明治を迎えてから1200年以上の伝統を抱えてきた奈良・京都も激しい廃仏毀釈の影響を受けることになり、興福寺の広大な寺領の中で神の使いとして大切に飼われてきた鹿が殺され、すき焼きの肉にされたり、京都でも盆踊り、送り火、地蔵祭を始め、門松、端午の節句、七夕までをも禁止されるという、およそ京都の歴史や文化そのものまでも全否定するような極端な廃仏政策が強行された。奈良では、藤原鎌足の菩提として、和銅3年(710年)の平城京遷都とともにほぼ同時期に建立された氏神社・春日大社と氏寺・興福寺は、明治前まで一体となって繁栄してきたが、慶応3年(1868年)の神仏混交禁止令により、両者を完全分離し、春日大社内の仏像・仏具を興福寺に移したのみならず、奈良県庁は興福寺の廃寺化を目指し、日吉社での暴力的な廃仏毀釈の知らせに恐れおののいていた興福寺の僧侶たちを還俗させ、寺から追い出し、無住にした後、県庁は、無住を理由に興福寺を廃寺とした。廃仏毀釈のほとぼりが冷めたら再び出家して興福寺に戻りたいと願っていた還俗僧侶たちの希望を打ち砕くように、興福寺の仏像・仏具・堂宇などは悉く破壊され、シンボルであった五重塔さえ売却破却の危機に晒された。一方、700年以上の歴史を持つ名刹で巨大寺院の真言宗・内山永久寺は、完全に破壊され、境内にあった布留大権現を祀る布留社が石上神宮にされ、一瞬にして歴史ある巨大寺院は消滅し、境内の一部が神社にされるという運命を辿ることとなった。しかし、興福寺や内山永久寺での廃仏毀釈は、多くの国宝級の宝物が失われることとなり、破壊棄却のみならず、かろうじて難を逃れた仏像や宝物も国内のみならず、英国のロンドン美術館やアメリカのニューヨーク美術館などにただ同然で明け渡され、国内に残った堂塔、堂宇、仏像なども一部の収集家の手に渡り、やがて各地の美術館に保存されることとなった。また、摂津国阿威山で没した藤原鎌足の遺骨が、鎌足の息子で、不比等の兄であった僧侶の定慧によって移された大和国の多武峰に建てられた妙楽寺は、その後、天台宗の寺院となったが、この1100年以上の歴史がある名刹寺院も明治期に廃され、僧侶は還俗させられ、そのまま神職とされ、寺は仏像・仏具は廃棄されたものの、その建築物の立派さから破壊は免れ、寺院の建物はそのまま新設神社・談山神社とされてしまった。この、古事記・日本書紀の神々にまったく無関係の妙楽寺は、明治政府によって一瞬にして神社にされてしまったのだ。明治期には、こうした名刹の寺院が次々と廃寺になり、それが神社にされてしまうというパターンが続いたのだが、特に奈良では名刹中の名刹と言われる巨大寺院が破却されて神社にされてしまうところが多かった。