声VOICEVOX:雀松朱司VOICEVOX:春歌ナナタイトルは比喩〇リアルな十歳の少女に関する私見私が今の年齢の半分も生きていなかった頃同級生の少女達は程度の差こそあれ皆生意気だった。感じたことをそのまま口にし、それが失言だったと気づく頃には相手から罵声を浴びるなりビンタを食らうなりして殴り合いの大喧嘩になる。それを仲裁したり手に負えない場合は教師を呼んだりする経験を重ね、私達は言葉に対する慎重さを身に着け、想像力を養う。それに対してフィクションの少女達はどうだろうか。生意気だろうか。失言するだろうか。殴り合うだろうか。喧嘩の後に和解はあるだろうか。もちろん問いに対する答えは作品ごとに異なる。が、彼女達の振る舞いやそのニュアンスが現実の少女達のそれらと合致していることはめったにない。わかりやすい(露骨な)例を挙げるなら、「メスガキ」は大人のコンプレックスを知り過ぎている。もしもあのような少女達が現実にいるなら、国語のテストで偏差値70を超えることも容易いだろう。他のジャンルの作品においても子供は未熟さや目に見える成長といったテーマを語るために使われたり、年長者達の緊張した関係を解きほぐす和み役を務めることが多い。幼さと性的魅力を両立し、受け手の注意を作品に集めるよう創作者に意図されたキャラクターもいるだろう。創作者から知識や趣味、ユーモアを譲り受け、従順な性格と愛玩される容姿を授けられた少女達はもはや別の生き物である。再び現実に話を戻そう。私達はここで失言乱造マシーンと向き合わねばならない。例えばそれは、お気に入りの花瓶を児童に割られて泣きながら説教している担任に板書の間違いを指摘する空気の読めない少女であったり、小テストの度にカンニングをして隣の席の男子を泣かせたのに「どうして見せてくれないの」と純粋な疑問を口にする少女であったり、隣の席の男子が楽しそうだという理由で彼の手首に鉛筆を刺す少女であったりするわけだ。最後の例が示しているように、子供は大人よりも暴力と関わりが深い。いつ何時同級生の怒気や狂気が花咲くかわからないし、家庭環境については言わずもがなだ。自分の居場所を自由に選べない分だけ理不尽な目に合う可能性がある。そして溜め込んだ不満を発散しようとして誰かを理不尽な目に合わせる可能性もある。私はこういう当たり前の事実をもとに今回の動画を作った。動画中の少女は「春歌ナナ」とは一切関係がない。彼女のプロフィールに十歳と見つけ、自らの記憶の中の同年齢の少女達とのギャップに笑ってしまったくらいだ。