武蔵坊弁慶の立ち往生、源義経、平泉に散る

武蔵坊弁慶の立ち往生、源義経、平泉に散る

西暦1,189年6月15日藤原泰衡が、藤原秀衡の遺言を破り、藤原基成の居館衣川館を襲撃する。以下4名を含む十数騎が応戦した。①武蔵坊弁慶②第11代藤白鈴木氏当主鈴木重家③源頼朝の乳母の息子で鈴木の弟の亀井重清④備前房成武蔵坊は、源義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘するが、矢の雨を受け、立った儘絶命した。鈴木は照井高治に「お主は誰か」と尋ねると、照井は「身内の侍の照井高治だ」と答えた。鈴木は「お主の主人である藤原秀衡の祖父藤原清衡は後三年の役のあった西暦1,083年に源氏の郎党となったと聞くが、清衡・藤原基衡・秀衡・泰衡、ならば義経は、5代の相伝であり、お主はその郎党ではないか。私も重代の郎党であるぞ。ならば私が相手する敵ではない。とは言えども、弓矢取る武士の身であれば遭ったが敵、おかしなものよ、泰衡の味方をする者は恥ずかしい事ぞ。況してや敵に背を見せて逃げるとはなんという事か。卑怯者め、止まらぬか」という主旨の発言をした為、照井は戻って来て鈴木と組み、鈴木は照井の右肩を斬り付け、鈴木はその後、左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し、数名に手傷を負わせた所で自分も深傷を受け「重清よ、犬死にするな。私はこれまでだ」と言い腹を掻き切って自害した。亀井も「紀伊国鈴木(現在の和歌山県新宮市)を鈴木重家と共に出た日から、命を義経に預けたのだ。今思いもしなかった事だが重家と一所で死ぬことを嬉しく思う。死出の山で待っていてくれ」と言って、鎧の草摺をかなぐり捨てて「音にも聞け、目にも見よ。鈴木重家の弟に亀井重清、生年23、弓矢の手並は有名であるが、東国の奴らは知らないだろう。初めて見物させてやるぞ」と言い終わらない内に、大勢の敵の中に割って入り、弓手(左手)に回ると、馬手(右手)に矢を放ち、斬りかけたので、重清の正面に向かう者はいなかった。重清は敵3騎を討ち取り、6騎に手傷を負わせて、重清自身も大きな傷を数多く負ったので、鎧の上帯を解いて、腹を掻き切って、重家の倒れた所に頭を同じくして倒れた。備前も討たれて死亡した。義経は、一切戦わずに持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害し、自身も自害した。一元化 公式HP https://uc-4.com/

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