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夕焼けの歌/近藤真彦
チョウ・ユンファ主演の「アゲイン」の主題歌としてアニタ・ムイがカバーしていて
この曲を知りました^^
奇蹟/ミラクル NG集
おとづれがあるかもしれないけど気にしないでね! ハハッ! 主題歌: Rose Rose I Love Youアニタさん: https://www.youtube.com/watch?v=MqUNx8xy70U 本家1(中国語):https://www.youtube.com/watch?v=_-vv-tgoab0 本家2(英語): https://www.youtube.com/watch?v=xpEGTSed1lI
アン・ルイス『Samishisa's On My Mind』広東語版…梅艷芳「黑色婚紗」
梅艷芳(アニタ・ムイ)1987年
近藤真彦『Baby Rose』広東語版…梅艶芳「big bad girl」
梅艶芳(アニタ・ムイ)1995年。映像は99年のコンサート。
近藤真彦『来来星屑港』広東語版…梅艷芳(アニタ・ムイ)「来来星屑港」
原曲は『来来星屑港』と書いて、ライライ・スターダスト・ベイ―と読むんだそうです。ってことは、原曲のタイトルがそもそも広東語?
近藤真彦『泣いてみりゃいいじゃん』広東語版…梅艶芳「各走各路」
梅艶芳(アニタ・ムイ)1989年。タイトルの「各走各路」を訳せば、「それぞれがそれぞれの道を行けばいい」。別れる時によく使う言葉。
山口百恵『放課後』広東語版…梅艶芳(アニタ・ムイ)「莫問起」
「香港の山口百恵」として1982年にデビューした梅艷芳(アニタ・ムイ)。『ありがとうあなた(sm22758400)』や『曼珠沙華(sm22759498)』のカバーが大ヒットしましたが、デビューアルバムに入っていたのが、山口百恵が74年に出したアルバムに入っていた『放課後』のカバー。アニタは歌手オーディション番組で優勝してデビューし、80年代半ばには派手な衣装や振りとハスキーボイスで一躍香港のトップシンガーになり…で、これじゃなんだか「香港の中森明菜」ですが、実際に当時付き合っていたのが近藤真彦で、80年代後半はマッチのカバーを数多く歌ったかと思えば、マッチと破局したら『難破船』のカバー(sm23621397)を歌ったりもしています。
近藤真彦『月のしずくのラヴ・レター』広東語版…梅艶芳「将我送給你」
梅艶芳(アニタ・ムイ)1987年。映画『開心物語』の挿入歌。
アニタ・ムイ『なんとなく幸せ』北京語版…梅艶芳「愛没有罪」
1970年代に欧陽菲菲やテレサ・テン、アグネス・チャンなどが台湾や香港から日本へ進出してブームになりましたが、80年代半ばにも香港の歌手が相次いで日本進出を図った時期がありました。アラン・タム(sm26286434)やプリシラ・チャンなどが日本語でレコードを出してましたが、その1人が梅艷芳(アニタ・ムイ)で、83年に『唇を奪う前に』で日本デビュー。続けて出した『白い花嫁』のB面が『なんとなく幸せ』。アニタはその頃「香港の山口百恵」として売り出していましたが、日本進出にあたっては髪形を当時大人気だった中森明菜風に「ふんわりロング」にしているのが、なんとも…。翌84年には広東語カバーの「不信愛有罪(sm28787897)」を発売し、86年に出した北京語カバーが「愛没有罪」。
アニタ・ムイ『なんとなく幸せ』広東語版…梅艷芳「不信愛有罪」
1970年代に欧陽菲菲やテレサ・テン、アグネス・チャンなどが台湾や香港から日本へ進出してブームになりましたが、80年代半ばにも香港の歌手が相次いで日本進出を図った時期がありました。アラン・タム(sm26286434)やプリシラ・チャンなどが日本語でレコードを出してましたが、その1人が梅艷芳(アニタ・ムイ)で、83年に『唇を奪う前に』で日本デビュー。続けて出した『白い花嫁』のB面が『なんとなく幸せ』で、翌84年には広東語カバーの「不信愛有罪」も発売。もっともこの頃日本進出した香港スターは活動拠点を日本へ移すことはなく、アニタ・ムイが頻繁に来日するようになったのは、86年頃に『オールナイト・フジ』の準レギュラーになってから。マッチとの交際が目的だった(sm22834544)?映像は91年の歌手引退コンサート。
近藤真彦『heartbeat』広東語版2…梅艶芳(アニタ・ムイ)「妄想」
香港での「マッチの恋人」だった梅艶芳(アニタ・ムイ)が1987年に出したアルバムの曲。このアルバムにはマッチのカバーが4曲、明菜のカバーが2曲入っていて、『heartbeat』は「百変(sm25205352)」と「妄想」の2バージョンでカバーされてます。
近藤真彦『heartbeat』広東語版1…梅艷芳(アニタ・ムイ)「百変」
「香港の山口百恵」としてデビューした梅艷芳(アニタ・ムイ)。1980年代半ばには曲ごとに派手な衣装やフリで、ほとんど「香港の中森明菜」と化していましたが、実際に恋人は近藤真彦で、明菜と三角関係に陥ることに。オールナイトフジに準レギュラー出演して、毎週末には日本へ通うことになります。87年にアニタが出したアルバムは4曲がマッチ、2曲が明菜のカバーで、『タンゴノワール』に対抗した「似火探戈(火のようなタンゴ)」とか、「装飾的眼涙(sm22797604)」とか、もうドロドロw。『heartbeat』はマッチのアルバム曲ですが、アニタによる別バージョンの広東語カバー「妄想(sm25212106)」や、北京語版「独飲夜色(sm25212130)」もあります。
近藤真彦『男が泣く女が泣く』広東語版…梅艷芳「顛多一千晩」
「香港の山口百恵」としてデビューし、1980年代に香港や東南アジアの中華圏で一挙に大スターにのし上がった梅艷芳(アニタ・ムイ)。86年から87年にかけては「マッチの恋人」となって毎週末「オールナイトフジの準レギュラー」という仕事を理由に日本へ。そしてこの時期は、弟分の草蜢(グラスホッパー)をバックダンサーに従えて、マッチのカバー曲もガンガン歌ってました。「あれ、明菜は?」と思う人もいるでしょうが、その問題もあって87年にマッチと破局した後は、『難破船(sm23621397)』をはじめ明菜のカバーをあれこれ歌うことになりました。
山口百恵『This is my trial』北京語版1…梅艶芳(アニタ.ムイ)「走上寂寞路」
『This is my trial』は山口百恵が1980年のさよならコンサートで、オープニングに歌った曲。「香港の山口百恵」としてデビューした梅艶芳(アニタ・ムイ)は、85年に広東語カバー「孤身走我路(sm24993275)」を出しましたが、88年には北京語版の「走上寂寞路」も出しました。当時、香港の人気歌手は台湾進出を狙ったり、シンガポール政府が「北京語普及政策」の一環で広東語ソングをすべて放送禁止にしたために、広東語のヒット曲を相次いで北京語カバーしてました。アラン・タムやレスリー・チェンなど男性陣の北京語がダメだった一方で、アニタやプリシラ・チャンなど女性歌手の北京語は、かなりマトモ。
山口百恵『This is my trial』広東語版1…梅艶芳(アニタ・ムイ)[孤身走我路]
『This is my trial』は山口百恵が1980年のさよならコンサートで、オープニングに歌った曲。「香港の山口百恵」としてデビューした梅艶芳(アニタ・ムイ)は、85年に広東語カバー「孤身走我路」を出してましたが、2003年のさよならコンサートでもこの曲を歌いました。もっとも、結婚で幸せな引退の百恵と違って、アニタは子宮頸癌で余命わずかと宣告されてのさよならコンサート。実際、コンサートの翌月に亡くなっています。痩せた姿が痛々しいですが、野太い声はしっかり出てますね。このコンサートのラストは、中森明菜とともにかつて恋人だった近藤真彦の『夕焼けの歌』の広東語版を、ウェディングドレスで熱唱(sm23708525)。