来事につながったのかということがわからず、全体の流れが見えてこない。
海軍の戦史にしても、真珠湾攻撃の次に語られるのはミッドウェー海戦というケースが多く、これではなぜ大勝が大敗に転じてしまったのかがわからない。
そこで今回は、真珠湾とミッドウェーの間に、海軍がどういう戦いをしていたのかを解説。
その戦いの中で、少しずつ敗色の兆しは現れ、徐々にその色は濃厚さを増していたのである。
軍隊めしたき物語(海軍編)~腹が減っては戦はできぬ!『笹幸恵の軍事トリビア』#32
今回は軍隊と「ごはん」のお話。
軍隊における食事事情は、海軍と陸軍では全然違う。
まず今回は、海軍のお話。
海軍の食事といえば有名なのは「海軍カレー」。
他にも「海軍グルメ」といわれる名物が今も伝えられているけれども、「陸軍グルメ」というものは聞かない。
では実際、海軍の食事は誰がどのようにして作っていたのか?
戦艦ともなると、千数百名の乗員の三度の食事を作らなければならない。
それはもう大変な重労働、スマートでカッコいいセーラー服の水兵さんのイメージとは、全然違った世界なのでした…
『機密戦争日誌』に綴られた苦悩~昭和16年8月の大本営指導班~『笹幸恵の軍事トリビア』#30
今回は、『機密戦争日誌』という史料を読み解く。
この史料は、陸軍参謀本部に設けられた、長期的・総合的な観点から国策の企画・立案を行う「戦争指導班」の職員が、日常の業務を記述した日誌である。
国の行方を左右する立場にあった最高のエリートたちは、日米開戦直前の昭和16年8月に何を考えていたのかが、そこには赤裸々に綴られている。
戦後の人間によって、「無謀な戦争を回避できなかった」などと散々けなされている参謀本部の人々は、果たして本当に無能だったのか? もしわれわれがその時この立場にいたなら、他に何ができたのだろうか?
『戦時下標語集』をチラ見する 『笹幸恵の軍事トリビア』#29
大東亜戦争中のポスターなどに記された様々な標語を集めた『戦時下標語集』という本がある。その中から、目を引いたものをご紹介。
企業広告の宣伝文句から、官公庁のスローガンまで、それぞれが戦争の勝利という目標に向けて民意を結集すべく考え抜かれた戦時下標語。
敗戦という結果を経た現在ではほとんど顧みられることもなくなってしまったが、今回は、困難な時代の中を生きていた人々が触れていた言葉を紐解き、その時代の空気や生活の感覚に少し思いを馳せてみよう。