京都の針医の子息の山崎闇斎は、家の方針で最初比叡山に僧侶となる為の修行に出され、その後京都の妙心寺で僧籍を得た闇斎は19歳で土佐の吸号寺(ぎょうこうじ)に移り、そこで出会った儒学者の谷時中から朱子学を学ぶと一気に思想が朱子学に傾倒し、仏経を批判するようになり、結局臨済宗妙心寺派の吸号寺を追放されることとなった。しかし、吸号寺でともに谷時中から朱子学を学んでいた盟友で、土佐藩の家老でもあった野中兼山に見込まれて経済面も門下生の紹介などの援助を受け、土佐にて朱子学の研究を続けていた。その後京都に戻った闇斎は自らの朱子学塾・闇斎塾を開き、多くの門下生を抱えるようになり、さらに江戸と京都を行き来するようになると会津藩主の保科正之の目に留まり、賓師(ひんし)と呼ばれる不定期の朱子学の家庭教師を頼まれ、それに応じると、当時正之の指名で幕府神道方となっていた吉川惟足との出会いもあり、惟足より神道理論を学ぶ事となる。闇斎は惟足以外にも伊勢神道を引き継ぐ外宮宮司の渡会延佳からも神道理論を学ぶ事となった。しかし、幕府や藩主など君主だけに賢者たる性即理の修養を訴え、民は聖人君主を持てば自然と治世は収まると言う論理は朱子学の理気論的に見ていろいろな矛盾を抱えることとなり、そこで持論の根拠として強引に神道論に結び付けると言う手法、言い換えれば、日本はクニトコタチという宇宙発生以前から存在してるメタなゼッタイシンの直系の子孫であるスサノオやアマテラスを持ち、その子孫が天子天皇である国だからそもそもその血を引く君主たちは聖人君主、つまり賢人になる素質は十分に持ってるのだと言う論理に逃げ込んだともとれないことはない。しかしながら、この天孫系天子を頂く日本国の優越性を説く部分はその後、本来の意味を離れて幕末の尊皇攘夷論や明治以降の国粋主義思想に繋がっていくこととなったのである。