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【討論】明治維新とは何だったのか?[桜H29/4/22]
◆明治維新とは何だったのか?
パネリスト:
加瀬英明(外交評論家)
上島嘉郎(元産経新聞社『月刊正論』編集長・ジャーナリスト)
鈴木荘一(歴史家・「幕末史を見直す会」代表)
西部邁(評論家)
松浦光修(皇學館大学教授)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
司会:水島総
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【ゆっくり解説】日本神話の宇宙論 ~平田篤胤の場合~ 【日本神話】
日本神話の独特のキミ悪さが好きです
前(茶の本)→ sm36931282
【ゆっくり解説】「神道に教えがない」はデマ!日本人が知らない神道の歴史
初詣などでなじみのある神道の歴史についての解説動画です。
【神道シリーズ・シーズン2】第35回・平田篤胤【前編】平田篤胤の生涯と草莽崛起の国学
安永5年8月24日(1776年10月6日)、現秋田県の出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれたが、家が貧しく、8歳の時に口減らしのために近所の鍼医者の家に養子として出されるが、当家に跡継ぎが生まれたため11歳で大和田家に戻され、その後も実家の義母とは折り合いがあわず、家の中ではやっかい扱いされたうえ、20歳になるとそれまですこしずつためた500文を手にし、実家を後にして単身江戸へと向かった。
江戸についた篤胤は、大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本の武家奉公人となったが、25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となり、平田姓を名乗るようになる。
その後26歳で旗本屋敷の奥勤めの娘・織瀬と大恋愛の末結婚し、その織瀬が見つけた本居宣長の本を通じて宣長の国学にのめりこむようになり、亡き宣長を忍んで念じて眠ると夢の中で宣長と邂逅し、宣長門下生となる資格を得た、と言う。
その後知識欲旺盛な篤胤は国学のほかにニコラウス・コペルニクスの地動説やアイザック・ニュートンの万有引力など西洋の最新の科学にまで貪欲に学ぶ一方、37歳の時に書いた「霊能御柱」で自ら打ち立てた霊冥界の理論を実証すべく41歳の時に千葉県の常陸・房総半島を廻り、数々のスピリチュアルな体験を地元の名士たちから集め、それを彼の国学理論で説明するなかしだいに彼自身の門人の数を増やして行った。
そして、46歳の時、神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという寅吉という15歳の少年に出会うと彼を自宅に居候させ、少年の言う神仙界を自ら主張する霊冥界を重ねながら聞き取り調査を続けた。
その後、48歳の時には、死んだ近くに住む子供の生まれ変わりだと主張する勝五郎という6歳の少年も同様に自宅に住まわせて寅吉のように聞き取りを行った。
こうした奇異ともとれる篤胤の行動は、宣長派の国学者たちから激しい批判を浴びる一方、当時の一級の知識人たちから賞賛や高い評価を受け、この草莽崛起ともいえる民衆の間に広まった平田国学は、幕末の倒幕運動に大きな影響を与えると同時に、明治以降の廃仏毀釈運動や、日清日露戦争、そして第二次世界大戦にまい進する日本の狂気を最高潮にまで高めていく平田後継者たちによる神道系新興宗教の勃興と拡大に大きく貢献していくのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第36回・平田篤胤【中編】「霊能御柱」篤胤の宇宙観・死生観
文化9年(1812年)、平田篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くし、これを契機に篤胤は亡き妻の死後のありかを気にかけ、間違っても師宣長が言うような黄泉の国という暗くて汚く恐ろしいところではなく、死後も自分の身の回りにいて自分を見守ってほしいという気持ちから人の死後の世界、幽冥界のイメージを作り上げ、「霊能御柱」という著書を書き上げた。
これは、篤胤の師である宣長の高弟子・服部中庸が宣長の著「古事記伝」の付録として書かれた宇宙形成論「三大考」をベースとして書かれているものだが、そもそも中庸自身も師宣長の宇宙観を逸脱して、
当時日本に流入した最新の西洋天文学の惑星宇宙の知識が導入されており、もともと一つであった天と地と泉、つまり、天津国と国津国と黄泉の国は、実は分離して太陽・地球・月となっており、
人は死ぬと黄泉の国、つまり月に行くのだという宇宙観・死生観になっていた。
篤胤は、この中庸の「三大考」という10段階の変化図を、人は死後黄泉の国、つまり月には行かず、あくまで人の住む地球上のどこかに魂だけは彷徨い続けるのだと言う幽冥界論を展開して書き換え、その10段階変化を自著「霊能御柱」の中に書き留めた。
自説をベースに書き換えられた服部中庸はそれでも篤胤に対して一定の理解を示したが、故・宣長の門人たちの間ではこうした篤胤による恩師宣長の根本思想、つまり、人は死後黄泉の国へ行くんだという主張を否定され、篤胤に対する反発は強まって行った。
篤胤の宇宙観や死生観は、仏経・儒教・道教陰陽五行、そしてキリスト教からの借用が多々見られるが、実は、これは借用というよりも、こうした宗教諸思想のいいとこ取りの総合作品と言った方が的確にその性質を示していると言える。
しかし、篤胤はそうした借用や盗用を否定し、彼に言わせれば、46億年前に宇宙や神々が誕生した時から神道はあり、仏経や儒教やキリスト教は、そうした皇国日本の神道が誤ってインドや中国や西洋に伝わったものだと主張し、皇国の神道がすべての宗教思想の起源であると居直り強弁するのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第37回・平田篤胤【後編】玉襷と妖神邪鬼と大国主
37歳の時に相思相愛だった妻・織瀬を無くし、亡き妻を偲んで「霊能御柱」を書いた平田篤胤は、41歳になると「霊能御柱」で描いた人の死後大国主の支配する幽冥界へ行くと言う説をさらに進め、それを前提として人はいかに生きるべきかについて詳しく述べるようになる。
篤胤は、人の世を円満に治めて行く上でもっとも大切なものは人の「まごころ」だと言うが、ただ、その「まごころ」とは普通の意味のそれではなく、男女の生殖器のことを指しており、男性の男根と女性の女陰は実は産霊神のタカムスビとカミムスビから与えられたもので、この両神は天地開闢以来八百万の神々を産んで来ただけではなく、人に人を産む力、つまり、「まごころ」=生殖器を人に与えたのだと言う。
しかし、このまごころたる生殖器を持つ男女には穢れから生まれた禍津日神たる妖神邪鬼が悪さをしてそそのかし、人の世の安寧を乱そうとする。だから人は祓戸神に祈ってこの悪神を追い払う必要がある、と篤胤は言う。
人の悪行はたとえそれが意図的なものであろうが意図せぬ結果のものであろうが、結果的に悪行がなされぬよう妖神邪鬼、つまり悪神・禍津日神を祓い伏せる義務があると篤胤は主張する。
そして、こうした生前の人の善神に対する祈り行為は幽冥界主の大国主がちゃんと見ており、多く主は生前だろうが死後だろうがこうした人の行為に対してきちんと賞罰を下すのだと言う。
しかし、よくよく考えてみると、なぜタカムスビやカミムスビという産霊神はこのような悪神・妖神邪鬼なるものを創造してしまったのだろうか?
篤胤に言わせると、それは、創造神がこうした悪神を造ってそれをわざと野放しにしているのは、
人がこうした邪鬼と戦い葛藤することを通じて人のまごころ、つまり人の男女生殖器は磨きがかかりその誕生してくる新たな生命はより輝いてくるからだ、と言う。
また、まごころ=人の男女生殖器論を展開する篤胤は、女がたえず男に対して控え目で男たちを喜ばせる存在であることを「アメノウズメの徳」と呼び、ちょうど古事記の天岩戸の神話でアメノウズメが全裸踊りをしてアマテラスや他の神々を喜ばせたのと同様、この徳はこの世のすべてを円満にするための大切なものだと、現代的視点からすると実に男尊女卑的で男女差別的な思想視点を持っていた。
ただ、問題なのは、こうした町民人情的な価値観の延長線上にあったのは、日本は世界のみならず宇宙の中心である的な妄想的日本中心主義であり、これは明治以降にも篤胤の門人たちに受け継がれ、明治以降の神道系カルトと言われた多くの新興宗教を産み、それが次第に政界や財界や軍部にまで深く浸透し、やがては太平洋戦争での壊滅的敗北という悲惨な運命にまで導いていくのであった。
3分で流す日本思想 平田篤胤『鬼神新論』
前回は幕末の新宗教をご紹介しましたが、今回は江戸時代に再整理された古神道をご紹介します。
平田篤胤の復古神道は、新宗教も含め、幕末以降の神道観に多大な影響を与えました。
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思想:mylist/69237326
文学:mylist/72373795
平田篤胤(1776-1843)
鬼神新論(1805)
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1104010
音楽:おとわび(https://otowabi.com/)
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【神道シリーズ・シーズン3】第14回・平田系神道カルトの系譜(大きな流れ)
平田篤胤の流れを汲む平田学派は、幕末から明治にかけて5つの大きな流れを形成して行ったが、それは、後に国家神道を形成する流れとなる祭政分離論の大国隆正のグループと、篤胤が晩年熱中した道教研究と死後の魂との交流というテーマに繋がる本田親徳の鎮魂帰神法と、道教神仙思想を篤胤の神道用語で解釈しなおした神仙神秘思想と、篤胤が存在すると強弁した神代文字を似非研究した竹内巨麿や、国学の日本語研究の流れを汲む平田門人の中村孝道の水茎文字や真澄の鏡から独自の言霊学を形成した大石凝真素美らから成るが、
神仙神秘思想系の川面凡児は、伊勢神宮を始めとする全国神社の滝打ち禊修行などの新祭祀を開発したが、神仙神秘系は次第に影響力を失い、残りの本田霊学と言霊学と神代文字学の三潮流が古神道と自称するようになり、
明治以降の平田系カルトの中心的勢力となって行った。
この三潮流は、本田霊学を中心として、神道カルト理論を形成し、やがて大本教の下に合流していくこととなった。
平田系神道カルトは、教団によって温度差はあるものの、共通していることは、元祖平田篤胤の、地球形成後に世界を作ったのは日本の神であり、日本人は世界を統一して天皇中心の地球にするべきだという超誇大妄想的な選民思想部分である。
しかし、この日本人選民思想部分は、国粋主義的な軍人や政治家たちを惹きつけ、首相閣僚クラスの政治家や陸軍大臣、海軍大臣、陸海軍大将までが信者になったりシンパになったりするほどの影響力を与えた。
この動きは放置すれば右側の立場よりの革命論や政府転覆論、軍掌握論なども生じかねないということで、政府や公安警察は厳重にこうした団体を監視するようになった。
政府公安警察は、彼らが政府見解と異なる神道解釈をしたことが天皇陛下を侮辱してるとし、不敬罪の名目で
逮捕、弾圧を続け、大正10年(1921年)と昭和10年(1935年)には大本教の宗教施設をすべて破壊する、というほどの弾圧をしたが、大本から派生した友清歓真の神道天行居は陸軍の皇道派に多くの信者を持ち、
その青年将校たちが226事件を起こし、日本はまさに狂気の時代へと突入したのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第22回・宮地水位と宮地神仙道
嘉永5年1852年に土佐の国潮江村(現・高知市土居町)に潮江天満宮の祠官の家に生まれた宮地水位の宮地常盤は、平田篤胤の没後門人で、異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖であった。水位は10歳の頃より父・常盤より脱魂法による異界訪問、つまり、特殊な瞑想法により、自分の意識が、平田篤胤が唱えた幽冥界に飛び、異界を彷徨い、また現実の世界に戻ってくる、という修行を繰り返していた。しかし、その父・常盤は、その霊能力が優れて門人を増やしたことや、当時、山崎闇斎の崎門派と言われた垂加神道が土佐の神職たちの間で中心となっており、垂加神道の儒教的要素を否定する平田国学を信奉する宮地常盤はまわりの神職たちから嫌われた為、潮江天満宮の祠官の職を追われてしまい、当時12歳だった宮地水位が父の祠官の職を継ぐこととなり、幼くして神職としての自覚を促される結果となった。
水位は、神職としてだけではなく、10代前半にして神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞も広め、やがて17歳になると、四国の手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝し、鉱山や薬草の知識に長けていた水位は、途中鉱山を発見したり、仙薬を開発したりしていた。
宮地水位は多数の著作を残しているが、彼の人生のほとんどは潮江天満宮の中での瞑想による異境訪問で費やされており、その異境訪問は、10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回におよぶと言われており、その異境、つまり平田篤胤の言う幽界での体験をまとめたものが「異境忘備録」という彼自身の著作であった。
客観的にはたから見れば、ただ単に神社の中で座って一日中瞑想にふけっているだけのように見えるものの、彼自身の中では何度も何度も頭のイメージの中で繰り返されっる異境幽界訪問であり、その幽界のイメージには一貫性があり、4層に分かれる神界と彼が呼んだ幽冥界の様子が「異境忘備録」には詳細に記述されている。
しかしながら、そこに描かれている神仙界の世界はまさに道教の神仙思想の描く神仙界に酷似しており、自らも土佐の高山手箱山で出会ったと言う推定年齢2300歳の朝鮮国から来た仙人・川丹に導かれた、と主張するが、水位に言わせれば、中国の道教とは、出雲の神の少名彦那が中国で作ったものであり、元は日本の神道であると主張する。
【日本で本当にあった奇妙な話】生まれる前の記憶を語った少年・勝五郎の話が怖い【勝五郎再生記聞】
「日本で本当にあった奇妙な話」では、日本で本当にあった奇妙な現象や人物、事件をとりあげます。今回は、日本の国学者・平田篤胤が取材して真実と認定した「勝五郎再生記聞」に基づく実話、前世の記憶をもつ少年・勝五郎の奇妙な話を紹介します
なお、江戸時代では、勝五郎をはじめとする登場人物の年齢は、現代の満年齢ではなく、数え年(生まれた年に1歳で、年をまたぐと2歳になる年齢の数え方)となっている点にご注意ください
参考文献:
1.平田篤胤、2000年1月「仙境異聞・勝五郎再生記聞」岩波書店
2.「勝五郎生まれ変わり物語」日野市郷土資料館(https://umarekawari.org/)
上記参考文献にない画像は、すべてフリー画像・動画素材から作成されたイメージであり、実在の人物・団体・事件とは無関係ですので、その旨ご了承ください
なお、本動画に登場する特定可能な人物の写真素材は、モデルリリース(肖像権使用同意書)を取得済みのものを使用しております
また、本動画シリーズの制作にあたり、お借りした素材は以下のとおりです
立ち絵:
紲星あかり(im8106524)
結月ゆかり(im8616496)
BGM・効果音:
MusMus(https://musmus.main.jp/)
甘茶の音楽工房(https://amachamusic.chagasi.com/)
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