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【CeVIO実況プレイ】ちぇびおくらふと!Part3【Minecraft】
食品衛生法(しょくひんえいせいほう)とは
飲食によって起こる衛生上の危害の発生を防止し、公衆衛生の向上・増進を目的とする法律。食品および添加物・器具・容器包装・表示・広告・検査・営業などについて規定している。昭和23年(1948)施行。(デジタル大辞泉より)
ささらん…
農業やってたつもりなんですが最終的によく分からない内容になってしまいました。ゆるして。
メンバーは5人なので、2人ずつ出していくと誰か1人は2回出なければならなくなります。今回は乱数でそれを決めたところ六花先輩になったので六花先輩が連投してます。ありがと六花先輩。
Part2→ https://www.nicovideo.jp/watch/sm43641125
Part4→ まだ
使用ソフト
さとうささら(CeVIO AI)
https://cevio.jp/
小春六花(CeVIO AI)
https://tokyo6.tokyo/koharurikka/
立ち絵素材
さとうささら 立ち絵素材 Vol.1(暁ノ湯様)
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im11233953
小春六花立ち絵素材(ユメのオワリ様)
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im11143721
スキン素材
【Minecraft スキン】さとうささら【CeVIO】(野良牛/バファムート様)
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im3111258
赤鼻のトナカイ (詰め合わせ) / 東北きりたん (NEUTRINO)カバー【ボカロクラシカクリスマス祭2023】
メリークリスマス!
今回はきりたんに、皆さまお馴染みのクリスマスソングを歌っていただきました。
原曲は1948年(昭和23年)にアメリカで生まれた童謡、
「Rudolph the Red-nosed Reindeer」です。
日本では新田宣夫さんが訳詞したバージョンがメジャーかと思いますが、
実は他にも数多くの訳詞が存在します。
その中から三田恭次さん、山本ただしさん、水島哲さんの訳詞を
歌っていただきました。
(但し伴奏アレンジは、各原曲とは異なります)
全部で8分ほどありますが、気長に聞いていただければ幸いです。
皆様はいくつ聴いたことがあるでしょうか?
NEUTRINOは現在FANBOXにて先行公開されている、
「NEUTRINO Diffusion - Muon v2.4.1-beta」を使用しています。
「ボカロクラシカクリスマス祭2023」参加作品です。
◇お借りした作品
・東北きりたん立ち絵:夜刀 様 / im10273157
・雪降る背景1:華音3R 様 / nc186298
・サンタクロース:フリー素材あそび 様 / nc258629
うた:東北きりたん(NEUTRINO・VOICEPEAK)
前曲 sm43172580 | 次曲 sm43179962
他に歌っていただいた曲集 mylist/62951887 mylist/74426245
伴奏打ち込み曲集 mylist/72828829
修正版 予防接種救済制度 死亡一時金の同一生計に限るは、法律ではなく、政令です。
○予防接種法
(昭和二十三年六月三十日)
(法律第六十八号)
第十六条
四 死亡一時金 予防接種を受けたことにより死亡した者の政令で定める遺族
□これは法律です。
政令で定めてあるとしか書かれていません。
予防接種法施行令(昭和二十三年政令第百九十七号)
第十七条 法第十六条第一項第四号の政令で定める遺族は、配偶者(届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった者を含む。以下同じ。)、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹とする。ただし、配偶者以外の者にあっては、予防接種を受けたことにより死亡した者の死亡の当時その者と生計を同じくしていた者に限る。
□これは政令です。
ここで条件を示しています。
この政令は、昭和23年に作られたもので、70年前の政令です。
時代背景を考えず、70年このままにしていたことが、政府の怠慢です。
時代背景に合わせて、改正が必要です。
予防接種救済制度 死亡一時金の同一生計に限るは、法律ではなく、政令です。
○予防接種法
(昭和二十三年六月三十日)
(法律第六十八号)
四 死亡一時金 予防接種を受けたことにより死亡した者の政令で定める遺族
□これは法律です。
政令で定めてあるとしか書かれていません。
予防接種法施行令(昭和二十三年政令第百九十七号)
第十七条 法第十六条第一項第四号の政令で定める遺族は、配偶者(届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった者を含む。以下同じ。)、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹とする。ただし、配偶者以外の者にあっては、予防接種を受けたことにより死亡した者の死亡の当時その者と生計を同じくしていた者に限る。
□これは政令です。
ここで条件を示しています。
この政令は、昭和23年に作られたもので、70年前の政令です。
時代背景を考えず、70年このままにしていたことが、政府の怠慢です。
時代背景に合わせて、改正が必要です。
象印ポット【Capsule toy】ZOJIRUSHI Miniature Figure Vol.2 全5種コンプリート
昭和レトロミニチュア流行中なんですねぇ。
※時代も“昭和初期”に回帰していますもんね。
現在実製品が復刻販売中3種類
*フローラ
*花化粧
*ワインフラワー
1970年発売の廃盤製品をミニチュア
*花雲
*カトレア
Product/J.DREAM
Price/400yen
#CapsuleToy #ミニチュア #象印
炊飯ジャーと夏場の水分補給に水筒が好評だそうです。
象印マホービン株式会社
創業 1918年(大正7年)5月10日牡牛座
設立 1948年(昭和23年)12月29日山羊座
NHK-FM 伊集院光の百年ラヂオ 2023年10月22日
日本を元気にするためのラジオ番組 産業の夕
初回放送日: 2023年10月22日
今回は、戦後日本の経済復興のために始まった
【産業の夕】をお送りします。唯一残されて
いる貴重な音源です!
▽寸劇あり、現場取材あり、対談あり!
昭和23年、自転車事業特集!?
▽いきなり難問!高級工芸品は輸出貿易に
なぜ大切か
▽自転車から見える、戦前から現代までの
経済変遷
▼ご意見・ご感想は番組ホームページから
お送りください!
出演:伊集院光、礒野佑子
カラー撮影された昭和23年(1948年)の東京
YouTubeからの転載
Tokyo in 1948 オリエンタルホテル皇居新橋
https://www.youtube.com/watch?v=XlXmPnavEAk
1948年にアメリカの陸軍将校が8ミリカラーで撮影した東京の姿。
今年11月3日公開の超大作怪獣映画の時代設定(エキストラ募集要項は1945~47年)より少しあと。
東京の都市部とはいえ、戦後を扱った数多の作品で見られた殺伐・混沌としたイメージとは違い、街並みは非常に洗練され整然としている。カメラを前に日常然としている市民の姿も印象的。
木原くにや、ワクチンは効かないと思ってます。昭和21年イギリス中止、昭和23年日本はワクチン義務になった 昭和51年強制から努力義務になった。
ワクチン死、ワクチン後遺症裁判始まってます。
引用
当基金のホームページにお越しいただきありがとうございます。代表の木原でございます。
私は、平成25年から積極的勧奨が開始した子宮頸がんワクチンの頃からワクチン薬害問題に取り組み、さらに令和2年から接種が開始した武漢ウイルス(新型コロナウイルス)ワクチンについては、その接種中止を求めて国を相手取って「反ワクチン訴訟(武漢ウイルスワクチン特例承認取消等請求訴訟)」を提起するなどして、ワクチン禍の拡大を食い止めるべく活動してまいりました。
しかし、国のなりふり構わぬワクチン推進行政を阻止するまでには至らず、ワクチン接種後の死亡及び後遺症例が全国的に拡大した結果、遺族及び被害者の悲痛な声が後を絶ちません。
それにもかかわらず、これまでに国が救済制度を適用した例はわずかですし、死亡例のうち解剖検査をした例も2%程度にとどまっています。
換言すれば、薬害被害者の救済に極めて消極的な国の姿勢は明確であるといわざるを得ません。
さらに、薬害訴訟を提起すると吹聴して遺族を集め、多額の寄付まで集めながら、一向に提訴する動きを見せない団体もあり、こうした団体の動きは遺族をさらに困惑させ、あたかも二次被害の様相を呈していることは誠に嘆かわしいといわざるを得ません。
当基金は、令和5年5月23日に福岡地方裁判所小倉支部に提訴した薬害訴訟を皮切りに、死亡及び後遺症の救済に取り組むべく立ち上げました。
その目的は、反ワクチン訴訟に引き続いて当職が主任代理人として薬害訴訟を提起する際の、遺族又は被害者の費用負担の軽減を図るとともに、遺族又は被害者が本人訴訟を提起する際の実務的サポートを行うためです。
お一人でも多く遺族及び被害者が救済を受けられるよう、そして、薬害を散々拡大させてきた国のワクチン推進行政に掣肘を与えられるよう粉骨砕身の努力をしてまいりますので、格別のご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
令和5年5月吉日
ワクチン薬害救済基金
代表 木原 功仁哉
福井地震の被害映像「福井大震災」 1948(昭和23年)
AIでカラー化・高画質化しました。
Wikipediaより
福井地震は、1948年(昭和23年)6月28日午後4時13分頃に福井県嶺北地方北部(福井市の北北東約10 km、現在の坂井市丸岡町付近)を震源として発生。
1945年(昭和20年)7月の戦災(福井空襲)からの復興途上にあった福井市を直撃した都市直下型地震である。福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし、隣の石川県内の被害も合わせると、死者は3,769人、負傷者は2万2000人以上、全壊した家屋はおよそ3万6000戸に上った。
酔いどれ拓也
『醉いどれ拓也』は、1948年(昭和23年)4月27日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督はKRSWAKR、主演はSMRKN・MFNTSRU。モノクロ、スタンダード、98分。
闇市を支配する若いやくざと、貧乏な酔いどれ中年医者とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズム溢れる力作。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第51回・岡本天明と日月神示【後編】
岡本天明は、22歳から48歳までの26年間を大本で過ごし、45歳の時に千葉の印旛沼の麻賀多神社で初めての自動書記を行ってから49歳にして初めて自らの教団「ひかり教会」を立ち上げた。65歳まで生きた天明が自らの教団を主宰したのは16年間で、この間、昭和23年と昭和26年を除いた昭和19年から昭和27年までの延べ7年間と昭和33年と昭和34年に補巻1巻、さらにその2年後の8巻を含めた全42巻の「日月神示」が自動書記で綴られた。そこで語られた事は、終戦の1年前になされた日本敗戦の予言と、さらに戦後の日本の輝かしい奇蹟の復興が予言されており、さらには、いずれ世界中に地球規模の自然災害が起こり、さらにはそのあとで欧米やソ連がこぞって日本に攻めてきて日本は大混乱に陥ると予言している。天明は、世の立替えはこれまでに6回あったと言い、今度の7度目の立替えこそが最後の大建替えとなり、ミロクの世はそのあとに迫っていると言った。ただ、その最後の建直しである7度目の建直しの時に絶対に武力で敵に勝とうとしてはならない、あくまで相手を諭していけるだけの身魂磨きに励むことこそ日本人が務めるべき事だと主張する。これはまさに出口王仁三郎の霊界物語における身魂磨き、言向け和しの重要性の限りなく続く強調を彷彿させるものだが、天明は、今度の7度目の建直しの時には、現界のみならず天界・霊界・幽界・限界を通じて起こる大峠、つまり大天変地異であり、邪霊・邪神・悪神と正しい神・正神との戦いはこの4界を通じてこれまでにない熾烈なものになると予言した。天明はその前兆として富士山の大爆発を予言したが、これはまだ今日に至るまでその予言は実現していない。信者の中には神戸大震災や東北大震災を日月神示で予言してる自然大災害と解釈する人たちもいるが、富士山の大爆発については予兆さえもいまだに見えてない。晩年の天明はひたすら俳画やクレパス画など自ら得意とする絵画活動に没頭し、昭和34年には、東京、大阪、ニューヨークで相次ぎ自作の展覧会を開いた。天明の日月神示は、出口王仁三郎の霊界物語の続編と解釈する信者たちもいるが、第二次大本弾圧事件後、出口王仁三郎が保釈仮釈放になっていた昭和17年、亀岡の中矢田農園を二度訪ねた天明は王仁三郎に面会を拒否されたが、その理由はいまだに不明のままである。
【神道シリーズ・シーズン3】第49回・植芝盛平の生涯【後編】
第一次大本弾圧事件を難なく逃れた植芝盛平は、1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎が仮出獄の身でありながらも、満蒙の地に宗教国家の建設を目指して満州に渡り、盛平もそれに随伴することとなった。張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒されることになり、張作霖軍からの銃撃にも合うが、その時は盛平は敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をした。このパインタラ事件と呼ばれる事件で、盛平を含む王仁三郎一行は九死に一生を得る体験をするが、無事帰国した後は、王仁三郎は霊界物語の著述に精を出し、植芝盛平は、その霊界物語に影響を受けながら柔術の研鑽と弟子の指導に専念した。
しかし、満州で経験した「光のツブテ」は、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験とともに起こり、これが気の妙用という武術極意に達することとなる、盛平は、これを黄金体体験と呼び、自らの合気道を創設するための大きな開眼となったのである。
その後、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)より東京へ移住することとなり、同時に柔術師匠の武田惣角から次第に距離を置くようになった。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
その後、国情は日中戦争、太平洋戦争と日本が深く大戦にのめり込んで行く中、陸海軍の幹部軍人を始め、軍人を中心とした合気道の訓練の師範として次々と要請があり、盛平はそうした軍人らの稽古、訓練に多忙な日々を過ごして行った。
太平洋戦争終戦の1945年(昭和20年)東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、62歳になった盛平のところには、道場への避難民収容や復員した弟子たちが集まり、岩間の道場と東京の本部道場の復興に努め、どちらも復興を果たし、ここに東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まった。
1948年(昭和23年)2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受け、この時はじめて正式に「合気道」を名乗るようになり、盛平は初代合気道「道主」となった。
【訃報】アニソン歌手の水木一郎さん死去 「マジンガーZ」の主題歌
ご冥福をお祈り申し上げます。
アニメ「マジンガーZ」の主題歌などを歌い、「アニメソングの帝王」として活躍した歌手の水木一郎さんが6日、肺がんのため死去した。74歳。東京都出身。
弊社所属の歌手・水木一郎が令和4年12月6日 午後6時50分、肺がんのため永眠いたしました。
ここにみなさまからの生前のご厚誼に深謝し、心から哀悼の意を表しますとともに、謹んでご報告申し上げます。
昭和23年1月7日生まれ 享年74
昨年4月末に肺がんが発覚し、入退院を繰り返しながら放射線治療や薬物療法を行い、1年7か月あまり闘病生活を続けておりましたが、去る12月6日に救急搬送先の病院にて息を引き取りました。
脳転移、リンパ節転移、髄膜播種を伴う厳しい病状ではありましたが、「生涯現役」を目標に、治療とリハビリに励み、活動を続けてきました。
思うようなパフォーマンスができなくなってもその強い意志は変わらず、最後のステージとなった11月27日のライブでも満面の笑みを浮かべておりました。
これまで支えてくださったみなさまに厚く御礼申し上げます。
通夜並びに葬儀につきましては、ご遺族の意向により近親者のみにて執り行われました。
ご遺族の心中をお察しいただき、ご弔問、お香典、ご供花などはご遠慮くださいますようお願い申し上げます。
なお、お別れの会などにつきましては、ご遺族と相談のうえ、後日執り行う予定です。
令和4年12月12日
(株)イエローバード
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)王仁三郎の死と戦後の大本
昭和25年1945年8月15日の日本の敗戦以降、10月17日には第二審まで有罪になっていた王仁三郎ら大本幹部たちは敗戦による大赦令で二審の有罪判決がすべて無効になり、翌年からは愛善苑という名称でどこの教団の傘下ではない完全独立した宗教法人として教団活動を再開することとなった。
しかし、戦後の大本の再開は、実は再開と言うよりも新生と言った方が相応しいほどの一大方針転換であった。
戦前に大本の昭和神聖会が掲げた皇道大本主義や弥勒革命論は完全に放棄し、一方で大正時代より根付いていた
万教同根主義に基づく世界宗教連合運動や、陶芸、短歌、詠歌、書道などの芸術創作活動に重点を置き、戦前とは打って変わり、世直しのような政治活動とは完全に距離を置いた新しい宗教活動が開始された。
王仁三郎は「芸術は宗教の母である」とし、大正時代より学んでいた楽焼という、ろくろを使わず、内窯と言われる小さな窯を使った陶器制作に精を出し、京都から持ち込んだ10-15年分の陶芸材料を1年で使い果たしてしまうほど楽焼茶碗の作品作りに熱中した。
王仁三郎の作品は専門家から高く評価され、陶原評論家の加藤義一郎氏に「耀盌」と命名され、その後、国内外から高い芸術的価値を認められた。
しかし、王仁三郎は、1946年(昭和21年)8月、脳溢血で倒れ、2年後の1948年(昭和23年)1月19日には遂に帰らぬ人となり76年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
その後、大本は王仁三郎の反戦平和人類宗教平等主義を引き継ぎ、戦後の着実な発展を続けたが、1980年代になると教祖の継承問題をめぐって三つの教団に分裂することとなる。
第3代教主の直日の第4子で長男の京太郎が二代目王仁三郎を襲名する意思を明らかにすると、王仁三郎の3女の八重野の息子・和明(やすあき)と直日の長女で教祖後継者であった直美の夫の栄二が強く反発し、教祖直日のナンバー2の京太郎は栄二と和明の役職を解任した上で両者を教団から追放し、教祖継承者には直美が外され、直日の3女の聖子(きよこ)に変更された。
追放された和明と栄二はそれぞれに大本本部を相手に地位確認の訴訟を起こすが、この裁判は10年に渡って争われた後、栄二と和明はともに訴訟を取り下げた上で、それぞれ愛善苑と大本信徒連合会という別教団を立ち上げ、大本主流と袂を分かつこととなった。
現在の大本は戦前の最盛期の勢いには遠く及ばないものの、平田神道系カルトからは決別し、出口なおの時代の万教同根主義と反戦人類平等主義が貫かれることになったのである。
マイルド手作り・カツカレーライス【飯テロ】
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・マイルド手作り・カツカレーライス【飯テロ】
カツカレーとは、カレーライスと豚カツを組み合わせた日本のカレー料理。
カレーライスにトッピングをした初期の例である。
豚カツではなく、牛カツ、チキンカツ、メンチカツ、ハムカツなどなどが用いられる場合もある。
イギリスでは日本のカレー全般を指して「カツカレー」と表現することがある。
歴史
東京都中央区銀座の洋食店「銀座スイス」で1948年(昭和23年)に考案されたと言われている。
同店近くの紳士服店「銀座テーラー」で野球ユニフォームを仕立てた読売ジャイアンツ選手が
紹介されて銀座スイスで食事をすることが多く、千葉茂もその一人だった。
ある対タイガース戦の直前、カウンター席で厨房を見ていた千葉が「そのカレーにカツレツを一緒にして出してくれ」と注文し、
店側は驚いたものの応じたことがきっかけとなった。当初は特別メニュー扱いで、
銀行員初任給3000円の時代に「カツレツ カレー」は180円だった。
カツレツは「試合に勝つ」の験(ゲン)担ぎに通じることもあってその後も千葉は時に2皿食べるほど注文し続け、
千葉の誘いで青田昇、別所毅彦といったチームメイトも注文するようになり、知名度が高まった。
グリルスイスとその系列店では現在も「元祖カツカレー」と「千葉さんのカツレツカレー」というメニューを出している。
⏬LINEスタンプ:ラブリーバレンタイン メイドエフェクト
https://line.me/S/sticker/17069680
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「ラブリーハロウィン~Trick or Treat~ラブリーハロウィンリアル ver2」
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40850796
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是非是非、いいね・フォローの程、何卒よろしくお願いいたしますー。
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voice by:VOICEVOX,四国めたん,HP:https://voicevox.hiroshiba.jp,
朧月夜 銀咲大和&ハルオロイドミナミ
作詞高野辰之
作曲岡野貞一
1914年(大正3年)
『尋常小学唱歌 第六学年用』に初出。
1948年(昭和23年)からは
小学校6年生の音楽教科書に採用され、
平成以降も取り上げられています。
オヤジふたりでハモらせてみました
香澄&OИE版より重唱がこってりしてますが(笑)
朧月夜の舞台はたぶん信州かなあ・・作者故郷の。
NME@実在ボイチェビ推進委員 さん
shinten さん
ジョニー さん
ροкο さん
25zant さん
sasaralab さん
広告いつもすみません。感謝です
AIきりたん「高知市歌」(初代)
戦前の「高知市歌」です。
本歌は高知市のサイトやWikipediaにも載っていないもので、詳しい制定過程や制定時期、作詞者は不明です。
昭和14年(1939)年版の「高知市勢要覧」から掲載され始めますので、その頃に作られたものとみられますが、国家総動員体制が完成していく中で愛郷心を高めるため制定されたのでしょうか。
(追記:昭和14年は高知市制50周年の年でしたので、記念事業として制定された可能性が高そうです。)
以降、昭和19年版の要覧まで掲載が続きますが、昭和23年(1948)3月には現行の2代目「高知市歌」が制定されていることから、本歌は終戦と共にその役割を終えたと思われます。
国会図書館デジタルコレクション「高知市勢要覧 昭和14年版」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451930/1
本歌の情報をご存じの方はぜひコメントお願いいたします。
きりたんの昭和回顧録【昭和23年】
ようこそ! 昭和回顧録へ!
昭和23年、来てます!
前回は色々と幸運が重なったのか、初めて10000再生を越えてしまいました。正直びっくりです。
とても嬉しい反面、しっかりしたものを作っていかないとなぁと、改めて思う日々でした。
では、ごゆっくりとお楽しみください!
あ、ちなみに李香蘭の回はこちら! → sm39244935
sm39709008 ← 前 次 → sm39865397
回顧目録 → mylist/70366107
YouTube版 → https://youtu.be/d8aQfNbBgUM
シリーズ一話マイリスト → mylist/69322831
試作品マイリスト → mylist/69322827
更新情報とか質問とかツイッター → https://twitter.com/suzakatsuki
~お借りしたもの~
キャスト:東北きりたん、琴葉茜、琴葉葵
立ち絵:blueberry様(SD東北きりたん他)、りんどう様(ボイロミニキャラ後ろ姿素材)
背景:Pixabay様
小物類:写真AC様
イラストAC様
いらすとや様
パブリックドメインQ様
ウマ娘様 https://umamusume.jp/
BGM:こんとどぅふぇ HiLi様
OP ほいっぷ!インストゥルメンタル
BGM お昼寝まくら、烏丸の地、メルヘンぼうけんたい、おほしさまとなみだ、あたふたあたふた、ボクの旅立ち、ひとりぼっちの妖精-キミ-、シーサイド・クッキー、目が覚めた
効果音:魔王魂様
On-Jin ~音人~様
※リンク情報などは、マイリストの説明欄にて補足しています。
AIきりたん・ずん子・イタコ「新潟県民歌」(昭和23年)
昭和23年(1948)に制定された「新潟県民歌」です。
歌詞は公募により福岡県在住の高下玉衛さんのものが選ばれました。
しかし近年、玉衛さんの親戚にあたる渋田喜久雄さんが本当の作詞者であり、玉衛さんの名義を借りて応募したことが新潟日報の取材により明らかとなりました。
渋田さんは他にもペンネームを使い分けており、wikipediaでは新居浜市歌、町田市歌、倉敷市歌、敦賀市歌、塩竈市民歌の真の作詞者とされますが、まだ未知の作品があるかもしれませんね。
中国の教科書に書かれている南京大虐殺
向井少尉は手足に重傷を負っていて、前線で中国兵を殺したり捕虜を並べて斬り殺すことなど出来る状態ではありませんでしたが、昭和22年11月、南京軍事裁判所で即日死刑が言い渡され、昭和23年1月、銃殺されています。
向井少尉の遺書
「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八洲に帰ります。わが死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」
日本人と中国人が向井少尉と野田少尉の遺書を知ることができますように。
参考資料:教科書から見る対日認識 ―中国と台湾の教科書の比較― 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 王雪萍氏 http://www.wang-xueping.com/master.pdf
琴葉葵による郵便規則(昭和22年逓信省令第34号)【A.I.VOICE朗読】
初投稿です。
投稿者は郵趣資料とするため昭和23年1月1日から平成15年3月31日までの郵便規則をテキストデータ化する取り組みを行っております。本品はその校正作業の一環として制作しました。
制作にあたっては細心の注意を払っておりますが如何せん長文(およそ18,000字)でありますのでその内容の正確性については保証いたしかねます。お気づきの点等ございましたらコメントいただけれますと幸甚です。よろしくお願いいたします。
テキストデータが必要な方:
https://endrail.sakura.ne.jp/philately/laws/mo/1947/moc034/mo1947moc034.html
なお、解像度640x360で制作しているため固定画面(小)での再生が最適と思います。
目次
#02:18 - 第一章 総則
#03:31 - 第二章 郵便物
#30:33 - 第三章 郵便に関する料金の納付及び還付
#40:08 - 第四章 郵便物の取扱
#52:17 - 第五章 郵便物の特殊取扱
#65:24 - 第六章 損害賠償
#68:00 - 附則
【2021-10-02追記】
図書館で官報DB使って調べていたら昭和23年3月2日付官報本号第6336号に正誤の掲載がありました。もう気が狂う程の訂正の量で卒倒寸前であります。再走はすみません許してください。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962867/7
流れ星【巡音ルカ】
作詞:島崎藤村 若菜集より「流星」 (明治30年頃)
作曲:ゆめみ~あい別館
歌唱:巡音ルカV4X (Soft)
演奏:Pianoteq 7 - Steinway Model B
昭和23年2月、女学生の清子さんがクラス替えの記念として作った寄せ書きノートに、クラスメートの一人が綴った詩文を、ピアノ伴奏つきのボーカロイド・ソングにしました。
ノートに書いた女学生については不詳ですが、詩はオリジナルではなく島崎藤村の「若菜集」に収録された「流星」からの引用です。 ただし「流星」が「流れ星」だったりと、ノートの詩はオリジナルと若干違った箇所があるため、動画ではノートに書かれた詩文の方を採用して歌詞にしています。
【ゆっくり解説】生駒トンネルを抜けたらブレーキ故障・・・ノンストップ地獄列車『近鉄奈良線列車暴走追突事故(花園事故、生駒トンネルノーブレーキ事故)』
1948年(昭和23年)3月31日に発生した近鉄奈良線列車暴走追突事故を取り上げてみました。衝突が起こった地点から花園事故、事故の原因となったブレーキ故障から生駒トンネルノーブレーキ事故とも呼ばれます。
とんぼのめがね 【さとうささら×2(ちなちゃんとせんぱぁい)】
とんぼのめがね
額賀誠志作詞
平井康三郎作曲
福島県楢葉郡広野村(現・双葉郡広野町)在住の医師であった額賀が、
1948年(昭和23年)に広野村の上浅見川箒平へ往診に出かけた際に見かけた、
子ども達がとんぼと遊んでいる情景を歌詞にしたもの。
オリオンPさんよりMMDモデル御下賜の
NGせんぱぁいとちなちゃんですが
最近はデュオで童謡とか歌わせると妙に合う気も。
=のすじいさんといっしょ=のうたのおにいさんとおねえさんww
もう、とんぼも見なくなりましたね・・冬が足早にやってきます。
霧雨さん
tossy(ミクがうちに来てP) さん
ροкο さん
Mimi さん
ジョニー さん
sasaralab さん
ゆずごしょう さん
SSR さん
いつも広告有難うございます
※マイリスト・・mylist/59021058 のすじいの童謡・唱歌
【AIきりたん】アカシヤの花(昭和23年)【NEUTRINOカバー】
前回の「鉾をおさめて」から続いて昭和歌謡です。
佳い曲に好い声!
「鉾をおさめて」→https://www.nicovideo.jp/watch/sm36750437
・NEUTRINO https://n3utrino.work/
うぽつ等コメントありがとうございます、とても励みになります!
>声質の設定は0.98(少し大人っぽい)でした。きりたんの可能性は無限大なのです!
>きりたん歌上手ですよね、調整しなくても綺麗に歌ってくれます。(少しは調整しましたが。)
寧ろ少し音程を外すことで人間っぽくなりますが、悩みどころです。
昭和天皇 戦争回顧 メモ見つかる 具体的記述も
2019年8月19日 0:1
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、11歳の時に軍に任官した昭和天皇がみずからのつらい経験から、皇太子だった上皇さまの軍への任官を遅らせたことなどが記されています。専門家は「青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、昭和天皇が当時、東宮(とうぐう)、皇太子だった上皇さまを「東宮ちゃん」と呼び、気にかける様子がたびたび記されています。
昭和天皇 「拝謁記」親心うかがえる記述も
2019年8月19日 0:11
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、11歳の時に軍に任官した昭和天皇がみずからのつらい経験から、皇太子だった上皇さまの軍への任官を遅らせたことなどが記されています。専門家は「青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、昭和天皇が当時、東宮(とうぐう)、皇太子だった上皇さまを「東宮ちゃん」と呼び、気にかける様子がたびたび記されています。
昭和天皇 拝謁記 歴代首相の人物評繰り返す
2019年8月19日 2:04
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、当時の吉田茂総理大臣について「吉田ハカンで動く人間ハ六ヶ(むつか)しいね」と述べるなど、昭和天皇から見た歴代総理大臣の人物評が頻繁に記されています。
「拝謁記」を記していたのは民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には戦前から戦後にかけて、昭和天皇が接してきた歴代の総理大臣の人物評が頻繁に登場します。
近衛文麿と東條英機
特によく出てくるのが、日中戦争開戦や御前会議で対米戦争の方針を実質的に決めた際、総理大臣を務めていた近衛文麿と、その後任で、太平洋戦争開戦時の総理大臣として戦後、A級戦犯として処刑された東條英機です。
昭和27年5月28日の拝謁では、昭和天皇は自らは事務的な人間であり、同じように事務的な人間と相性がよかったとしたうえで、近衛と東條を比較し、「近衛はよく話すけれどもあてニならず、いつの間ニか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸(ちょっと)変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直(じ)きにその考へも変る。政事家(せいじか)的といふのか知らんが事務的ではない。東條ハ之ニ反して事務的であつたそして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた」と語ったと記され、別の機会には、「近衛と東条との両長所が一人ニなればと思ふ」などと述べたと記されています。
昭和天皇 拝謁記 旧軍否定も再軍備や憲法改正に言及
2019年8月18日 5:36
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」に、独立回復後の安全保障が現実的な課題となる中で、昭和天皇が戦前のような軍隊を否定しつつも、再軍備やそれに伴う憲法改正の必要性にたびたび言及し、総理大臣に伝えないよう長官にいさめられる様子が記されていました。分析にあたった専門家は「昭和天皇が改憲や再軍備に言及していたことは新たな発見だが、自衛隊的なものを作ることを憲法上認めるというものであり戦前の軍隊を再現する気が全くないということは押さえておかなければならない」としています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、東西冷戦が激しさを増す中で、ソ連の侵略を現実的な脅威と認識し、危機感を募らせる昭和天皇の様子が記録されていて、サンフランシスコ平和条約の調印から5か月が経過した昭和27年2月11日に、昭和天皇が田島長官に対して、「私は憲法改正ニ便乗して外(ほか)のいろ/\(いろ)の事が出ると思つて否定的ニ考へてたが今となつては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいヽ様ニ思ふ」と再軍備と憲法改正の必要性について言及したと記されています。
昭和天皇は、その一方で、戦前の軍隊や軍閥の復活はかたくなに拒む姿勢を示していて、日本が独立を回復した直後の昭和27年5月8日の拝謁では、「私は再軍備によつて旧軍閥式の再抬頭(たいとう)は絶対にいやだが去りとて侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」と語ったと記されています。
「拝謁記」には昭和天皇がこうした再軍備や憲法改正についての考えを、当時の吉田茂総理大臣に直接伝えようとして、田島長官がいさめる様子が記されています。
昭和27年3月11日の拝謁では、昭和天皇が「警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、病気がある以上は医者ハ必要だし、乱暴者がある以上警察も必要だ。侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得已(やむをえず)必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」と述べたのに対し、田島長官は「その通りでありまするが憲法の手前そんな事ハいへませぬし最近の戦争で日本が侵略者といはれた計(ばか)りの事ではあり、それは禁句であります」と苦言を呈したと記されています。
昭和天皇 拝謁記 国民の目を気にする姿も克明に
2019年8月18日 0:34
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目や国民との距離を気にして、自らの暮らしぶりが贅沢(ぜいたく)に見えないかや、皇室についての報道に神経をとがらせる姿が記されています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余りのべ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
田島長官が仕えた時期は、昭和天皇が象徴として歩み始めた一方、退位の問題もくすぶっていて、「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目を気にする様子がたびたび記されています。
終戦から4年がたった昭和24年8月30日の拝謁では、住まいとして使い続けていた防空施設の「御文庫(おぶんこ)」の増築が話題に上ると、昭和天皇は、「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘(あま)リ皆ワルク思ツテナイ様デ一部ニハ退位希望者アルモ大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハツマラヌト思フ」と述べたと記されています。
さらに、昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論などを唱へる人達、生活ニ困つた人特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されています。
これに対し田島長官が「退位其他の事を云々(うんぬん)する人ハ葉山へ御出掛などをそう八釜(やかま)しく申しハ致しませぬし、大切な御位置の方の御健康上御よろしい事ハ結構な事であります故よろしいと存じまして」と述べると、昭和天皇は「そんならそれでよろしい」と述べ安心した様子を見せたと記されています。
一方、皇室についての新聞報道に神経をとがらせる様子も記されていました。
昭和28年11月4日の拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。これに対し田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。
昭和天皇 拝謁記 国民の目を気にする姿も克明に
2019年8月18日 0:34
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目や国民との距離を気にして、自らの暮らしぶりが贅沢(ぜいたく)に見えないかや、皇室についての報道に神経をとがらせる姿が記されています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余りのべ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
田島長官が仕えた時期は、昭和天皇が象徴として歩み始めた一方、退位の問題もくすぶっていて、「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目を気にする様子がたびたび記されています。
終戦から4年がたった昭和24年8月30日の拝謁では、住まいとして使い続けていた防空施設の「御文庫(おぶんこ)」の増築が話題に上ると、昭和天皇は、「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘(あま)リ皆ワルク思ツテナイ様デ一部ニハ退位希望者アルモ大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハツマラヌト思フ」と述べたと記されています。
さらに、昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論などを唱へる人達、生活ニ困つた人特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されています。
これに対し田島長官が「退位其他の事を云々(うんぬん)する人ハ葉山へ御出掛などをそう八釜(やかま)しく申しハ致しませぬし、大切な御位置の方の御健康上御よろしい事ハ結構な事であります故よろしいと存じまして」と述べると、昭和天皇は「そんならそれでよろしい」と述べ安心した様子を見せたと記されています。
一方、皇室についての新聞報道に神経をとがらせる様子も記されていました。
昭和28年11月4日の拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。これに対し田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。