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支那事変。日本は本当に、自ら望んで戦線を「拡大」させたのか?~「共産党」というファクターを考える…|『日中戦争 真逆の真相』茂木弘道(ハート出版)
【動画の内容】
支那事変。日本は本当に、自ら望んで戦線を「拡大」させたのか?~「共産党」というファクターを考える…|『日中戦争 真逆の真相』茂木弘道(ハート出版)
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■久野潤(くのじゅん) 歴史学者/日本経済大学准教授
昭和55年大阪府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業、京都大学大学院法学研究科国際公共政策専攻修了。専門分野は近現代日本の政治外交とその背景思想で、大阪国際大学・皇學館大學・名城大学の非常勤講師を経て、現在は日本経済大学准教授。学術研究以外にこれまで500社以上の神社と350名以上の戦争経験者を直接取材・調査し、著書や雑誌記事を執筆。
令和2年の『日本書紀』編纂1300年にあたっては、『決定版 日本書紀入門』(竹田恒泰との対談、ビジネス社)出版のほか、『夕刊フジ』で「国難を乗り越える日本書紀」を連載。
庄司潤一郎×千々和泰明×山添博史「近代の戦争、現代の戦争」 #国際政治ch 150後編
2023年8月12日のアーカイブ動画。「国際政治チャンネル」#150
「近代の戦争、現代の戦争」
出演者:庄司潤一郎(防衛研究所 戦史研究センター戦史研究室主任研究官), 千々和泰明(防衛研究所 主任研究官), 山添博史(防衛研究所 地域研究部米欧ロシア研究室長)
*夏休み企画第二弾。近代の戦争から、いま起こっているロシア・ウクライナ戦争まで、過去と現在を比較しながら戦争とは何か、解説・議論を行います。
so42641772 ←【前】|mylist/59210597|
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====目次====
#0:42 日本社会における戦史研究
#5:46 防研メンバーのメディア露出
#9:11 なぜ研究者になろうと思った?
#15:08 日中戦争とウクライナ戦争の比較
#20:39 『戦時宣伝論』
#24:13 戦時におけるプロパカンダ
#32:23 『小倉庫次侍従日記 昭和天皇戦時下の肉声』
#35:33 日中戦争とウクライナ戦争の比較
#40:04 日ソ戦争について
#48:17 「あの戦争」への反省から こぼれ落ちたもの
#53:17 ウクライナ戦争 → 大東亜戦争認識
#66:31 朝鮮戦争とウクライナ戦争の比較
#77:30 「極東1905年体」
#80:32 濠亜地中海論
#87:54 次回告知
#88:44 視聴者へメッセージ
箱崎みどり×辻田真佐憲「日本人はなぜ三国志を愛するのか?――愛と欲望の三国志入門」(2021/4/27収録)@midori_hakozaki @reichsneet @hazuma #ゲンロン210427
※ 本番組は、シラスで行われた延長放送を除く、本編のみのアーカイブ動画となります。予めご了承ください。
無料ダイジェスト動画はこちら!
https://youtu.be/Y8c883zONBk
【収録時のイベント概要】
日本人は三国志が大好きだ。
吉川英治や北方謙三の小説、横山光輝の漫画から、昨年末に公開された映画『新解釈・三國志』まで、三国志をもとにしたコンテンツは世代を問わず愛され、広く親しまれてきた。
しかし、考えてみれば不思議ではないか。現代の日本人から見れば1800年も前の異国の歴史物語が、なぜこんなに長く読みつがれているのだろう?
そもそも三国志とはなにか。いかにして成立し、どのように受け継がれていったのか。
そして、なぜ日本の大衆に愛されるようになるにいたったのか。
日中戦争下で起こった三国志ブームの意味とは。諸葛孔明が「日本人の先祖」のように扱われた理由とは?
著書『愛と欲望の三国志』(講談社現代新書)で、日本における三国志の受容史をおどろきのトピックの数々とともに紹介した箱崎みどり(ニッポン放送アナウンサー)を講師に、近現代史研究家・辻田真佐憲が聞く、知られざる「三国志と日本人」の歴史。
初心者から三国志通まで必見!
日本人はなぜ三国志を愛するのか? – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20210427/
近堂彰一×星野博美「重慶は五反田なのか?ーー人口3000万、知られざる最大都市の謎と秘密」(2020/5/7収録)@chongqingman @h2ropon
ゲンロンαにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://genron-alpha.com/article20200511_01/
【収録時のイベント概要】
重慶。
この地名に、どんなイメージを持たれるだろう。
重慶市は人口3000万人を超える巨大な自治体だが、長年観光客からは見向きもされず、中国国内でも「古びた工業都市」程度の扱いだった。
潮目が変わったのは2016年。
重慶を舞台とする映画が公開され、高低差の激しい地形が「TikTo映えする」として若者の注目を集め始めた。
山城を起源とするため階段だらけで、とにかく辛い料理ばかりの重慶が、中国では国内旅行先として人気No.1にまで登りつめている。
日中戦争では蒋介石率いる国民政府が臨時首都を置き、当時の歴史的な遺構も数多く残る一方、現在の政権からは、それらの史跡はなかば無視されている。
幾重にも折り重なった複雑な歴史と地形に隠された秘密とは。
重慶の魅力をあますことなく記した著書『重慶マニア』を発表した近堂彰一と、『ゲンロンβ』で「世界は五反田から始まった」を連載中で、「重慶と五反田は似ている!」という独自の論を展開するノンフィクション作家・星野博美が、知られざる最大都市・重慶の謎に迫る。
重慶は五反田なのか? – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20200507/
20130815大熊利昭 過去の歴史を顧みて。
皆さん、こんにちは。衆議院議員『みんなの党』の大熊利昭です。今日は8月15日『終戦記念日』です。
先ほど天皇陛下のお言葉を頂戴しておりまして、皆さんも聞かれたかと思いますが、天皇陛下は明確に「過去の歴史を顧(かえり)みて」というふうなお言葉を述べておられます。私もこのお言葉は本当に「重たい」と思っております。「過去の歴史を顧みる」これが“未来志向の観点の基本になる”というふうに思っております。
わたくしが思うのは“先(さき)の大戦”ですが、この戦争というのは『対米戦争』『日中戦争』『満州戦争』いわゆる『十五年戦争』といわれる3つの戦争から成るわけでございますが、この3つの戦争「どこでどう間違ったのか?」そしてそれよりも大きいのは「結局のところ、大きく負けてしまった」ということで、『政治家』あるいは『軍部を含めた国の主導者』こういった人たちは“結果責任”をとらなければなりません。「侵略なのか・自衛なのか」それは“神学論争”になってしまいます。とにかく「大きく負けてしまったという結果にたいしての責任」があります。
これは外国のひとが、いわゆる『東京裁判』という「国内法ではないかたちで裁いた裁判ではなく」て、「日本人自身がこうした間違った国策」を決定して遂行し、そして「小さな間違いのうちにそれを方針転換できなかった」かつての「国の指導者たち」あるいは「そういった歴史」に対して、キッチリと反省をしていかなければならないし、そういった人たちにたいして、もはやもう60年も経っておりますが“後付け”でも構わないと思いますのでキッチリと「責任があるのだ」ということを「日本人の手でハッキリと明確にさせていかなければならない」というふうに思います。
わたくしの考え方では、やはり『日独伊三国同盟』をやった松岡(洋右)元外務大臣、そして『日中戦争』を泥沼化させてしまった近衛文麿(元総理大臣)、「この両名の責任がもっとも重い」と考えております。『A級戦犯』だとかそういったことではなく、わたくしの意見では「このお2人がもっとも責任が重い」と考えております。
以上です、失礼します。
参考
「松岡洋右」『Wikipedia』
http://ja.wikipedia.org/wiki/松岡洋右
「近衛文麿」『Wikipedia』
http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛文麿
2025/06/06 (金) 平和の終焉は近し・・・
残虐死体・惨殺死体の山は黄金の山で御座います。
小松製作所社長 小川啓之
小川はどうせ、現場は視てないよ。
ホロコーストを命じた、ヒトラーと同じ穴のムジアナ
福島県民十万人余の斬り込み隊長、ガッツは私だが。
コマツ社長は、その時、札束を拝んでいたという寸法よ!
この時刻、七・七事変じゃ❓
七七事変
七・七事変、支那事変とも。 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で起きた日中両軍の軍事衝突。 衝突そのものは日本軍の部隊演習中に起きた偶発的な事件であり、当初は日中双方とも衝突不拡大の方針を採用。 しかし、兵火は瞬く間に拡大し、日中戦争の発端となる。
にっぽん怖笑良はなし「昭和の事件簿●津山三十人殺し事件(前夜編)」佐波優子 AJER2024.3.27(1)
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
【後半映像】
http://ajer.jp/video/show/d09d5e248cd567a2c15670ac435744f3
#2ちゃんねる
#怪談
#怪奇現象
#民話
Facebookユーザー名 channel Ajer
Facebookページ名 チャンネルAjer
佐波優子の『にっぽん怖笑良ハナシ』
第163回
「昭和の事件簿」シリーズ
津山三十人殺し事件(前夜編)
佐波 優子氏
前編
出典:
『加茂町史 本編』昭和50年、加茂町史編纂委員会
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x749956412
「昭和史 8―決定版 日中戦争勃発」毎日新聞出版、1984/1/1
https://www.amazon.co.jp/昭和史-8―決定版-日中戦争勃発/dp/4620603880
岡山県警察史〈下巻〉 (1976年) - – 古書, 1976/1/1
昭和13年5月20日付大阪朝日新聞号外
「戦慄の三十人殺し」
「21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは「八つ墓村」のモデルになった「津山三十人殺し」#1」
小池 新 2020/06/21
https://bunshun.jp/articles/-/38563
フォトAC
https://www.photo-ac.com
イラストAC
https://www.ac-illust.com
楽曲:
提供 HuirtRecord
局名 「後には」
サイトリンク:https://www.hurtrecord.com/
Twitter :https://twitter.com/hurtrecord
満州人の視角から:満洲事変の真実
GHQによる洗脳を受けた日本人の間では、満州事変が日本の中国侵略の始まりであり
日中戦争が侵略戦争であるとの認識が根強いです
これは根本的に誤った歴史観であり、多くの日本人が罪悪感を抱きながら受け入れています
今日、私は満州人の視点から、東アジア近代史における重要な転換点である満州事変を再考し
誤解を解き明かし、真実の満州と日本の歴史に光を当てます
0:00概要
0:50清の滅亡
02:28満州独立の思想
04:35張作霖爆殺事件の真実
07:20張学良の逆行
17:40柳条湖事件
19:15満州人の支援
21:11満州の独立と意義
中緬国境雲南瑞麗市弄島鎮:召武定王城、雷允飛行機製造所跡、雷允国境検問所
瑞麗市中心部から南西に30km程度離れた弄島鎮に到着すると、早速、向かい側のミャンマーシャン州ナムカムから伝わってくる射撃音が聞こえてきて、前日の姐告口岸でシャン州ムセから伝わってきた射撃音よりも大きくて近いように感じられました。以前、広島県内の自衛隊演習場のある街で暮らしたことがありましたが、日々の生活の中で、小さな射撃音が遠方で鳴っているというのとは異なります。弄島鎮中心部の食堂で食事を終えて出てきた頃には射撃音の発生頻度は下がっていて、また、そこから西に向かって離れるほどに音は小さくなっていくように感じられました。高速道路の建設工事現場を迂回して、さらに進むと、雷允古城・召武定王城跡にやってきました。召武定とは、古代に周辺地域の部族を統一して治めたタイ族(シャン族)の王様です。さらに進むと今度は、中央杭州飛行機製造所跡にやってきました。これは日中戦争期に浙江杭州市から疎開してきたもので、現在は陳列室もありますが、残念ながら、当日は開いていませんでした。朱尤科「试论德宏州级文物保护单位雷允中央飞机制造厂遗址的保护与活化利用途径」では、敷地内にある10件の文化遺産が列挙されているとともに、さらなる保護と有効活用に関する提案がなされています(『德宏社会科学』2023年第2期总第69期、2023年6月、117~120ページ)。瑞麗市も弄島鎮も三方をミャンマーに囲まれているという特殊な形状をなしていて、西へ、そして、さらに南へ向かうと、国境フェンスが延々と続いていました。タイ族の集落を抜けて、さらに進むと、遂に雷允国境検問所にやってきました。最近、向かい側のナムカムの避難民はミャンマー側の難民キャンプ等から自宅へと徐々に帰還しつつあるようです。
東北きりたん 福島県「銃後県民の歌」
日中戦争中の昭和13年に制定された福島県の「銃後県民の歌」です。
福島民報社が歌詞を募集し、古関裕而が作曲しました。
早くも長期戦を歌詞に入れている点からも、日本社会が総力戦体制確立に向けて動いている雰囲気を感じます。
昭和14年には戦時名古屋市民の歌(sm42834883)、大阪市の戦時市民の歌(sm42909433)が制定されています。
日本国際連盟脱退1933年!軍部台頭!
松岡外交破綻!日中開戦!日独伊軍事同盟から真珠湾へ!現代もパープリン台頭保守派専横から日本滅亡へ!
#日中戦争
#第三次世界大戦
#真珠湾
#外交
#3S政策
#ハルマゲドン
AIきりたん「徳島県民歌」(初代:昭和14年)
昭和14年(1939)9月に制定された徳島県民歌です。日中戦争の勃発後、国民精神総動員運動のもとで全国的に国策的・軍国主義的な自治体歌が制定されましたが、本歌もその一つです。なお、翌年には同じく国策に則った内容である徳島市民歌 sm40772394 が制定されています。
このような戦時自治体歌の多くは、終戦後すぐに演奏が禁じられたり自粛されたりしましたが、本歌は戦後も歌詞の一部を変えて昭和49年まで暫定的に使用された点が特徴です。
戦後の歌詞改定
「新東亜 我等を招く」→「新日本 我等を開く」
殷海光先生の故郷:湖北黄岡団風県回龍山鎮殷家楼
殷海光先生編著「中国共産党之観察」(1948年出版)の日本語版電子書籍は弊社より2023年7月に出版いたしましたが、翻訳完成を前にした2023年4月、殷海光先生の地元である湖北省黄岡市団風県を訪れてみました。 朝、長江を挟んで黄岡の対岸にある鄂州市内の宿泊施設を出発、バスに乗って鄂黄長江大橋を渡り、さらに、団風県行きのバスに乗り換え、前日の乗車地点の手前数kmのバス停にて下車しました。バス停付近の交差点から北西の方角に幹線道路を歩いて行くと、地元出身の烈士を祀った墓園があったりしました。さらに進んで、高速道路を越えると、殷家楼に到着しました。溜池の端に設置されている注意書きの看板を見てみると、回龍山鎮江山村という記載があるので、殷家楼は江山村に属する集落といったところなのでしょう。集落を一周してから、幹線道路をさらに進むと、鴿子山村にやって来ました。手元にある参考文献によれば、殷海光先生は子どもの頃に薪を採集しに行って付近の山の崖から転落して軽い障害が残ったとのことであるから(汪幸福「殷海光传」湖北人民出版社、2000年、7ページ)、削られた山の斜面の写真を多めに撮影してみました。殷家楼を何度か巡ってみて、気付いたことは、やはり墓石に刻まれている方々の苗字が殷姓であることです。殷家楼と回龍山鎮は殷子衡、殷鑒等、李四光、林彪、林育南、林育英等といった名士を輩出した土地柄です。殷海光先生は幼くして殷家楼を離れ、そこから15km程離れた上巴河鎮に移り住み、さらに勉学のために地元を離れて以降、日中戦争、国共内戦、台湾への撤退という時代背景もあってか、帰郷する機会は少なかったようですが、今回、実際に訪れてみて、感慨深いものがあります。殷家楼の前にも長距離バスなら停車してくれますが、帰りも敢えて来た道を戻りました。天候はこれまで良かったのですが、南の空には雲が広がってきました。バスに乗って黄岡の市街地に戻り、東方広場を横切って、黄岡市博物館に行ってみると、すでに入館時間が過ぎていました。再度、バスに乗って鄂黄長江大橋を渡り、鄂州に戻ってから、古い歴史のある文星塔にやって来ました。北上して長江の河辺までやってくると、武昌門がありました。これは三国時代東呉の孫権が築いた武昌城にちなんで後の世に造られたものであるようです。昼間であれば、長江の中の小さな磯の上に建てられた観音閣を見ることができますが、夜間なので、もう暗くて見えないですね。殷海光先生の姉の家が鄂州の長江の近くにあって、殷海光先生も一時期、そこに身を寄せていた時期があるとのことであり(汪幸福「殷海光传」湖北人民出版社、2000年、28~30ページ)、殷海光先生もこれらの観光スポットをおそらく訪れたことがあったでしょうね。
2020/08-検証、南京虐殺は真実か?「血の土曜日」から南京攻略へ
中国軍の日本軍挑発、上海疎開爆撃が日中戦争を拡大させた
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第64回・儒教招魂社・靖国神社その④
明治2年に東京招魂社として明治天皇の勅命により創建された時に合祀されたのは戊辰戦争での官軍の戦没者たちだけだったのが、明治14年に靖国神社と改名し、明治16年には幕末の薩長土佐の勤王の志士たちが国事殉難者として合祀され、本来であれば、天皇の為に戦って戦死、ないしは暗殺された者たちだけを天皇の忠臣の魂、つまり忠魂として祀り、天皇が親拝、つまり、直接参拝して顕彰慰霊するという性質の招魂社でったのだが、その後、日清日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵などと戦没者が急増するうちに、戦地での病没者や軍属たちで戦地で亡くなった者たちも祭神として祀られるようになり、第一次上海事変以降は司令官の責任自決までもをが合祀の対象となって行った。
日中戦争・太平洋戦争を経て終戦を迎えると戦没者の数は飛躍的に跳ね上がり、戦後の合祀作業は困難多忙を極めるものとなった。戦後は、GHQの指導下、政教分離の立場から日本政府と靖国神社側の協力関係は戦前のようにスムーズには行かず、大きな制約を受ける中、水面下で厚生省の引揚者援護局と、旧陸海軍で構成する復員局と靖国神社、3者の間で目立たぬよう粛々と戦没者情報の交換と靖国神社での合祀作業が続けられた。
戦前は、靖国神社そのものが内務省と陸海軍省の管轄下だった為、合祀作業はスムーズに進んでいたものの、戦後は、靖国神社は民間の単一宗教法人となり、陸海軍省は廃止され、内務省は厚生省として生まれ変わっており、新憲法下、政教分離の原則が厳しくなり、合意作業は困難を極めることとなった。
しかし、厚生省の援護局も、復員局も、そして靖国神社も旧陸海軍の軍人たちが主要なポストをしめており、そして、戦前と同様に合祀がそのまま遺族恩給支給の資格対象とされることから、政府と各都道府県と靖国神社の緊密な連携が必要とされた。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第63回・儒教招魂社・靖国神社その③(富田メモ)
日本の神社で明治以前に実在の人物が合祀されたのは、古代から中世にかけては恨みを以って亡くなった豪族や貴族の怨霊を鎮めるための目的で建てられた御霊神社や、近世になると、道教と儒教に基づいた神道理論を立て、時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康に取り立てられた吉田兼倶の創設した吉田神道に基づく、権力者や大名藩主の死後の神格化の為の神社などに限られており、少なくとも、戦没者が神として祀られることは一度もなかった。また、人の死後の埋葬に
関しては、鎌倉時代前頃までは、豪族・貴族は、中国や朝鮮半島と同様に墳丘墓が一般的で、庶民に至ってはそのまま死体が道端に遺棄されるのが普通であった。しかし、仏教伝来以降、豪族貴族皇族および天皇に至るまで仏教式に火葬して墓に納骨する者が増え、鎌倉時代以降は、庶民もそうした仏教的な火葬を行うのが一般的になってきた。幕末頃から造られた神式葬儀とは、中身は儒教の葬儀と同じで、火葬したり四十九日とかいう観念も仏教と同じものである。こうした実在人物の死後の神社合祀として戦没者が祀られるのは靖国神社が日本史上初であり、それまでの日本の伝統的死生観とはまったく異なるものであった。
これはむしろ、中国の儒教や道教で死後軍神として祀られた関帝廟のようなもので、しかも、歴史的に一座に複数の神が祀られた神社はなく、靖国神社のように一座に240万柱もの神が鎮座するというのも靖国神社のみである。よって、これは日本の伝統ではなく、靖国神社という新宗教による合祀方式である。
また、合祀基準も、当初は戊辰戦争や西南戦争で官軍として従軍し、戦死した戦没者だけが対象だったのが、明治16年に国事受難者全体が合祀の対象となると、幕末の勤王の志士で幕府と戦って無くなった長州薩摩土佐などの藩士や暗殺された藩士たちも合祀の対象となった。
しかし、この無原則な合祀対象の拡大は、日清日露戦争以降戦没者の数が跳ね上がると同時に
国威高揚の意味からも従軍者で病死や自殺した者から軍属全体にまで合祀対象が広がり、
さらには、日中戦争や太平洋戦争に突入すると、そうした合祀対象の把握さえ困難になって行ったのである。
ハーツオブアイアン4 HOI4 大日本帝国プレイ 其の20 1942年 日中戦争終結
1942の出来事 スターリンの秘密
AIきりたん「愛媛県民の歌」(廃止楽曲)
日中戦争の最中に制定された軍国主義的な「愛媛県民歌」に代わり、昭和27年(1952)に制定された愛媛県の二代目の県歌です。
おそらく翌年の四国国体を控えての制定と思われます(注)。
現在は1973年に制定された「愛媛の歌」が3代目県歌として使用されていますが、抽象的な3代目と異なり、地名や神話が織り込まれている点が本歌の特徴です。
(注)翌年には香川県民歌・高知県民の歌も制定されています。
興亜観音(日本人なら一度は手を合わせに訪れていただきたい場所)
こんにちは。YouTubeチャンネル"大和の心"の
音楽と動画担当のRyouです。
2023年5月21日(日)
熱海に昼から用事があったので兼ねてから手を合わせに
行かせていただきたかった
松井石根陸軍大将はじめ七士の英霊、他多数の大東亜戦争殉職の英霊を供養されている興亜観音に早朝に行かせていただきました。
御殉職の地、巣鴨と同様、即興曲を演奏奉納させていただきました。
その楽曲がこちらになります。
日本人だったら一度は手を合わせに訪れる場所だと私は思います。
英霊の皆様が安らぎ癒されるのを心から祈ります。
興亜観音(こうあかんのん)は、静岡県熱海市伊豆山にある観音像。
創建者松井石根陸軍大将は、日中戦争ののち日中双方の戦没者をわけへだてなく「怨親平等」に等しく弔い祀り供養するために、1940年(昭和15年2月)熱海に興亜観音を建立されました。その観音は真っ直ぐに中国南京の方を望み向きあい合掌されています。そういう軍人が、通常の戦闘行為を超えて無辜の民を万の単位で殺めるのでしょうか
大東亜戦争全戦没者、殉国七士の碑、
殉国刑死1068霊位供養も建立し祀られ建立されております。
[(殉国七士)
松井石根陸軍大将、東條英機陸軍大将、広田弘毅元総理大臣、土肥原賢二陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、板垣征四郎陸軍大将、武藤章陸軍中将の7名です。]
JR熱海駅より伊豆東海バス湯河原駅行きで停留所「興亜観音」下車。徒歩。JR湯河原駅より熱海・伊豆山方面行きバスの便もあります。
南京大虐殺の冤罪で絞首刑にされた英雄、松井大将の生涯【YouTubeが強制削除を執行!】 | ザ・ファクト THE FACT 公式サイト - マスコミが報道しない事実を伝えるネット番組 -
https://thefact.jp/2014/267/
南京大虐殺はなかった!松井石根大将、その生涯~天地も人もうらみず - ニコニコ動画
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm28211258
8分半で自虐史観の洗脳が解ける魔法の動画
https://youtu.be/MAJc90CrTo8
#興亜観音
#熱海
#英霊
ハーツオブアイアン4 HOI4 大日本帝国プレイ 其の十六 1940 日中戦争 開始一年の様相
今回は1940年の日中戦争、世界の様相
更に第二次独露戦開戦
【神道シリーズ・シーズン3】第57回・谷口雅春と生長の家(その④)
谷口雅春は、青春時代に出会ったトルストイの「復活」のキリスト教における原罪と贖罪の問題に対する解決を求めて、大本入信後も、西田天香の一燈園への体験入園など、贖罪を求めた原始的共同村参加など解決無きまま彷徨っていたが、大本を脱退した大正11年にたまたま古本屋で見つけたアメリカのニューソート信者ホムルスの本に出合うとこれまでの考え方と生き方がいきなり一変することとなった。
キリスト教プロテスタント改革派であるカルバン派から発生した批判派は自らニューソートと名乗り、もともとヨーロッパで発生したその思想は19世紀に北米に広がり、20世紀に入ると日本にも流入して来ていた。
同じキリスト教徒でありながらニューソートは聖書の原罪説や贖罪説の一切を否定し、神の予定調和説さえも全面否定し、神とは自ら意思を持たぬ宇宙創造主であるとし、故に人は神に縛られるのではなく、人の中にある神の創造力を生かしていかに有意義な人生を送るべきかに主眼がおかれていた。
仏教思想に造詣の深かった谷口は、このニューソートの宇宙観や神観を仏教思想の無明や唯識論に充て辞め、究極、目的を持たぬ創造神は仏教でいうところの無明そのものだと結論付けた。
しかし、無明で予定調和を求めぬ創造神は生きと生けるものすべてにその無明の神性を与えているので人は自らの内にあるその神性に目覚め、いかに有効に活用して健康で幸せな生活を送れるようにすべきが谷口の関心の中心となっていった。
しかし、その神性に目覚めてそれを自分の為に生かして行く方法はニューソートとは大きく異なり、単なる啓発トレーニングではなく、真言密教の阿字観や天台宗の月輪観や密教の普賢延命菩薩法などを通じて如意宝珠を得るという観想法などを中心に修練法を仏教的なそれに結び付けて行った。その後、聖書や仏典や古事記やコーランなどを声を出して読んだり、静坐や瞑想することもその修練の中に含めている。
こうした実に平和的な思想を持つ生長の家にも、日中戦争が拡大するなか、いよいよ太平洋戦争に突入すると、谷口にも戦争協力の圧力がかかることになったのである。
ハーツオブアイアン4 HOI4 大日本帝国プレイ 初手フランス 日本武尊と行く 新章其の八 対シナ戦準備
日本武尊が子孫を助ける・・・。新章 初手フランス 其の八 日中戦争準備
(動画では海軍演習省いてます)
新キャラ ゾルゲ・尾崎秀美
100年前の写真に残る韓国人 9 全身と顔の大部分を覆うフード付きマント「ジャンゴット」、ストリート コスチュームを着ている女性、王の墓の前にある供物用のテーブル
ロシアのウラジオストクにあるドム スミスの正面玄関の近くに立って、エレノア プレイが市場から購入したものを家に持ち帰るのを手伝った 2 人の韓国人の子供、1899年の建物、父と家族。11 人がポーズをとった、女子クラス、座る女性、日中戦争中の朝鮮人兵士と中国人捕虜、凍った湖で釣り糸をたらす漁師、チャンオサ、荒野の仏教僧院、荷役人、僧侶を祈りに呼ぶ大きな仏教の鐘、韓国の村の僧院の僧侶、働く子どもたち
出典
0321.z.0011.korea.1900.Europana
○Library of Congress
2003666548・2003652629・2001705587・2014708695・2018683785・2003666535・2003677143・2003666547・2003666489
byggnad, fotografi, photograph by Kuylenstierna, Alexis - 1899 - Museum of Ethnography, Sweden - CC BY-NC-ND.
https://www.europeana.eu/item/91627/SMVK_EM_fotografi_1849366
Children Playing with a Dog - 1907 - Rijksmuseum, Netherlands - Public Domain.
https://www.europeana.eu/item/90402/RP_F_2000_9_54
Photograph of Korean Soldiers with Chinese captives during the First Sino-Japanese War, Korean soldiers and Chinese captives in First Sino-Japanese War 1894 to 1895.korea.Europana
fiske, fotografi, photograph - 1900 - Museum of Ethnography, Sweden - Public Domain.
https://www.europeana.eu/item/91627/SMVK_EM_fotografi_2878011
gruppbild, fotografi, photograph by Rosetti, Carlo - Museum of Ethnography, Sweden - Public Domain.
https://www.europeana.eu/item/91627/SMVK_EM_fotografi_2878016
【神道シリーズ・シーズン3】第49回・植芝盛平の生涯【後編】
第一次大本弾圧事件を難なく逃れた植芝盛平は、1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎が仮出獄の身でありながらも、満蒙の地に宗教国家の建設を目指して満州に渡り、盛平もそれに随伴することとなった。張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒されることになり、張作霖軍からの銃撃にも合うが、その時は盛平は敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をした。このパインタラ事件と呼ばれる事件で、盛平を含む王仁三郎一行は九死に一生を得る体験をするが、無事帰国した後は、王仁三郎は霊界物語の著述に精を出し、植芝盛平は、その霊界物語に影響を受けながら柔術の研鑽と弟子の指導に専念した。
しかし、満州で経験した「光のツブテ」は、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験とともに起こり、これが気の妙用という武術極意に達することとなる、盛平は、これを黄金体体験と呼び、自らの合気道を創設するための大きな開眼となったのである。
その後、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)より東京へ移住することとなり、同時に柔術師匠の武田惣角から次第に距離を置くようになった。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
その後、国情は日中戦争、太平洋戦争と日本が深く大戦にのめり込んで行く中、陸海軍の幹部軍人を始め、軍人を中心とした合気道の訓練の師範として次々と要請があり、盛平はそうした軍人らの稽古、訓練に多忙な日々を過ごして行った。
太平洋戦争終戦の1945年(昭和20年)東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、62歳になった盛平のところには、道場への避難民収容や復員した弟子たちが集まり、岩間の道場と東京の本部道場の復興に努め、どちらも復興を果たし、ここに東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まった。
1948年(昭和23年)2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受け、この時はじめて正式に「合気道」を名乗るようになり、盛平は初代合気道「道主」となった。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第46回・霊界物語をどう読み解くか
出口王仁三郎の霊界物語は、その冗長さと内容の不可解さから困難な書とされてきたが、そこで彼が訴えたかったものとは一体何であったのだろうか?
霊界物語は今でも大本で出口直のお筆書き、大本神諭に次ぐ二大経典の一つとされているが、これは直の神諭のように世の中はこうあるべきでこう変革するべきだというメッセージは一切見られず、ただ、183億年前の宇宙発生時から現代にいたる霊界における歴史を語って来た書と王仁三郎には自称されている。
しかし、正直、その中身たるや、荒唐無稽な上に、一体何が大本の信仰対象であり、何をどう考えるべきかがまったく不明瞭で、大本信者でさえそこを心底理解している者は一人とていないと推測される。
霊界物語は、183億年前の天祖、大国常立大神による大宇宙創成時代の霊界の地球で大地自然と神々の修理固成を行ったとミロク大神たるスサノオの話と、38万年前の霊界の地球でさらに修理固成を行った国祖と呼ばれる
国常立尊と、その後、その国常立尊が自ら創った神人たちに追放され、その結果、大峠という地球規模の大洪水が起こり、一旦破滅した地球に天の大神と呼ばれるイザナギ、イザナミ、アマテラスが再び大地自然の再創造を行うストーリーが展開されている。
不思議なことには、こうした大宇宙創成神や地球の修理固成神たちが霊界に産み出した神々や神人と呼ばれる霊界の住民たちの間でまったく権威や崇敬が無く、霊界人達に追放された国祖・国常立尊や、みろく大神と呼ばれながらも霊界の地上に産み出された邪神たちとのあくことなき戦いが強いられ続けていく、という、絶対崇拝対象無きストーリーが展開されているのである。
ただ、絶対崇敬対象としての存在が不在の中、霊界物語の中では、「言向け和し」という、敵対する者に対して武力や策略によって相手を屈服させてはならない、あくまで相手を諭し、心服させるやりかたで和平し共存していくことの大切さを終始強調されている。
出口直、王仁三郎の間で一貫していたのは、反戦世界平和的な全宗教共存論で、これは金光教や天理教以来一貫している万教同根の思想である。
王仁三郎が第二次大本弾圧事件の前に結成した昭和神聖会では、満州事変や日中戦争を「愛の戦争」と呼んだ彼の真意は不明のままだが、戦後の大本は戦前の社会変革論を完全に放棄し、ひたすら芸術活動と世界宗教平和共存運動に徹して行ったのである。
どてらい男 第27話 旦那の作戦
どてらい男 27話 旦那の作戦
日中戦争も激化、若者たちが続々戦場へ送られる中で猛造(西郷琿彦)は一年間のお礼奉公に精を出していた。
そんな中、文冶(沢本忠雄)は猛造引きとめの策略を考えついた。猛造が開拓した得意先の未収分を立て替えてから独立しろというのだ。昭吉(田村亮)から文治の策略を聞いた猛造は今さらながら彼の悪知恵にあきれる。意を決した猛造は得意先を全部店に残し、裸一貫で独立することを決める。
どてらい男 第21話 男が先か女が先か
どてらい男 21話 男が先か女が先か
岡田(大村崑)まで辞めさせられると聞いて独立を思いとどまった猛造(西郷輝彦)は再び外交に出る。日中戦争が激しく、これからは兵器産業の時代だと先見した猛造はその部品を取り扱う事を考えた。
いま世の中で一番強いのは軍隊、その軍隊を相手に商売をすれは絶対に儲かると。そんな猛造の頭の回転に昭吉(田村亮)は感心するばかりだった。
どてらい男 第19話 恋ごころ
恋ごころ 19話 どてらい男
日独防共協定が調印され、猛造(西郷輝彦)はますます国産品の必要性を感じるが、文治(沢本忠雄)は舶来一筋の頑なな態度を変えない。岡田(大村崑)だけが猛造の卓見を信じていた。
その頃、昭吉(田村亮)は清子(新藤恵美)と会っていた。おてんばだが頭の鋭い清子をすっかり気に入ったのだ。
翌十ニ年七月七日、蘆溝橋事件が勃発。一気に日中戦争へ突入し世情騒然となった。
“道歉?我没有听到道歉,他们想让这段历史消失。”
https://www.bilibili.com/video/av606244557
原作者:共青团中央
1937年12月,侵华日军制造南京大屠杀,30多万手无寸铁的中国平民和放下武器的士兵惨遭杀害。幸存者用双眼见证家国浩劫,用余生承载民族之殇……85年岁月流逝,见证者在减少,但历史永远不容篡改!
视频制作:江苏共青团融媒体中心 高碧天
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第34回・昭和神聖会と昭和維新
第一次大本弾圧ののち、出口王仁三郎は、満蒙に神の国の建設を目指し内蒙古入りするが、張作霖に部隊に逮捕され処刑直前に命を救われるという九死に一生を得る体験をするが、その後は、開祖出口なお亡き後、大本は王仁三郎を中心に、なおの時代には曖昧だった教義を整理し、欲得ですべてが動く乱れた世界を正すために弥勒菩薩の降臨を求める昭和維新の運動を展開して行った。
王仁三郎の提唱する昭和維新は、腐敗した政財界を無くし、国民が国常立やその下で世界を統治する天皇を世界人民が崇敬し、世界の人民は人種宗教思想を超えて皆平等で階級の無い豊かな社会で暮らせるようにすると言うものであったが、この思想は、国常立や天皇を除けば、まさにマルクスレーニン主義、つまり、世界の労働者が団結し、資本家や政府を倒し、世界規模で搾取や階級の無い共産社会を築くという発想とまさに瓜二つであった。
王仁三郎は、一方では、世界宗教連合会を結成し、世界のありとあらゆる宗教の代表を集め、信仰の違いを超えての宗教界の団結を目指し、また、人類愛善会を結成し、当時、農業恐慌や東北地方の冷害干害で飢餓に苦しむ農民たちに二毛作や愛善陸稲と呼ばれる陸稲の栽培などを現地で実地指導して広め、日本全国で多くの飢餓農民たちを救ったりしたが、また一方では、満州事変以降進行する中国大陸での関東軍を中心とした軍事作戦の展開進行に対して絶大な支持と賛同賛美を送り、多くの軍人の支持を取り付ける事に成功している。
そして、昭和10年1935年の第二次大本弾圧事件の1年前には、昭和神聖会と言う、ありとあらゆる救国団体の大同団結を訴えた連合組織を立ち上げるが、この大本が主導した昭和神聖会の結成式には、内務大臣、逓信大臣、多くの国会議員、そして陸海軍の中将クラス以上の幹部軍人たち、全国の右翼団体、さらには、全国著名大学教授や著名文化人たちが多数集まり祝辞を述べ、中には日本初の女性解放運動家の平塚らいちょうまでも含まれていた。
こうした昭和神聖会の運動に賛同する国民は当時の日本の人口約4千万人のうち800万人、つまり5人に1人が賛同したほどに支持された。
そして、その賛同者たちの中には、王仁三郎の熱烈な信奉者で満州事変を企画実行した陸軍中将石原莞爾や、後に日中戦争で主要な働きをした陸軍大将板垣征四郎、さらには226事件でクーデター計画を実行した青年将校の西田税までもが含まれていた。
人道的な慈善活動と戦争推進論と言う両極端な思想に揺れた王仁三郎の皇道主義は、きたる第二次大本弾圧事件を跨いで、大本から派生した極右の神道系カルト教団も含め、日本の第二次世界大戦への道を確実に進めて行くこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第33回大本教(その⑦)エスペラント語運動と王仁三郎の入蒙
第一次大本弾圧ののち、出口王仁三郎は、満蒙に神の国の建設を目指し内蒙古入りするが、張作霖に部隊に逮捕され処刑直前に命を救われるという九死に一生を得る体験をするが、その後は、開祖出口なお亡き後、大本は王仁三郎を中心に、なおの時代には曖昧だった教義を整理し、欲得ですべてが動く乱れた世界を正すために弥勒菩薩の降臨を求める昭和維新の運動を展開して行った。
王仁三郎の提唱する昭和維新は、腐敗した政財界を無くし、国民が国常立やその下で世界を統治する天皇を世界人民が崇敬し、世界の人民は人種宗教思想を超えて皆平等で階級の無い豊かな社会で暮らせるようにすると言うものであったが、この思想は、国常立や天皇を除けば、まさにマルクスレーニン主義、つまり、世界の労働者が団結し、資本家や政府を倒し、世界規模で搾取や階級の無い共産社会を築くという発想とまさに瓜二つであった。
王仁三郎は、一方では、世界宗教連合会を結成し、世界のありとあらゆる宗教の代表を集め、信仰の違いを超えての宗教界の団結を目指し、また、人類愛善会を結成し、当時、農業恐慌や東北地方の冷害干害で飢餓に苦しむ農民たちに二毛作や愛善陸稲と呼ばれる陸稲の栽培などを現地で実地指導して広め、日本全国で多くの飢餓農民たちを救ったりしたが、また一方では、満州事変以降進行する中国大陸での関東軍を中心とした軍事作戦の展開進行に対して絶大な支持と賛同賛美を送り、多くの軍人の支持を取り付ける事に成功している。
そして、昭和10年1935年の第二次大本弾圧事件の1年前には、昭和神聖会と言う、ありとあらゆる救国団体の大同団結を訴えた連合組織を立ち上げるが、この大本が主導した昭和神聖会の結成式には、内務大臣、逓信大臣、多くの国会議員、そして陸海軍の中将クラス以上の幹部軍人たち、全国の右翼団体、さらには、全国著名大学教授や著名文化人たちが多数集まり祝辞を述べ、中には日本初の女性解放運動家の平塚らいちょうまでも含まれていた。
こうした昭和神聖会の運動に賛同する国民は当時の日本の人口約4千万人のうち800万人、つまり5人に1人が賛同したほどに支持された。
そして、その賛同者たちの中には、王仁三郎の熱烈な信奉者で満州事変を企画実行した陸軍中将石原莞爾や、後に日中戦争で主要な働きをした陸軍大将板垣征四郎、さらには226事件でクーデター計画を実行した青年将校の西田税までもが含まれていた。
人道的な慈善活動と戦争推進論と言う両極端な思想に揺れた王仁三郎の皇道主義は、きたる第二次大本弾圧事件を跨いで、大本から派生した極右の神道系カルト教団も含め、日本の第二次世界大戦への道を確実に進めて行くこととなったのである。
【勿忘九一八】今天,辽宁沈阳举行勿忘“九一八”撞钟鸣警仪式。14响警世钟,代表中国人民浴血抗战14年;3分钟警报,警醒我们勿忘历史、振兴中华!不忘曾经烽烟起,心中长鸣警钟声!吾辈自强!
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原作者:央视新闻