タグ 軍事トリビア が登録されている動画 : 81 件中 1 - 32 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
ガダルカナル2024 『笹幸恵の軍事トリビア』#80
2024年8月、ソロモン諸島・ガダルカナルを訪れた際の映像公開!
大東亜戦争の激戦地・ガダルカナル島、略称「ガ島」。
補給路を断たれた日本軍が多くの餓死者を出したことから「餓島」とも呼ばれた凄惨な戦場も、今は昔。80年を経た現在では「兵どもが夢の跡」とでもいうべき光景が拡がる。
そんなガダルカナルの街並みや戦跡、慰霊碑、そして中国資本による開発が進んでいる様子など、今の風景をお伝えします。
THE聖地~仙台編~『笹幸恵の軍事トリビア』#79
軍事トリビア、特別バージョン!
今回は聖地巡礼、仙台編!
「仙台といえば、そう、歩兵第4聯隊です!」
ということで、かつて第4聯隊の兵営があった榴岡(つつじがおか)公園へ。
唯一残る兵舎と「聯隊之跡」の碑を感慨深く巡る。
続いては宮城県護国神社を参拝、英霊顕彰館を見学。
最後には「大好物」にも遭遇!
大満足、大興奮の仙台聖地巡りをご覧ください!
ニイタカヤマノボレ一二〇八の「ニイタカヤマ」って、どこにあるの?『笹幸恵の軍事トリビア』#77
昭和16年12月8日、大東亜戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃。
日本海軍機動部隊にこの作戦実行の命令を下した電文の言葉として有名な「ニイタカヤマノボレ」だが、この「ニイタカヤマ」とは何だろう?
案外知らない人が多いが、実はこの山、当時の日本で最も高い山だった。
一方、陸軍にも作戦実行を命じる電文の文言があったのだが、これはほとんど知られていない。そこで、こちらもあわせてご紹介。
飛行場を急襲!「義烈空挺隊」 読谷村の碑を訪れました。『笹幸恵の軍事トリビア』#78
今回は沖縄戦における、あまり知られていない戦史について。
沖縄県・読谷村に「義烈空挺隊玉砕之地」という碑がある。
これは昭和20年5月、米軍に占領された沖縄県の北・中飛行場に着陸し、米軍機や施設等を破壊後、ゲリラ活動を行うという「義号作戦」に参加した義烈空挺隊の碑である。
隊は伝家の宝刀のような精鋭部隊だったが、それだけに活躍のタイミングを失い、既に大勢が決していた沖縄戦に、ほとんど特攻のような状態で投入された。いわば「戦艦大和」と同じような状況だったのである。
にもかかわらず、その事実は沖縄戦の中でも語られることは少ない。
もし読谷村に行かれる際には、その碑を訪問してみてはいかがだろう?
新潟といえば「歩16」!!~飢餓と地獄の戦線を戦い抜いた新発田の歩兵聯隊 『笹幸恵の軍事トリビア』#56
4月11日、新潟で初のゴー宣道場が開催されることを記念して、新潟にちなんだ話題をお届け。
新潟といえば日本酒! 美味しい海産物も豊富だし、温泉も多いし…とはいえ、この番組はは「軍事トリビア」!
軍トリで新潟といえば、新発田! 新発田といえば歩16! それ以外にありません!
ということで今回は新発田にあった歩兵第16聯隊の略歴をたどります。
「餓島」と呼ばれたガダルカナル島に派遣され、ようやく撤退したと思ったら今度は「地獄」と呼ばれたビルマ戦線に送られて、最も過酷な戦場を2度も踏むというほかにあまり例を見ない経歴を持つのが、この歩兵16聯隊。
最後には、その2つの戦場の両方を経験して生き残った元兵士に笹さんが取材した際の、「ある意味すごい」と感じた秘話(?)も。
軍法会議ってなあに? 『笹幸恵の軍事トリビア』#21
ゴー宣道場でも憲法についての議論が進んでいるが、その際にときどき話題になる「軍事裁判所」、またの名を「軍法会議」。
自衛隊は「軍法会議」を開くことができないから、一人前の軍隊の機能を満たしていない…といった具合によく言われるわけだが、そもそも「軍法会議」って、何?
今回は、そんな基礎知識をお届けする。
松の「根こそぎ」動員 海軍の切実な燃料事情~「松根油」について 『笹幸恵の軍事トリビア』#55
戦争の行方を決定的に左右するのは「資源」の差。
日米の間には比べようもない資源の差があり、そもそも開戦すること自体が無謀だった。
そのことは日米開戦の4か月前・昭和16年8月に「総力戦研究所」が行ったシミュレーションでも明らかだったが、結局は楽観論に押し切られて開戦に至り、その後はシミュレーション通りの道を歩むこととなってしまった。
そして戦争末期、いよいよ燃料事情が逼迫してきた海軍がその活路を見出そうとしたのは「松根油」。
松の根っこから取れる油を使おうということで大増産の号令がかけられ、松の根を大量採掘、文字通り「根こそぎ」にしようという国策が実行されようとしたのだった。
日本が資源においてどこまで追い詰められていたかを示す、隠れた逸話。
「不敬罪」ってどんな罪?~ヤフコメの皇室バッシングは懲役何年?『笹幸恵の軍事トリビア』#64
小室眞子さん、圭さん夫妻は渡米したが、バッシングはなおも続きそうだ。
Yahoo!ニュースのコメント欄(ヤフコメ)などは、目を覆うような罵詈雑言が際限なく続く。
そしてバッシングはそんなネットの書き込みや、事実無根の週刊誌報道を批判された秋篠宮殿下にまで向かう始末である。
こんな歯止めのかからない状況に、もはや「不敬罪」を復活させた方がいいのではないかといった発言も、ゴー宣道場内では出てきたりもしている。
さて、この「不敬罪」だが、戦前に存在した法律として名前は聞いたことはあっても、それがどんな法律で、どんな罰則があったのかということまで知っている人はほとんどいないはず。
というわけで、調べてみました。
もしいま不敬罪が存在していたら、ヤフコメに皇室バッシングを書き込んでいる人にはどんな刑罰が科されることになるのか?
軍隊符号あれこれ~私の密かな楽しみ教えます♪ 『笹幸恵の軍事トリビア』#43
「軍隊符号」とは、陸海軍のそれぞれの部内だけで使用された略号や記号のこと。
作戦上の地図などに、部隊などの正式名称をいちいち書き込むわけにはいかないので、共通して分かるように定められたもので、多くはアルファベットと数字の組み合わせになっている。
例えば「南東方面艦隊司令部」は「NTF司」、第28設営隊は「28seg」など。ローマ字表記や、英語表記の頭文字から取ったものが多いが、由来のわからないものもあるという。
さて、そこで、笹さんが軍隊符号を使って日常的にやっている、密かな楽しみとは?
又も負けたか八連隊~大阪第4師団は強かった?弱かった?『笹幸恵の軍事トリビア』#35
日本陸軍、特に歩兵は「郷土連隊」といって、各地域ごとに組織され、同郷の者によって隊を組んでいた。そのため連帯感があり、それが強さにつながったとも言われる。
また、そのためそれぞれの「地域色」があったということも伝えられている。
そんな中で、「日本軍史上最弱」という有難くない評価をもらっていたのが大阪第4師団。
いったいどう言われていたのかを、伊藤桂一著『兵隊たちの陸軍史』に引用されたエピソードから紹介する。
そして、その弱さはまさに大阪の「お国柄」によるものだという、後に有名になる陸軍軍人の分析も紹介。
さて大阪府民の皆さん、この分析、当たってますか?
南方戦線とトイレの話~便所の数で兵力判定!? 『笹幸恵の軍事トリビア』#37
今回はちょっと趣向を変えて、題材を「トイレ」に絞ったお話。
南方の戦跡取材に行く際、もちろんそこにトイレなどない。
だからといって、水分をとらずに我慢していたら、熱中症で倒れてしまう。たいていは汗で流れるけれども、時にはどうしても催してしまうことがある。そういう時は…もちろん、外の適当なところで済ますしかない。
ところがある時、現地の人に、うちにはトイレがあるから使うといいと勧められた。しかしそれが大変なことに…
その他、南方戦線・タラワにおいて、米軍が便所の数から日本軍の兵力を判定していた話や、飛行機乗りはどうやって済ませていたのか? という話など、戦場だろうがどこだろうが、避けては通れないトイレの話あれこれ!
軍港・呉の新たな聖地~「ネイビー萌え」したい人はぜひどうぞ♬『笹幸恵の軍事トリビア』#71
広島県・呉といえば、旧海軍時代からの軍港。
ゆかりの名所としては「大和ミュージアム」や「てつのくじら館」などが有名だが、ここにもうひとつ、新たな名所が誕生した。
その名は、「澎湃館」(ほうはいかん)。
明治33年(1900)竣工の呉海軍造兵廠予備艦兵器庫並預兵器庫として使われた赤レンガ倉庫で、日本遺産構成文化財にも認定されている。
その内部には、海軍や海上自衛隊が好きな人にはたまらない魅力的な展示があり、イベントも開催、お土産品等も充実している。
そんなマニア心をくすぐる見どころの数々をご案内!
澎湃館
http://hohaikan.com/
戦争体験者は終戦をどう迎えたか 『笹幸恵の軍事トリビア』番外編
8月15日、終戦の日を前に送る番外編。
ジャーナリストとして数多くの戦争体験者に取材してきた笹氏は、誰にも必ず同じ質問をしてきたという。それは、「どのように終戦を迎えましたか?」である。
終戦を知った場所も経緯も人それぞれ。そして、階級が兵か将校かでも、感じ方は全く違う。死から生へ、公から私へと切り替わった瞬間に思わず湧き上がった感情とは?
高森明勅氏を聞き手として、経験者にしかわからない貴重な証言を現在に伝える!
軍隊めしたき物語(海軍編)~腹が減っては戦はできぬ!『笹幸恵の軍事トリビア』#32
今回は軍隊と「ごはん」のお話。
軍隊における食事事情は、海軍と陸軍では全然違う。
まず今回は、海軍のお話。
海軍の食事といえば有名なのは「海軍カレー」。
他にも「海軍グルメ」といわれる名物が今も伝えられているけれども、「陸軍グルメ」というものは聞かない。
では実際、海軍の食事は誰がどのようにして作っていたのか?
戦艦ともなると、千数百名の乗員の三度の食事を作らなければならない。
それはもう大変な重労働、スマートでカッコいいセーラー服の水兵さんのイメージとは、全然違った世界なのでした…
艦名のナゾに迫る!~戦艦「大和」はなぜヤマト? 『笹幸恵の軍事トリビア』#28
旧日本海軍の軍艦といえば、「大和」「武蔵」「長門」等々。重巡洋艦は「妙高」「足柄」等、航空母艦は「蒼龍」「飛龍」等…
実はこれらの名前には、艦の種類によって命名の基準が決まっている。ただしそこには例外もあり、そこにはその艦の建造の経緯が現れるという。
それでは、現在の自衛艦の艦名はどうだろうか?
こちらにも基準は定められている。とはいえ、種類が限られているために、そこには苦労もあるようで…
恐怖の島タラワ 米軍の反攻~ガルバニック作戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#39
戦況の悪化によって昭和18年(1943)9月、「絶対国防圏」が策定された。
そして同年11月、太平洋における最東端の占領地・タラワでの戦闘が行われた。
「絶対国防圏」の外にあり、補給も全く届かない、言わば「見捨てられた島」を守るのは、柴崎恵次少々以下、海軍陸戦隊約4600名。ここに米海兵隊1万7000名が来襲する。
5日間の戦闘によってタラワ守備隊は全滅するが、この絶望的な状況における守備隊の戦いぶりは、驚異的なものがあった。
そしてのちに米兵は、タラワを称してこう言った。
「恐怖の島」
『戦時下標語集』をチラ見する 『笹幸恵の軍事トリビア』#29
大東亜戦争中のポスターなどに記された様々な標語を集めた『戦時下標語集』という本がある。その中から、目を引いたものをご紹介。
企業広告の宣伝文句から、官公庁のスローガンまで、それぞれが戦争の勝利という目標に向けて民意を結集すべく考え抜かれた戦時下標語。
敗戦という結果を経た現在ではほとんど顧みられることもなくなってしまったが、今回は、困難な時代の中を生きていた人々が触れていた言葉を紐解き、その時代の空気や生活の感覚に少し思いを馳せてみよう。
『機密戦争日誌』に綴られた苦悩~昭和16年8月の大本営指導班~『笹幸恵の軍事トリビア』#30
今回は、『機密戦争日誌』という史料を読み解く。
この史料は、陸軍参謀本部に設けられた、長期的・総合的な観点から国策の企画・立案を行う「戦争指導班」の職員が、日常の業務を記述した日誌である。
国の行方を左右する立場にあった最高のエリートたちは、日米開戦直前の昭和16年8月に何を考えていたのかが、そこには赤裸々に綴られている。
戦後の人間によって、「無謀な戦争を回避できなかった」などと散々けなされている参謀本部の人々は、果たして本当に無能だったのか? もしわれわれがその時この立場にいたなら、他に何ができたのだろうか?
兵站を担う輜重兵 そもそもタイトル読めますか?『笹幸恵の軍事トリビア』#72
このタイトル、読めた人はもうある程度軍事に詳しいと言っていい。
これは、「へいたんをになうしちょうへい」と読む。
「兵站」も「輜重」も、まず軍事関連以外では使われることのない言葉だから無理もない。
しかも「兵站」や「輜重兵」は戦史の中でもあまり重視して語られることのない分野だったから、なおのこと。
最前線の戦闘に当たる兵隊が「花形」であるとしたら、輜重兵はそこまでの舞台を整える「裏方」のようなもの。しかし、花形が輝けるのは、本当は縁の下の力持ちがいてこそである。
実際、日本軍の敗北の原因は「兵站の軽視」にあったというのは、定説のようになっている。
では「兵站」とは? 「輜重兵」とは? ここで解説しましょう!
トラック諸島 大空襲とその後『笹幸恵の軍事トリビア』#74
現在ではダイビング・スポットとして有名なミクロネシアのチューク島。
ここはかつては南洋群島のトラック諸島と呼ばれ、日本の委任統治領だった。
今回は、この地域が大東亜戦争中どのような経緯をたどり、戦争の前後でどのように変わったかについて語る。
トラックの現地で「戦争」といえば、昭和19年2月に米軍が行った2日間の大空襲、それだけを指すという。
それまでは、日本の敗色が濃くなってきてもなお、トラックには繁華街もあり栄えていた。
ところが、わずか2日間の空襲によって、島の様相は真っ逆さまに暗転する。
そして今のトラックでは、ところどころに旧日本軍や日本統治による遺構を見ることもできるが、栄えていた昔日の面影はほとんど残っていない。まさに、兵どもが夢の跡というような風景が広がっている。これも、一つの運命なのかも。
紀元二千六百年 ~人々はどのような生活を送っていたか 『笹幸恵の軍事トリビア』#42
紀元二千六百年とは、神武天皇が即位してから2600年とされる年で、昭和15年・1940年のこと。
ちなみに今年・令和2年は紀元2680年ということになる。
昭和15年といえば、支那事変が泥沼化して久しく、その翌年には日米開戦に至る年である。紀元二千六百年の祝賀行事が行われたということは何かで聞いていても、「ぜいたくは敵だ!」のスローガンが町中にあふれた、暗い谷間の時代だったというのが大部分の人のイメージではないだろうか?
ところが、昨年のゴー宣道場にも登壇したアメリカの日本近現代研究家、ケネス・ルオフ氏の著書『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日新聞出版)を読むと、イメージはガラッと変わる。
膨大な一次史料に当たって浮かび上がった、ほんとうの紀元二千六百年の姿とは?
そして、意外なところで浮かび上がった「日本人」「日本民族」とは何かという議論とは?
軍隊めしたき物語(陸軍編)~腹が減っては戦はできぬ!『笹幸恵の軍事トリビア』#33
軍隊の食事事情は、陸軍と海軍では全く違っていた。
というわけで、前回の「海軍編」に続いて今回は陸軍について。
陸軍は海軍と違って調理専門の兵はいない。
部隊には炊事班があり、炊事班長はたいてい、古参の軍曹が務めた。その理由は?
さらに陸軍が海軍と特に違ったことは、食事を作る以前の問題。
戦線を拡大するにつれ、そもそも食糧を調達すること、第一線に届けること自体が難しくなったのだった。
戦争末期になると、それは惨憺たるものとなり…
キスカ島撤退作戦~奇跡の「ケ」号作戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#27
前回紹介した「最初の玉砕」、昭和18年5月のアッツ島の戦い。
大本営はアリューシャン諸島の放棄の決定の際、アッツは全滅させる代りに、隣のキスカだけは何としても全員撤退させるという方針を採った。
キスカ守備隊5300名の将兵を救出すべく、木村昌福少将率いる第一水雷戦隊15隻の艦艇がキスカに向かう。
だが、その遂行は困難を極め、作戦は2度も中止される。
そして三度目の正直と挑んだ時、実はそれが、このタイミングでなければ成功しなかったかもしれない、幸運な偶然が重なった奇跡の時だった!
身内の軍歴、どうやって調べればいいの?~軍歴証明書を取得しよう!『笹幸恵の軍事トリビア』#65
身内に軍隊経験者がいるけれども、軍隊でどういう経歴があったのか、どこの戦地へ行ったのかなど、詳しいことは知らないままという人は多い。
戦死した人ならもちろんのこと、帰還した人でもつい詳しいことを聞かないままに亡くなってしまい、悔いを残している人もいるだろう。
そういう方々から、どうすれば身内の軍歴を調べることができるのかという質問をもらうことがよくあるので、今回はこれに笹師範がお答えします!
その第一歩は「軍歴証明書」を取得すること。
難しい手続きが必要かと思われるかもしれないが、三親等以内の遺族であれば、意外に簡単。
軍歴証明書の取得の方法から、これを手掛かりにしたさらに詳しい出征状況の調べ方までを丁寧にご説明します。
これを見て軍歴証明書を取得された方は、ぜひ笹師範にお見せください!
楽器を持つ手を○○に変え… 陸海軍「軍楽隊」 『笹幸恵の軍事トリビア』#51
NHKの朝ドラ『エール』でも、主人公の音楽家が戦地へ慰問に行くシーンが描かれたが、今回は陸海軍に設置された「軍楽隊」のお話。
軍楽隊は明治に軍隊が発足するとほぼ同時期に、近代軍隊には軍楽隊が必要というイギリスの軍楽隊員で『君が代』の最初の作曲者としても知られるフェントンの進言によって誕生した。
その仕組みは、陸軍と海軍とでは、全く違う。
戦局が悪化して、音楽どころではなくなった時期の軍楽隊員たちは、どうしていたか?
そして、日本の軍歌を今も受け継いでいる、意外なところとは?
軍隊、軍人に関する質問にお答えします~「嵐を呼ぶ質疑応答」に寄せられた質問から~ 『笹幸恵の軍事トリビア』#52
11月8日に名古屋で開催されたゴー宣道場の第2部「嵐を呼ぶ質疑応答」では、事前の募集に199件もの質問が寄せられ、その中には笹師範への軍隊・軍人に関する質問もあったが、時間の制限もあって扱うことができなかった。
そこで今回は、そんな質問に直接答える!
「旧軍の方々は、男系継承しか認めない皇位継承の制度についてどう考えていますか?」
「旧軍の方の全員が、ということはないと思いますが、中には自衛官に対して複雑な感情を抱かれている方もいるのでしょうか?」
「元軍人の方々は、これまでの日本の外交をどのように感じておられたのか」
「笹さんは大東亜戦争時の日本人と今の日本人の気質の違いをどう見てますでしょうか」
さて、その回答は如何に?
極限状態で人はどうなる?~『「戦争」の心理学』から 『笹幸恵の軍事トリビア』#40
今回は少し趣向を変えて、戦闘時の心理と生理について徹底的に研究した本、デーヴ・グロスマン著『「戦争」の心理学 人間における戦闘のメカニズム』(二見書房)から、極限状況では人間の心と身体に何が起きるのかということについて紹介する。
生死の境目にさらされ、一瞬先の運命が分からない極度の緊張状態に置かれると、人間の身体には平時には想像もできないような反応が現れる。
俗に臆病者のエピソードのように扱われ、不名誉であまり語られることのないあの現象も、実は極限状態においては誰にでも起こりうる生理現象なのだった…
ファシズムについて「国家総動員法」から考える『笹幸恵の軍事トリビア』#60
コロナ禍の中で国民の自由が狭められている。
同調圧力や「要請」という名の法的根拠のない事実上の強制によって、全体主義状態が出来上がり、メディアからは決まった意見しか流されなくなり、さらにワクチンを国民全員に接種しようと政府が躍起になるに至って「ワクチンファシズム」が出現した。
終戦の日を前に「悲劇を繰り返さぬように」という番組・記事などはお決まりのように出ているが、もうその悲劇は繰り返されているのではないか?
今ここで、かつての日本がどのように自由を失っていき、戦争へと突き進んでいったのかを検証してみよう。そのキーワードは「国家総動員法」。
果たしてわれわれは、かつての日本人よりも賢くなったといえるのだろうか?
利他的な自己犠牲的精神の賛美に潜む危険性~ワクチンを接種する若者は国を守る兵士と同じ!?ABEMA Primeのパックン発言を考える~『笹幸恵の軍事トリビア』#62
若者は新型コロナに罹ってもほとんど重症化しないし、死者も出ていない。
つまり、ワクチンを打つ必要などない。
ところが、「若者は自分のためではなく、他人にうつさないという『利他的意義』のために打つべきだ」として若者のワクチン接種をどんどん推進しようという動きがある。
その旗振り役が大阪大の忽那賢志医師である。
9月16日に配信されたABEMA Primeの番組では、中川淳一郎氏が「そんなバカなことがあるか」と忽那を追及、これに忽那は明確に答えられなかった。
そこで忽那に代わるように、ワクチンの「利他的意義」を熱弁したのが、お笑い芸人・パックンことパトリック・ハーランだった。
だがパックンの発言は、一見美しく、反論しづらいように聞こえるが、そこには非常に危険なものが含まれている。
本人が完全に善意のつもりで、その危険性を一切自覚せずに話していることが、さらにその危なさに拍車をかけている。
一見美しい言葉には、警戒が必要だ!!
軍旗にまつわるあれこれ~軍旗は天皇の分身だった!?『笹幸恵の軍事トリビア』#57
前回話していた通り、4月11日に新潟で行われたゴー宣道場に際して、新発田の歩兵第16聯隊資料館を訪れた笹師範。
そこで目を引いたものは数々あったが、特に目を引いたのは「聯隊旗」。それも「旗のない軍旗」とでもいうようなものだった。
そこで今回は、日本軍と「軍旗」について語る。
日本兵にとっての軍旗とは、どういうものだったのか?
それは、数百千の兵の命にも代えられないものだった!
西洋的合理主義では決して理解できないであろう、想像を絶するような、軍旗に込められた魂の物語!
終戦後のソ連軍侵攻 占守島の戦い~北海道の命運を分けた5日間『笹幸恵の軍事トリビア』#69
ロシアのウクライナ侵略が始まってから、2ヶ月以上が経過した。
その間に明らかになったのは、民間施設への攻撃や虐殺、強姦、略奪など、あらゆる国際法を無視してどんな非道な行為も平然と行ってしまう、ロシアの無法ぶりだ。
この様子を見て、日本人ならば思い起こさなければならない歴史がある。
千島列島の最北端・占守島において繰り広げられた「終戦後の戦争」である。
ソ連がまだ有効だった日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告したのは、1945年8月9日。
そして、ソ連軍が占守島を侵攻したのはなんと、日本がポツダム宣言の受諾を公表した後の8月18日だった!
占守島の防衛に当たっていた第91師団は既に武装解除と帰国の準備に入っていたが、この事態に一転、ソ連軍の上陸・南下を阻止すべく徹底抗戦の死闘を繰り広げた!
もしこの戦闘がなかったら、北海道の半分はソ連に占領され、今もロシア領になっていたかもしれないにもかかわらず、「戦後」の出来事だったためか、このことを知っている人はそう多くはない。
だが、ロシアがどういう国なのかを理解するためにも、この歴史は決して埋もれさせてはならない!
日本の敗戦に何を思うか 『戦中派不戦日記』(山田風太郎)から 『笹幸恵の軍事トリビア』#25
今年ももうすぐ8月15日がやってくる。
昭和20年の8月15日、人はどんな気持で過ごしたのか?
それを今に伝えるのが、有名・無名様々な人が書いた、当時の日記である。
今回は、当時23歳の医学生だった作家・山田風太郎の『戦中派不戦日記』から、敗戦直後のインテリのリアルな感情を読む。
その時山田風太郎が危惧していたことは、73年後の今日、現実になっているのではないか…?