キーワード 南北朝時代 が含まれる動画 : 273 件中 129 - 160 件目
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【神道シリーズ】第29回・諏訪信仰(諏訪大明神>本地・普賢菩薩千手観音菩薩大日如来)今日に続く信仰
諏訪信仰と言えば諏訪大明神と言うのが古今一貫しているものですが、この諏訪大明神という名前が出てきたのは平安時代で、弥生系(中国江南地方より陰陽五行思想や社稷思想<穀物信仰>を持って移民した人たち)の諏訪の地元民の信仰していた洩矢(もりや)神(蛇神・ミシャグジ神)の諏訪に出雲系(スサノオ族=新羅系移民)の建御名方神が同地に居ついてから、諏訪の信仰が二重構造(洩矢神信仰と建御名方信仰)になっていたところに、10世紀頃になると真言宗系の両部神道の影響が広がり、諏訪湖の本地は大日如来、諏訪大社上社は普賢菩薩、下社は千手観音菩薩が本地と、仏経の神様となり、これが諏訪大明神と呼ばれるようになり、その後、室町時代、南北朝時代、戦国時代と武士を中心とした厚い信仰が広まるようになります。
この諏訪大明神という考え方は、明治時代に破壊されようとしましたが、地元や全国の諏訪神社に伝わる伝承信仰の力は強く、またたくまに復活して、今日でも諏訪大社と言えば諏訪大明神が信仰の中心になってます。
【予告】創作南北朝・人物紹介動画企画
創作イラスト+紹介文で南北朝時代(日本史)の人々を紹介する動画企画の予告です。完成した動画本編はこちら→sm23224569 ◆お借りした音楽:「武装」 http://piapro.jp/t/v5_y ◆引用:「南北朝オタク死亡カルタは突然に」 http://togetter.com/li/467802
三重県伊勢田丸城
田丸(玉丸)城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度合氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて、南朝方の拠点としたことが始まりとされる。 南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
【鎌倉仏教シリーズ】第41回・臨済宗⑤「応・橙・関の一流」時代3-3
中国(南宋)の無準師匠禅師の流れを汲む夢想疎石が南北朝時代から室町時代にかけて、優雅でサロン的な五山派(京都五山・鎌倉五山)を築く一方で、同じく南宋の虚堂智愚(きどうちぐ)の流れを汲む南浦紹明(なんぼじょめい)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、関山慧玄(かんざんえげん)の三代は粗削りで素朴な山林派を築き、五山派に対抗します。五山派が有名な山水画家、造園家、漢詩文学者などを傑出する一方で、五山派は一休宗純や沢庵宗膨など個性的な禅師や、後に「わび・さび」の東山文化や、能、狂言、茶の湯、懐石料理などの日本を代表する精神文化を生み出します。
田丸城(三重県度会郡玉城町)
三重県度会郡玉城町にある田丸城です。
田丸城は南北朝時代の延元元年(1336年)に北畠親房によって南朝方の拠点として築かれました。
天正3年(1575年)には織田信長の次男で北畠氏の養子となった織田信雄が大河内城を廃して、
本拠を玉丸城に移しました。城を大改築して本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸に3層の天守が
築かれました。天正8年(1580年)に放火によって田丸城は全焼し、信雄は松ヶ島城を築いて
移りました。
城址紹介 静岡県 mylist/35938606、愛知県 mylist/35726874、岐阜県 mylist/35803017
三重県 mylist/36013454、滋賀県 mylist/36013523、長野県 mylist/37255841
その他 史跡 mylist/36010755、ダム巡り mylist/37255876、ブロマガ ar303163
アンチネトウヨシリーズ第四回 天皇考 南北朝時代偏4-1
【天皇考】天皇とは日本人にとって何か?(シリーズ第四回)南北朝時代
(朱子学マニア後醍醐天皇のワガママで始まった50年に及ぶ抗争と、
最後は天皇家が将軍にコケにされて終わった結末)
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☆Voicepeak★ 安芸太田町 津浪 「可憐なホソバナコバイモの花と河内神社」(御案内=彩澄りりせ&フリモメン)
広島県山県郡 安芸太田町〜ホソバナコバイモの開花と津浪 河内神社の
御神木の境内の杉の大木の風景。
神社案内ガイドは彩澄りりせちゃんと解説=フリモメン(voice peak)さんです。
立ち絵OP・EDの最小限にとどめております。 りりせ&フリモメンさんのご案内による神社参拝記。
津浪 河内神社は1375年創建の古社。この地方が開拓されていた時期
南北朝時代に河内国から移住した影浦氏が勧請して建立したのが始まり。
創建以来守られてきた社叢の風景は壮観である。
細葉花小貝母
ホソバナコバイモ 日本固有の小貝母で絶滅危惧される山野草。
球根から茎が伸び五枚の葉と釣鐘型の白い小花を咲かせます。
花の最盛期をやや過ぎた3月20日訪問。3月上旬〜4月上旬が花期
5月に種実り地上部が枯れる。
【鴻漸之翼】近江国長浜城(今浜城) 平成29年(2017) 初夏
2017年の5月上旬、滋賀県長浜市にある長浜城を訪れました。
南北朝時代、佐々木道誉が家臣の今浜六郎左衛門が今浜城を築城し、
戦国時代に一国一城の主となった羽柴秀吉が築城し、長浜城と名を改め、
7年間居城し、城下町経営を行いました。
その後、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成が城主を務めますが、
大坂の陣の後、信成の子、信正が高槻城に移り廃城となりました。
※霞舞伎殿、広告ありがとうでござる
秀吉の名護屋城→sm23934577
一豊が移った掛川城→sm28807658
お城→mylist/37297571
信長の野望 天翔記 激将・小田氏治の野望 第十九陣
<あらすじ>長野具藤が小田家の一門衆に加わった。
南北朝時代の北畠親房の子孫が一門に加わったのだ。
これ以上の力強さはない。
そして氏治は四国制覇を目論見島津家に照準を絞った。
そして氏治が新たな能力を得ようとはこの時誰も知る由はなかったのである…。
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【年号ラップ】年号ラッパー【歴史】【ボカロラップ】【GUMI・初音ミク・ギャラ子】【優雅みっくす】
歴史について、年号を覚えながら、ボーカロイド年号ラップ(年号語呂)で、紐解いていきました。
GUMI・初音ミク・ギャラ子が3人でMCしてます。
平城京、平安京、源頼朝、平清盛、鎌倉幕府、室町幕府、足利尊氏、南北朝時代、足利義満、金閣寺、織田信長、今川義元、長篠の戦い、鉄砲伝来、本能寺の変、豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康、江戸幕府、赤穂浪士、ペリー来航、黒船来航、生麦事件、開国、明治維新、廃藩置県などなど、内容はお笑い系の歴史のうたです。
※この歌はフィクションであり、実在の人物・出来事・場所などとは一切関係ありません。
その他の投稿曲のマイリストはこちらです。よろしくお願いします
【MY投稿作品セレクト】mylist/71730869
YouTube:https://www.youtube.com/user/yugamix7
twitter:yugamix
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
なぜ建武政権はわずか2年で崩壊したのか 〜「二条河原の落書(※現代語訳有り)」に仕掛けられた罠〜【小学生でも分かる南北朝時代の歴史】
つまり、建武政権瓦解の直接的キッカケの役割を担ったのは、建武政権樹立一年後に「京童(身元不明の京都市民の何者か)」によって突如建てられた立札で、建武政権の欠点を皮肉たっぷりにこき下ろした「二条河原の落書」の存在。
【原文】
此比都に流行る物、夜討、強盗、偽綸旨
召人、早馬、虚騒動、生頸、還俗、自由出家
俄大名、迷者、安堵、恩賞、虚軍
本領離るる訴訟人 文書入れたる細葛
追従、讒人、禅律僧 、下克上する成出者
器用の堪否沙汰も無く 漏るる人無き決断所
着付けぬ冠上の衣 持ちも慣らわぬ笏持ちて
内裏交わり珍しや 賢者顔なる伝奏は
我も我もと見ゆれども 巧みなりける詐りは
愚かなるにや劣るらん 為中美物に飽き満ちて
まな板烏帽子歪めつつ 気色めきたる京侍
黄昏時に成りたれば 憂かれて歩く色好
幾ぞ許ぞや数知れず 内裏拝みと名付けたる
人の妻鞆の憂かれ目は 他所の見る目も心地悪し
尾羽折れ歪むエセ小鷹 手ごとに誰も据えたれど
鳥獲る事は更に無し 鉛作りの大刀
太刀より大に拵えて 前下がりにぞ指折らす
バサラ扇の五骨 広輿、痩せ馬、薄小袖
日銭の質の古具足 関東武士の籠出仕
下衆上﨟の際も無く 大口に着る美精好
鎧直垂なお捨てず 弓も引き得ず犬逐物
落馬矢数に勝りたり 誰を師匠と無けれども
遍く流行る小笠懸 事新しき風情無く
京鎌倉を掻き混ぜて 一座揃わぬエセ連歌
在々所々の歌連歌 点者になる人ぞ無き
譜代非成の差別無く 自由狼藉世界なり
犬田楽は関東の 滅ぶる物と云いながら
田楽は尚流行るなり 茶香十火主の寄合も
鎌倉釣に有鹿と 都はいとど倍増す
町ごとに立篝屋は 荒涼五間板三枚
幕引き廻す役所鞆 その数知らず満ちにたり
諸人の敷地定まらず 半作の家これ多し
去年火災の空地ども 禍福にこそなりにけり
適残る家々は 点定せられて置き去りぬ
非職の兵仗流行りつつ 路次の礼儀辻々は無し
花山桃林寂しくて 牛馬華洛に遍満す
四夷を鎮めし鎌倉の 右大将家掟より
只品有りし武士も皆 成めんたらにぞ今は成る
朝に牛馬を飼いながら 夕に変在る功臣は
左右に及ばぬ事ぞかし させる忠功無けれども
過分の昇進するも在り 定めて損ぞ在るらんと
仰いで信をとるばかり 天下一統珍しや
御代に生きて様々の 事を見聞くぞ不思義とも
京童の口ずさみ 十分一をも漏らすなり
【雪と山と】越後国春日山城 平成26年(2014) 冬
2014年の2月上旬。
新潟県上越市の春日山城を訪れました。
春日山城は、越後長尾家の祖、長尾景恒公の息子の長尾高景公が
南北朝時代の1300年代の後半に築城したとされ、
謙信公の父、長尾為景公が拡張し、現在の形となりました。
独立山塊で三方が山に囲まれ、西南方面が傾斜はやや緩いですが、
他は急斜していて、難攻不落の自然の大城郭です。
越後兵の強さの秘密が、この雪道を歩けば分かるような気がしました。
雪道でバランスを保つ為のインナーマッスルが鍛えられていたのだと思います。
雪に不慣れな方でこの時期に行かれる方は雪山の装備をしっかりとすることを
お勧めします。
※きりち殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。
春→sm23358865
夏→sm21440268
お城→mylist/37297571
『マイスプ+歴史講座(南北朝時代)』 22・12・12
my日本SPREAD!!とは,日本に誇りを持つ仲間たちのネットワーク
SNS my日本 (http://mynippon.jp/)
の有志がお送りする,インターネット生放送番組です.
こうぎょく先生の歴史講座
日曜日配信「my日本SPREAD!」内のこうぎょく先生の歴史講座を抜き出した動画です.
先生
こうぎょく
生徒
虎太郎
内容
南北朝時代
マイスプ+のアーカイブ
mylist/21570232
伊達家 南北朝時代編 戦国大名家紹介シリーズ#21-4【ゆっくり&VOICEVOX日本史解説】
全国の戦国大名を紹介する動画シリーズ「戦国大名家紹介シリーズ」。
引き続き、鎌倉以来の名門にして奥州筆頭・伊達家を紹介します。
今回は南北朝時代を扱います。
0:00 導入
1:04 オープニングテーマ
1:21 1.後醍醐天皇と足利尊氏のお気に入り、伊達政長
6:44 2.7代・伊達行朝の栄光と没落
17:15 3.8代・伊達宗遠
24:04 編集後記
【参考文献】
・「陸奥伊達一族」吉川弘文館 著・高橋富雄
・「伊達一族の中世」吉川弘文館 著・伊藤喜良
・「南北朝武将列伝 南朝編」戎光祥出版 著・亀田俊和・生駒孝臣
・「南朝の真実 忠臣という幻想」吉川弘文館 著・亀田俊和
・「動乱の東北史4 南北朝内乱と東国」吉川弘文館 著・桜井 彦
・「下総・奥州相馬一族」新人物往来社 著・七宮涬三
【今回の動画で使用した音楽素材】
・フリーBGM・音楽素材MusMus
http://musmus.main.jp/
・全曲無料・フリー音楽素材/魔王魂
https://maoudamashii.jokersounds.com/
・龍的交響楽 -Dragonic Symphony-
http://d-symphony.com/
・効果音ラボ
https://soundeffect-lab.info/about/
・甘茶の音楽工房
http://amachamusic.chagasi.com
【各キャラクター音源】
・うp主・シカリマツ音源「ゆっくりムービーメーカー4」
https;//manjubox.net/ymm4
・入力文字読み上げソフト「VOICEPEAK」
https://www.ah-soft.com/voice/zunko/
VOICEPEAK:東北ずん子
・テキスト読み上げソフト「VOICEVOX」
https;//voicevox.hiroshiba.jp
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:もち子(cv明日葉よもぎ)
【各キャラクター立ち絵】
・うp主・シカリマツ立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
兜・頭巾→作:いらすとや様
・東北ずん子立ち絵(作:こーすけさんたまりあ様)
・ずんだもん立ち絵(作:moiky様)
・もち子&あん子立ち絵(作:490様、公式立ち絵)
アンチネトウヨシリーズ第四回 天皇考 南北朝時代偏4-3
【天皇考】天皇とは日本人にとって何か?(シリーズ第四回)南北朝時代
(朱子学マニア後醍醐天皇のワガママで始まった50年に及ぶ抗争と、
最後は天皇家が将軍にコケにされて終わった結末)
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【さつ☆りく】 どんだけジェノサイド ~南斉の明帝 蕭鸞~
悲惨な話の多い魏晋南北朝時代において屈指のネタ度を誇る殺人皇帝の替え歌。今更感のらき☆すたネタですが、いつか北朝(特に北斉とか北斉とか北斉とか)も作ってみたいな。
参考にした動画:sm535037 sm3253535
→宇宙大将軍 sm9216994 →他の拙作は mylist/7404878
装甲悪鬼村正~妖甲秘聞~デモムービー
ようつべより転載。画質は駄目っぽいです。ニトロプラス10周年記念作品のドラマCDで、WEBラジオ「癒されBar若本」とのコラボとなり、若本規夫さんを中心とした実力派声優達の情感籠った朗読で本編よりも遥か昔、村正一門が生きた南北朝時代に起きた出来事を描くそうです。鬼哭街のドラマCD以来の傑作になりそうな予感。でもあるぇー?湊斗さんの声優が石川さんじゃないって…いったい誰d(ry
アンチネトウヨシリーズ第四回 天皇考 南北朝時代偏4-2
【天皇考】天皇とは日本人にとって何か?(シリーズ第四回)南北朝時代
(朱子学マニア後醍醐天皇のワガママで始まった50年に及ぶ抗争と、
最後は天皇家が将軍にコケにされて終わった結末)
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ティムール 対 永楽帝 対 足利義満 一休さん[色即是空]【動画で語る世界の歴史】【ゆっくり解説】
(激突英雄)
今回は、14世紀にアラブ世界、中国、日本で活躍した「ティムール」「永楽帝」「足利義満」の三人に焦点を当ててみました。
ほぼ同時代に登場したこの三人は、いずれも戦争に強く、エピソードに事欠かない「名君」です。
実際にこの三人が相まみえることはありませんでしたが、しかし、ティムールは中国に攻め込む途中で病没しています。もし、ティムールが病没せず、永楽帝とぶつかったら、果たしてどうなったでしょうか?
皆様の勉強の一助、あるいは雑談の種になれば幸いです。
#世界史 #教養 #ティムール #永楽帝 #足利義満 #洪武帝 #朱元璋 #足利義持 #バヤズィト一世 #オスマン帝国 #コンスタンティノープル #デリー #ヒンドゥー教 #明 #鄭和 #大艦隊 #アフリカ #モンゴル #遊牧騎馬民族 #騎馬民族 #南北朝時代 #楠木正成 #楠木正儀 #大楠公 #小楠公 #一休 #一休さん #一休宗純 #とんち #戦国時代 #元寇 #兵站 #聖戦 #ジハード #勘合貿易 #冊封
天照大神がいたのは日本、朝鮮半島ではありませんよ、騙されないでね
朝鮮人に騙されるとは日本人も堕ちたもの
毎日投稿チャンネルです。
※マスクを外して飲酒会食を楽しもう(西山飲酒会食俱楽部)。
&本動画に関する質疑応答会(西山塾)。
&マスク販売(武装マスク)
https://nohohondensha.jimdosite.com/
1月21日土曜日14時からオフ会。
残席はありません。
1月28日土曜日14時から飲酒会食倶楽部
残席4名。参加申し込み受付中(有資格者のみ)。
2月4日土曜日14時30分から西山塾
残席11名。
同日17時からの懇親会残席6名。
参加申し込み大募集中(老若男女不問)。
詳細は上記ホームページにてご確認ください。
西山塾への参加申し込み、大募集中です。
※以下、ご理解をお願いします。
当サイトの動画は私個人の感想や意見を述べており必ずしも真実ではありません。
独自の考え方、切り口を示す事により視聴者様の思考を促進する事を目的としています。
宜しくご理解ください。
また当サイトでは本音を喋っており善人を気取るつもりはありません。
視聴して不愉快になられる方はご視聴をお控えください。
もう一点、当サイトで公開している内容に著作権はありません。
知名度に関わらず自由にご発言ください。
ご意見、ご要望、ご感想やご提案はアメブロやツイッターでも受け付けています。
https://ameblo.jp/nohohondensha/
https://twitter.com/nohohondensha?lan...
【馬陵】陸奥国相馬中村城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、福島県相馬市にある相馬中村城址を訪れました。
築城年代ははっきりとしませんが、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に
坂上田村麻呂が築城したのが始まりとされています。
南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に
中村館を構え、戦国時代を迎えると相馬氏の支配下となりました。
1611年(慶長16年)、相馬利胤が小高城から中村城へ本城を移し、幕末まで
中村藩六万石の政府となりましたが、戊辰の役で落城し、明治を迎え廃城と
なりました。別名は馬陵城です。
縄張りが独特で、梯郭式や稜堡式として分類している方もいるようです。
お城→mylist/37297571
【浮船】陸奥国小高城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、福島県南相馬市にある小高城址を訪れました。
築城年代ははっきりとしませんが、南北朝時代に相馬氏によって、
築城されたとされています。
第16代相馬義胤公が1611年に中村城へ本拠を移すまで、200年以上、
陸奥相馬氏の本城でした。
城址の動画は5分程ですが、同慶寺、太田神社、小高区と続きます。
2015年7月現在、城址を含む小高区は福島第一原子力発電所事故の為、
避難指示解除準備区域に指定されており、同地の宿泊は不可能となっています。
事故当時、墓に眠る相馬の殿様に放射能がと心配していましたが、
今回ようやくお参りすることができました。
住民の皆さんが一日でも早く元の生活に戻れるよう祈っています。
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アンチネトウヨシリーズ第四回 天皇考 南北朝時代偏4-4
【天皇考】天皇とは日本人にとって何か?(シリーズ第四回)南北朝時代
(朱子学マニア後醍醐天皇のワガママで始まった50年に及ぶ抗争と、
最後は天皇家が将軍にコケにされて終わった結末)
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【捲土重来】陸奥国赤館城 平成26年(2014) 仲秋
2014年の9月中旬、福島県東白川郡棚倉町の赤館城址を訪れました。
北は阿武隈川、南は久慈川と東北と関東の分水嶺に位置する赤館城は、
建武年間に赤館伊賀次郎が赤館城主であった記録があることから、
南北朝時代以前に築城されていたと考えられています。鎌倉時代初期は、
伊達氏の飛地でしたが、南北朝時代以降は白河結城氏の勢力地として
常陸の佐竹氏との最前線になり、1560年頃には、上遠野盛秀が城代となり
、度々合戦の舞台となりました。
1590年、豊臣秀吉の奥州仕置により白河結城氏は改易、佐竹領、天領を経て、
1609年に立花宗茂が入城しますが、1622年、丹羽長重が入部し棚倉城を築くと
赤館城は廃城となりました。
お城→mylist/37297571
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第170回:一乗谷の栄華「姉川の戦い 浅井・朝倉軍」】
骨の髄まで、乱世を楽しまなきゃ
南北朝時代から続く由緒正しき名家:朝倉氏。
本拠を越前(現在の福井県周辺)に移した分流、越前朝倉氏第11代当主:朝倉延景。
家督相続時には若年であった為、名将:朝倉宗滴の庇護を受け
征夷大将軍:足利「義」輝から一字を拝領して、朝倉義景を名乗った。
実権を握ったのは宗滴が没した後の22歳の頃とされる。
その後、既に権威失墜していた将軍足利家との交流は続けていた朝倉家は
足利義輝が暗殺された後、その身が危ぶまれた足利義昭の脱出を手助けして庇護。
しかしながら義景は義昭を前面に出しての上洛に関しては積極的では無く
急速に勢力を伸ばす新進気鋭の大名:織田信長を頼って義昭は出て行ってしまった。
(喧嘩別れ、というわけではなく庇護の件を厚く感謝する礼状を残して行った)
織田信長が義昭を御輿にして上洛すると、将軍の命令という名目で朝倉家の上洛を迫ったが
義景はこの命令を2度に渡って無視。これを理由に信長は朝倉討伐を決行する。
勢いに乗っている織田軍に対して苦しい戦いが予想されたが
朝倉家との旧恩の仲を優先した浅井家が織田を裏切ったことで戦況は一変。
撤退する織田軍を追撃するが、有力武将のほとんどを取り逃がしてしまう。
その2ヵ月後、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍の雌雄を決する戦い「姉川の戦い」が発生。
織田徳川及び浅井家は当主を総大将とし、決戦の場であることを強く意識していたが
朝倉当主の義景だけは自身は戦場に向かわなかった。
結果は榊原康政の奇襲によって浅井朝倉連合軍は総崩れとなり敗走することとなった。
姉川後、浅井朝倉軍は織田との戦いで終始不利な立ち回りを強いられ
他勢力を巻き込んでの対織田でチャンスはあったものの義景は積極的な軍事行動は取らなかった。
信長の再侵攻を止める手段は既に無く、義景の号令に従う将もほとんどいなくなり
最期は、従兄弟の裏切りにあって自刃したとされる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【MoE】独断と偏見のあいだ Master of Epic - Days 22
南北朝時代の終焉から627年、京阪電気鉄道設立から113年、任天堂の据え置き型ゲーム機「Wii」が北米で発売されて13年、年始から323日目、猫叉Masterの誕生日、松永久秀の命日、国旗の日に。
ただの前回のやり残しで、本来の内容を次回に先延ばしにしたよ。
Obsidianの次回作が、子供がちっちゃくなって虫と戦いつつ庭を巡って元に戻ろうとするとかいうゲームで、
どこへ向かっているんだろうって。
反省してまーすのはずのタシロス、また駄目だったかぁ…
と思っていたら、別に…呼んでもいない人まで捕まってた。
<nikki>
パルケエスパーニャ行ってきました。
パレード開始時間に丁度通りがかっただけで最前で見れるので、
興味がある方は行ってみてはどうでしょう。
</nikki>
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【PCエンジン】太平記 その2
義貞「丹波は治安が悪い。せっかく持っていった金と名刀も全部山賊に取られてしまったわい。」船田「殿、若狭ではその心配は要りませんぞ。」義貞「そなたの能力は高いね。」船田「なにせゲームバランス補正がかかってますからな。」 その1 sm2180400 その3 sm2195034 マイリスト mylist/4803990
【ずん誕2023】小豆長光(ずんだ)
ずんちゃんお誕生日おめでとう\(ず・ω・だ)/
(遅刻しました。)
小豆長光は備前長船長光(鎌倉時代後期)の作、
またはの兼光(南北朝時代)の作と諸説あり、所在不明のため断定されておりません。
”刃に当たった小豆が切れた”という逸話が有名ですが、脳天から叩き割ったことから命名されたという説もあるそうです。
川中島の一騎打ち伝説も含め、真相は莢(さや)の中ですね。
アニメ「魔道祖師」ED 2「不羨」(中国語)
「魔道祖師 (魔道の開祖) 」 は中国の人気ネット小説を原作とした最新アニメです。 中国メディアは、「本作のコンセプトは “新古風、真国漫” (新しい古風、真の国産アニメ)。 キャラクターの衣装や、使われる琴・笛などの伝統楽器、製作チームが蘇州・杭州で取材した魏晋南北朝時代の建築物などが作品のモチーフとなっている」 などと紹介。 多くの中国伝統文化が散りばめられているところも、見どころの1つだと強調しています。 また、魔道祖師の原作は若手作家・墨香銅臭氏による、架空の古代中国を舞台としたBL小説で、 規制の厳しい中国では男性同士の恋愛要素がどこまで表現しているのかも一つの見どころだと思います。
OP+ED 1: sm33678532
番宣PV:sm33566641
主要キャラ登場シーン集:sm33705353
参考:http://pekin-media.jugem.jp/?eid=2589 https://dic.pixiv.net/a/%E9%AD%94%E9%81%93%E7%A5%96%E5%B8%88
山形県山形城(霞ヶ城) 出羽・最上57万石最上氏の居城。
南北朝時代の延文元年(1356年)奥羽大崎から最上に入ったっ斬波兼頼が築城。この山形城を全国で指折りの大城郭にしたのは、第11代城主最上義光でした。
旧宮家の血縁の遠さと戦前・戦後の出来事 皇位の安定継承をめぐる「雑音」を整理する#4
※00:16~00:19の字幕
「作家 泉美木蘭」は
「ジャーナリスト 笹幸恵」の誤りです。
お詫びして訂正いたします。
皇位の安定継承をめぐる議論に役立つ、決定的動画登場!
最近の「男系固執」の論者の主張は劣化の一途をたどっていて、思わず耳を疑うような意見が平気で出てくる様相となっている。
もはや、「バカの底が抜けた」と言うべき有様である。
男系固執派は「旧宮家」を無条件で、由緒正しく皇族に「復帰」するにふさわしい由緒正しき家柄であると信じ切っているが、それは完全に無知だからである。
旧宮家は、南北朝時代の北朝三代目・崇光天皇までさかのぼらないと男系では現在の天皇家につながらないほど血筋が離れている。
それでも皇族の身分にあったのは、その時代における事情があったためである。
しかも、その時代においても「旧宮家」については素行などにおいて様々な問題が取りざたされていたのである。
その他、よく混同される「臣籍降下」と「皇籍離脱」の違いなどについても解説。
それにしても、なぜこんな簡単なことが、わからないのかなあ?
全10回のラインナップ
①悠仁親王殿下のご誕生で「皇室の危機」は去ったのか?
②歴史上の側室は無意味だったのか?
③「男系男子」が正統性の根拠なら足利義満にも皇位継承資格があった
④旧宮家の血縁の遠さと戦前・戦後の出来事
⑤旧宮家当事者の意思表明
⑥旧宮家プランは違憲で婚姻による皇籍取得が合憲の理由
⑦天照大神が皇室の祖先神であることの意味
⑧現在の皇位継承順序をゆるがせにしてはならないか?
⑨敬宮殿下のお気持ちとは?
⑩無理でムチャなルールからより安定的なルールへの転換が求められている